愛すること、愛されること。(6)












夜の屋敷、廊下をカツカツと歩く音が聴こえる。
それは無機質な音で歩く人物の心情を物語るようだ。
心を殺した足音。
使用人部屋とは離れた場所にエドワードの部屋は用意されていた。理由は空室がなかったと。
まあ、それは名目上。恐らく彼の素性を知っている執事、女中頭がこの屋敷内で問題が起きないようにと配慮したのだろう。
そんな事エドワードにとってどうでもいい事だったし、慣れていた。
ちょっと薄暗く埃っぽい部屋。
裸電球の明かりが茜色に部屋を染めている。ちゃんとベッドも布団もある。簡素な机、箪笥といった彼にしてみれば夢のような物がここには揃えられていた。
理由はどうあれ、自分の部屋に満足していた。家畜扱いされていたあの生活に比べたらこの部屋は天国のようだ。そして、この空間を与えてくれたのはこの屋敷の当主、ロイ。彼に感謝していた。
一日の仕事を終えて束の間のひと時を過ごす。
が、今日はいつもと違う。
「あ、痛てぇ」
固いベッドに腰掛痛む箇所を擦る。疲れと共に身体が痛み出す。ロイにきつく掴まれた腕。強引に広げされた両脚。強靭な腰で何度も突かれた秘所。至る場所がズキズキと痛みヒリヒリと熱を持つ。
それでも犯されたという感覚はあっても、ぼんやりとした幸せを感じる。
固いベッドにごろりと身体を横に倒す。それからギュッと自分の身体を抱きしめる。
愛された自分の身体を。
「ありがとな…」
ロイの熱い想いだけで十分だった彼は、ぽつりとそう漏らした。
卑しい過去を背負う自分。それでも彼を恋しく思うことはやめられない。だが、あの書庫での出来事は青天の霹靂だった。
ロイの言葉。「私は男だ。君が欲しい。それはわかってくれ」
その言葉は嬉しくもあり、悲しい言葉だった。
触れるだけの口付けで満足していた。それがこんな関係になってしまった。
愚かしい身体に情けなくなる。
だけど、そっと触れられた箇所を指先で大切に撫でていく。
ふっと小窓に向かい夜の景色を見る。暗黒の世界。その闇に書庫で自分は“日陰者”で良いと彼に告げたことを恥じ、瞳を固く瞑る。
それでさえ贅沢なことだ。
小窓の前で懺悔するように立ち尽くしていると、無機質な音が自分の部屋で止った。
「コンコン
――
その音は乾いた音だった。こんな夜分にこの部屋を訪れる者はいない。良からぬ思いが駆け巡った。
エドワードは警戒しながら静かに返事をする。
「入りますよ」と、声が返ってきた。
アームストロング夫人が開かれた扉の前に立っていた。なんとも圧倒される光景だ。
顔色一つ変えることなく夫人は狭い部屋の中に入って来た。
扉が閉まる音でさえ萎縮してしまう。
小さく夫人の前に佇んでいると。
「旦那様がお呼びです。これに着替えなさい」と、差し出された物に驚愕した。
それと夫人をおずおずと見返しながら両手に汗を掻いている自分に気づく。
着物と帯が目の前に用意されていた。それも使用人無勢が一生身につける品ではない。
正絹生地の長襦袢。それに合わせた帯。
それはまるで、夜の閨をどうぞと言っているようだ。
「あ、あの」
いつも活発に喋るエドワードがオドオドと口ごもる。
「早く着替えなさい」
それでも表情を変えない夫人にこれ以上の会話は無駄だった。言われるままにその長襦袢を手にする。
そして、これを手にすると言う事の意味も理解していた。逆らう事など出来ない。
受け取ったが、一向に夫人はこの部屋から出て行こうとしない。はっと思い夫人に目で訴えながら。
「あの、今着替えるのか」
「そうです」
単刀直入に返事は返ってくる。
要は夫人の目の前で裸になり、着替えろと言われているのである。
微動だ、にしない夫人はその場で腕を組み待っていた。
バクバクと音を奏でる心臓を何とか宥めながら言われるままに着替え始める。恥辱も屈辱も与えられない。それでも僅かなプライドを掻き集めて夫人に背を向けた。それぐらい許してくれるだろう、と願いを込めて。過去を知る夫人にどう思われようと今の自分は違う。
シュルと帯を解く。それからスルリと着物の肩を抜くとバサバサとそれは重力に従って落ちていく。
その姿を夫人は表情を変えずじっと見つめる。
何も言わない変わりにしっかり観察されていた。
固い表情は変わらぬまま、罪悪感と遺憾の想いが交差していた。そう彼が当主に抱かれたという痕跡を確認したからだ。
肌触りの良い長襦袢に着替えて彼は俯きながら夫人と対面する。
わかりきったことだが、夫人から冷たく説明される。でも、それは自分がそれでいいからと書庫でいった言葉と同等の意味だった。
「旦那様が貴方を所望しておられます。ですが、あくまで“愛妾”です。それ以下でも以上でもありません。旦那様が望まれるままに身体を捧げなさい。決して逆らってはなりません」
こうなる事はわかっていた。
だけど、下げていた頭が更に下がるようだった。
「はい」
首は縦に下げるしかなかった。下げた頭と一緒に長い金髪も重力に従ってさらりと落ちてきた。それがまた、やり切れない想いを募らせる。
触れるだけのキスをされたかった。それだけで良かった。
淡々と夫人の説明は続く。
「旦那様の起床は午前6時30分です。貴方は午前4時には自室に戻りなさい。いいですね」
「はい」
何もかも言われるままに。否はない。
嫌と言わなければ、一緒にいられる。それだけが望みだ。


*               *               *


背筋を伸ばし堂々と廊下を歩く夫人の後をひたすら追っていく。
自分はこんなに胸を張って行けないのが、悔しいと思う。そう“愛妾”だから仕方がない。それを望んだのは自分。自責の念に苛められる。
コツコツという規則正しい音。それはこの屋敷の女中頭の足音。
コツ、コッとずれた不音調はこの屋敷の使用人の足音。それぞれの気持ちを反映する音だ。
「コンコン」
扉を叩く。
「旦那様。お連れ致しました」
まっすぐ挑むように夫人は閉まっている扉の前に直立している。威厳正しい態度だ。その後ろには、まるで反対の人間がいた。
心臓が口から飛び出しそうだった。
ここにいる事を当主はどう思うだろう。やはりその程度の安っぽい人間だと蔑むのだろうか。それとも……。
エドワードの選択は一つしかないのに。
夫人は返事が返ってこない部屋の扉を平然と開け中に入る。
その後を追うようにあまり思い通りにならない左脚と共にギクシャクしながら踏み入る。
夫人は部屋の奥で背を向けている当主に向かって。
「それでは私は失礼致します。“愛妾”という事をくれぐれもお忘れなきよう。分をわきまえて下さいませ」
釘を刺すように言い放つと彼の背中に一礼をしてこの部屋を出て行く。
パタリと閉められた音以外この部屋から音は消えてしまった。
沈黙の中、エドワードは肌触りの良い長襦袢のはしょりを握り締めていた。すると機械音が聴こえた。正面を見る事ができなくて彼は俯いていたからわからない。
ロイは振り返って彼を切なそうに見つめていた。
「おいでエドワード」
ロイの声が聴こえた。
その声にビクッと肩が震える。夫人が言った言葉を思い出す。逆らうな、と。だけど脚は一歩も動かなかった。
じっと絨毯の柄を見ていた。すると色彩豊かな柄に異色な物が目に入ってきた。人の脚。
それに気づき徐に顔を上げると力強い腕で抱きすくめられた。
「すまない。こんな思いをさせて。それでも私は君を一番に愛している」
何の抵抗もできない。
だってこの温かな胸は真実の心を表すようにドキドキと音を伝えてきたから。
エドワードはロイの胸に耳を欹て、その音を聴きながら。
「オレこそごめん。こんなんじゃなかったら良かったのに」
自分の生い立ちを責めるしかできなかった。
自分の所為でロイは自由に求めることもできない。添い遂げる事もできない。
それが虚しかった。
エドワードの心を一陣の風が吹き抜けていった。




続く

「愛妾 エドワード」の生活。
こうして彼はロイの「愛妾」となったのでした。ああ――悲しいや。
しかし、アームストロング夫人は何者なの? アルプスの少女ハイジの世界でいうと「ロッテンマイヤーさん」です! もうそれしか考えられない。個人的にすっごく書いてて楽しかったり(>_<)


桜 美由紀 2006/3/19