愛すること、愛されること。(9)
「ホークアイ君、もっと社員に語学力をつけるように教育したまえ!」
「申し訳ございません」
「まったく困ったものだ。我が社は海外と取引をしているのだよ! それなのに言葉がわからなくてどうする」
社長室では怒鳴り声が響いていた。
海外貿易を営むこの会社では言語能力が堪能でなければならない。しかし、何ヶ国語もの言語を操る人間はそうはいない。
社長秘書であるホークアイでさえせいぜい二ヶ国語。社長にお叱りを受ける始末。
人材が不足しているのだ。
いつもの小言に長く付き合っている場合ではない。彼女は淡々と慣れた口調で社長に用件を述べる。
「勉強不足で申し訳ないのですが、早急にその書類の内容を確認して頂きたいのですが」
ロイは、冷めた視線で粗略にペラペラと渡された書類をめくり、ピタリと手を止める。
「はぁ――!? 翻訳も終わっていない物を社長に確認させるのかね」
盛大なため息と右手の三本の指がカツカツカツとデスクを弾く。音のリズムで彼のいらつきがわかる。彼女もこればかりは諌める事ができず、こめかみに左手をあてる。
社長自身も自覚しているはすだ。この社にこの翻訳ができる者が自分を含めて数名しかいない事を。そして、その数名も他の仕事で手一杯である事。
「これは急ぐのかね…」
不貞腐れた低い声が返ってくる。
「はい。うまく事が運べば我が社と取引を願いたいと言っております。独占できる市場商品を持っていますので千載一遇のチャンスです」
「ああ、先日の会議で上がっていたM&Aという会社かね」
「はい」
しばらく書類内容に目を通して、ロイは彼女に鋭い眼光を向ける。
「確かに面白いな。直営のルートを独占する事は我が社の有益となる。が、何故これを読めん奴らばかりなのだ! 腹立たしい」
「これは大プロジェクトになりますので、是非社長自らプランを練って頂きたいと…」
「ああ――わかった、わかった。ホークアイ君、社にある資料だけでは足りんな」
と、先程まで等閑に扱っていた書類を真剣に読み始めた。やっとヤル気を起こした社長を見て安堵の胸をなでおろす。
社長の舵を取るのがこの会社でもっとも大変でかつ重要な仕事だ。
「そうだ。屋敷の書庫にあったな…」
彼の頭脳が先を急ぐようにフル回転しブツブツと独り言を漏らす。それを聞き洩らさず、彼女は早速指示を仰ぐ。
「私が資料を取りに行って来ますが…」
「ああ――」
生返事が返ってくる。凄まじい集中力を発揮し始めている。
「社長!」
「すまん。ああ、ここに書いた資料を持ってくるように。それとエドワードにこれを」
スラスラとメモを書き彼女に渡す。渡されたメモを確認するように目を通す。が、メモの他に先程彼女が渡した書類の一部も返却された。
それにはいつも沈着冷静な彼女も憤慨して怒鳴る。
「どういうことですか。社長以外この翻訳はできないとわかっていますよね!」
折角の集中力も彼女の金切り声に邪魔されてしまった。だらりと背凭れに身体を預け、肘掛に腕を下ろす。しかし、彼は小悪魔的表情を浮かべて秘書の狼狽振りを楽しんでいるようだ。
「ああ、もう一人いるのだよ。エドに書類の半分を渡してくれ」
「はぁ!? しかし、彼は…」
「はぁ」の語尾が馬鹿にしたように上がる。彼女は「彼」という主語を出したところで後の言葉は飲み込んだ。本当は教育を受けていないはずだ、と続けたかったのだ。しかし、彼に好意を抱く社長に失礼な言い方はできない。
ましてこれは専門的分野である。理解できる人間の方が希少だ。
秘書が戸惑っている姿をロイはにやりと見ながら。
「それと書庫担当は執事ではなくエドだから彼に訊くといいよ」
欣然という彼に頭が重くなるのを感じる。
「そんなお屋敷の書籍の数、ご存知でしょう」
少し呆然とした態度で言うが、彼は何ら気にしていない。それどころか、彼の秀眉が右上がりに上がり得意気に話し出す。
「ああ、知っているよ。彼は全て把握しているよ。優秀なのだよ。この社の社員より優れている。それと翻訳も私より彼の方が悔しいが上なのだよ」
苦虫を噛み潰したように微笑する。だけど、彼女にはエドワードの存在を誇らしげに自慢しているように見えた。一使用人である彼を愛してしまった社長はこんな微笑を見せるようになった。
「はぁ――」
まだ信じられないという感じはあったが、社長の言葉だ。ご命令のままに。
「彼は何かと忙しいからね。この旨を執事のファルマンとアームストロング夫人に伝えてくれたまえ。通常の仕事を軽減するようにと」
「わかりました…」
彼女は複雑な心境を抱えて屋敷へと向かった。
* * *
屋敷に入ったホークアイは当主の指示通りに執事と女中頭に彼を借りる許可を貰う。その際、彼女にはいつもの歯切れの良さはなかった。
執事のファルマンは至極当然のように書庫の事は彼に担当させている、と。女中頭は渋々と彼の仕事を別の使用人が変わるように手配を掛け始めた。
いまだ状況が掴めないのは秘書のホークアイのみ。不本意だが、社長のご要望通りエドワードに頼るしかなく執事に居場所を訊く。ファルマンは胸のポケットから懐中時計を取り出して時間を確認すると。
「エドワードはこの時間、庭の方でしょう」
「そう、はぁ…。本当に大丈夫なのかしら」
独り言のように零していると執事からクスクスと笑い声が聴こえた。
「大丈夫ですよ。深夜、旦那様が翻訳の仕事を手伝わせているようですし」
「まあ、そうなの」
「深夜の事はあまり他言なさらない様に願いますね。女中頭が五月蝿いものですから」
ははは、と笑う執事に少し安堵する。
執事に言われたように庭に行くと、ぱっと眩しく輝く金色が目に入ってきた。
金色は忙しく動き回っていた。
どうも書籍を虫干ししているようだ。こちらの気配に気づかず、黙々と仕事をしている。
「エドワード君」
声を掛けると眩しい笑顔が振り向いてきた。
「リザさん。どうしたんだよ」
両腕に数冊の分厚い本を抱えたままパタパタと駆け寄ってくる。金色の三つ編を左右に揺らしながら走ってくる姿はまばゆい。
そして、驚いた。
久しぶりに逢った彼はかなり印象が変わっていたからだ。この屋敷で働き始めた頃は悪ガキ少年のようだったが、今では何やら大人の色気を感じてしまう。
この変化はロイに愛されているからなのか、と考えを巡らす。しかし、彼女は考察する事を止めた。不憫なエドワードが報われないからだ。
彼女は用件を手短に話すと、彼は快く引き受けてくれた。多少のぼやきはあったが。もちろんそれは社長に対してだ。
そこへ使用人の一人、ロゼ。
エドワードと年の近い彼女が走って二人の元へやって来た。急いで来たのだろうハァハァと息を切らしている。
「エドの仕事、私が変わるように言われたの。もぉーあの女中頭、人使いが荒いんだから。エドだってねぇ、大丈夫? よくなった?」
「あ、ワリィーな! うん大丈夫だよ」
「あら、どうかしたのエドワード君?」
「もう治ったんならいいけどエド食い意地がはっているから。拾い食いでもしたんじゃないの。お腹痛いっていうんだもん」
「まぁ、それは大変ね。本当に大丈夫なの…」
「ロゼ、お前なぁ。オレ拾い食いなんてしてねぇーよ! ちょっと急ぎの用だから。オレ、終わったら手伝うからさ」
「わかったわ。じゃあ…」
「リザさん、取り敢えず書類貸して翻訳の方先にやるから」
何の躊躇いもなく彼は分厚い書類をパラパラとめくる。あの社長でさえグチグチと文句をつけた内容なのに彼は意図も簡単に引き受けた。それからホークアイに午後一には終わるだろう、と告げた。
「え、えぇ!? ちょっと…」
その言葉に喫驚している間に彼は室内へと消えてしまった。
そんな数時間で出来る代物ではないのだ、と彼女は慌てて彼の後を追おうとしている。その横でロゼがきょとんと彼女を見上げていた。
何故そんなに驚いているのだろう、と。
この屋敷ではよく見られる光景なのに。
続く
エドワードの天才振りを書きたかったと思う。パラレルでもやっぱり天才!
これは譲れませんね。
次回は「生理ネタあり」/汗。苦手な方スルーしてやって下さいませ。
桜 美由紀 2006/4/4