愛すること、愛されること。(15)
「おかえりなさいませ、旦那様。お疲れになられたでしょう」
アームストロング夫人が満面の笑みで頭を深々と下げた。玄関ホールには使用人全員が当主の帰宅を迎え入れた。もちろん女中頭と執事が使用人達の管理うんぬん手を抜いた事などなかった。むしろ厳しいぐらいだった。その様は出掛ける前と一遍の狂いもなかった。今回は長期に渡り当主が屋敷を留守にしていた。この屋敷を任されていた女中頭、執事は万感の思いでこの日を待っていたのだ。
「長い間、留守を預かってくれて申し訳ない。何か変わった事はないか」
執事のファルマンに脱いだコートを手渡した。執事はコートを受け取り静かに頭を下げ答えた。
「はい、特に変わった事はございませんでした」
寸分違わぬ動作はまるで水が流れるようだ。
ホールを一周ぐるりと見渡す。如何に信用のある使用人達でもそれを統括するのが当主の役目。一通りのチェックを行う。
それが女中頭、執事にとって緊張の瞬間でもある。
ゆっくりロイの黒い瞳が閉じられ、そして開かれた。
「うむ。そのようだな」
その言葉で使用人全員がほっと一息つく。
「さあ、旦那様。旅のお疲れを癒して下さいませ。リビングに珈琲をご用意しております。それにメアリー様もどうぞ旅のお話をごゆるりと」
「えぇ、アームストロング夫人とってもロイ様にお優しくして頂いて、私とっても嬉しゅうございましたわ」
一緒に同行していたホークアイの視線が急に冷たくメアリーを睨みつけていた。ロイもホークアイ以上に凄まじい視線を彼女に浴びせていた。が、本人まったく気づいていない。
その雰囲気は使用人全員に伝わるほどだ。
この婚約者と言われる女性、メアリーは彼女の逆鱗に触れたのであろう。そうでなければこのホークアイ女史がここまで怒りを露にすることはない。
使用人達にとってもアームストロング夫人の次に彼女の存在は強いものがあった。
「まぁ、それはようございました。では、こちらに」
彼女らがリビングへと向かう。それを待っていたようにロイの足は金色の頭を目指した。
顔を見たい。その琥珀色に輝く瞳で笑う君を見たい。
私に微笑を。その身体をこの胸に抱きしめたい。
コツコツと近寄る足音が聴こえていた。
視線は床に釘付けだ。ドキドキと心臓が不調和音を奏でていた。そんなエドワードに隣でロゼが何やら耳打ちしてきた。
「旦那様、何か御用かしら。こちらに来られるわ」
「―――」
今日ばかりはいつもと違う。こんなにも自分は弱かったのだろうか、と思ってしまう。
こんな感情を持ってはいけないのに。でも、今日は後から後から泉のように湧き出てくる。愛されることを知った身体と心は、それを教えてくれた者を待ち望み思う。
「会いたかった」と。
渇望は行動を起こした。エドワードは金の眼をしっかり開き、視線をゆっくり上げていく。黒革の靴先が見え、ズボンの裾が視界に入ったところで。
「旦那様! お待ちですよ」
夫人の冷厳な声がロイの名を呼んだ。エドワードが顔を上げた時には彼の艶やかな黒髪と逞しい背中のみ。落胆の息を吐くのは金色の少年だけではない。その隣、褐色の肌を持つ元気な少女ロゼも一緒だった。
それでも当主は背中越しに懐かしい声色でぽつりと残していった。その場にいた二人にしか聴き取れない小さな声だった。頭を上げた二人には確かに聴こえた、それは。
「また、あとでエド…」と。
当主が去った後、ロゼの表情は明るく華やいでいた。
「ねぇ、聴こえたよね。エドに用があったのよ。いいなぁ…」
「たぶん仕事の事じゃないか。人使い荒い旦那様だからな」
エドワードはそう応えるしかなかった。
旦那様と使用人の関係。それ以上でもそれ以下でもない。何度も何度も念を押される事。そして、念を押してきた。
崩してはいけない。渇望に耐えられなかった自分に恥辱を感じる。
嫉妬。
欲情。
切望。
独占欲。
その他、数え切れない感情をロイに持ってはいけないのに…。
それでも許して、と。そう葛藤するエドワードの顔色は色を失っていく。そんな感情と戦っているとは露も疑わず、ロゼは嘔吐を訴える彼の背を優しく擦っていた。
* * *
屋敷内でも一番広く豪華な作りだ。よく夜会などに使用されるリビング。さすがどの家具も豪華絢爛。職人の技と腕を持って作られた最高級の品々ばかりだ。特にソファーは手が込んでいる。革素材ではなく布地張りのソファーは持ち主のこだわりと素材の確かさを現している。高い天井は空間を広く感じさせた。それを豪華なシャンデリアで室内の彩度、色相、明度を美しくバランスを取っている。
「社長、明日の予定ですが。出社時間は午前10時でございます。その後、重役のみなさまにプロジェクトのご報告をお願い致します。それが終わりましたら――」
延々と続く気配を見せる秘書の説明の声。我が家のソファーに寛ぎながら聞き耳を立てていた。ある程度訊いたところでふっと右手を挙げ遮る素振りをした。それだけの仕草で何を伝えたいのか、わかってしまう。
「私の休暇はいつからかね」
黒髪の紳士は瞳を合わせず、短く尋ねる。
「明後日から五日間です」
「わかった」
「それでは、私は失礼致します。あ、そうです。社長、エドワード君にお会いしてもいいでしょうか」
その場にメアリーがいるだけで口調が冷たい秘書。それが彼の名を言う時だけ普段の彼女の声色に戻った。
「ああ、かまわんが…」
目線を斜め上、ホークアイの方へ向けた。興味があったのだ。彼に関係する事は全て。それほどロイ自身も彼に渇望していたのだ。それでもこの立場が邪魔をする。
「今回の功労者はエドワード君ですから。是非に話を、と思いまして」
「その通りだね。こちらの女性とはまったく大違いだよ」
たっぷり嫌味を込めてメアリーに視線をにっこりと送った。まぁ、この嫌味さえ理解できないだろうと思ったが。この位の態度とらせてもらってもバチはあたらないだろう。本当に彼女には疲れたのだ。むしろロイよりホークアイの方が振り回されたようだが。天然、おバカな女だ。何が、この由緒正しいマスタング家の女主人に相応しいだと、よく言ったものだ。以前付き合っていた女性達の方がマシだった。
ロイの視線はこの縁談を持ってきた女中頭に戦いを挑むように向けた。ピリピリとその場の空気が緊張し始める。
ここで蛇とマングースの再決闘を見る訳にはいけない。ホークアイは「それでは…」と、社長に深々と頭を下げて広間を出て行った。ロイはその後姿に「君だけこの場を逃げてエドに会うとはずるいよ」と未練がましい視線を送っていた。
それから間もなくロイも行動を起こす。
「では、私は自室で残りの仕事があるので戻る。ああー、そうだ! メアリー嬢もお疲れでしょう。うちの運転手に送ってもらいなさい。それでは失礼!」
「はい。ロイ様。またお屋敷に遊びに来ても宜しいかしら」
その問いには無言を通した。しかし、横からしゃしゃり出る声が聴こえた。眉間とこめかみに深く皺が刻んだが、無視。
この場を退室しようと立ち上がったが、そこで忘れてはいけない事があった。
くるりとアームストロング夫人に向きかえった。意志の強い黒い瞳が彼女を捉えた。
「今晩、エドワードを私の部屋に呼んでくれ!」
傍にのんびり構えているメアリーにもはっきり聴こえるように。
これはロイの意志だ。
夫人は瞳をかっと開き、大きく深呼吸する。ぐっと胸の前で組まれていた両手に力がこもった。わなわなと震えている。ロイは鋭い眼光のまま一歩も引くつもりはなかった。
緊迫した空気が張り詰めていた。その闘いから一歩引いたのはアームストロング夫人だった。暫くの後、夫人は肩から徐々に力を抜いた。諦めたようだ。
「わかりました」と、それだけ告げて頭を下げた。
* * *
ウィスキーが入ったグラスを片手でカラカラと回した。氷と硝子の奏でる音色を楽しみながら自室から見える夜景に舌鼓を打つ。
この日を心待ちにしていた。
長旅の疲れを癒してくれる存在。エドワードを抱きしめる事ができるこの瞬間。
懐かしい音が聴こえた。扉を叩く音。この叩き方は彼だ。
「お入り、エドワード…」と、踊る心音を抑えてロイは扉に向かって声を放った。ああ、変わらない返事が耳に届く。
ロイは扉の前に佇む彼を視界に入れた。金色の髪が眩しく瞳を支配した。それからほっそりとした体つき。今日は桜の花ビラをあしらった長襦袢。
ああ、早く顔を見たいと。
「こっちにおいでエドワード」
深々と頭を下げているエドワード。表情を窺う事はできない。
「お帰りなさいませ。旦那様」
堅苦しい挨拶が返ってきてロイはため息を一つ。それを物語るように黒革張りの椅子がギィーと落胆を表すように鳴いた。
その場から動こうとしない彼に業を煮やして、ロイ自ら彼の傍に歩んでいく。近づくにつれて、彼の身体が小刻みに震えているのがわかった。琥珀色の瞳をこちらに向けてくれない彼。ロイは心配になり覗き込んだ。
するとパラパラと琥珀色の瞳から鱗のように大粒の涙が落ちていた。その様に言葉を失い黒い瞳は射すくめられた。ロイは優しく顔を上げさせて頬を両手で包みこんだ。それから涙の雫を指の腹で拭ってやる。
「ああ、君に逢いたかったよ。そんなに泣かないでおくれ」
「――っく…」
漸く、大粒の雨が止んだ。すると彼の口からいつもの罵声が飛び出した。
「泣いてなんかいない! ちょっと目にゴミが入っただけだ。この馬鹿、旦那様!」
「やっと君らしい笑顔が見れたよ。君に沢山の土産話があるのだよ。その前にと…」
ロイはぎゅっと彼の身体を抱きしめた。
太陽の匂いがするエドワード。そっと口唇を奪おうとすると、彼も頬を桃色に染めて口唇を求めてきた。こんな嬌態を取られたのは初めての経験であった。嬌態まではいかない。それは酷く幼い行為で初々しかった。
彼が初めて自ら口唇を求めてきた。欲情に振り回れている時以外、絶対に性行為を強請らない彼がと思うとロイは嬉しさで胸が苦しくなった。
ゆっくりと濡れた口唇がロイに重なる。それから少し背伸びをしてロイの背にぎこちなく手を回した。
ロイはこの日を忘れないだろうと思った。
「エド、今回は君が作成した資料と翻訳の内容が先方に非常に褒められてね。スムーズに取引ができたよ。本当に君をあの商談の場に同行させたかった」
「そうなんだ。仕事うまくいったんなら良かったよ。まぁ、オレ様が書いたもんにケチつける奴はいないさ!」
書斎の黒革の椅子にロイがどっしりと掛け、その膝上にちょこんと彼は乗せられていた。もちろん書斎机には色々な書類の数々が点在していた。暫くはまた、ロイの私的秘書としてエドワードに手伝って貰うことになりそうだ。
「痩せたかね。それに少し顔色が悪いようだ」
この部屋に入ってきた時から、それが気になった。一ヶ月、会わぬ間に悪く言えばエドワードはやつれていた。よく言えば鮮麗されて艶を増した感じがある。
本人は「――何もねぇーよ」と、愛想のない返事を返してきた。ロイはもしかして、と彼の下腹部に手をあて訊く。
「今日は“月のもの”かい…」
「ち、違う!!!」
その質問に顔を真っ赤にしてポカポカと彼の胸を叩く。その位の元気があれば大丈夫とロイはこの時笑っていた。だが、本人にしてみれば結構深刻な状態であったのだ。そんな事言えるはずもなくエドワードはひた隠しにしていたのだ。
「じゃぁ、今晩抱いてもいいかね。いや、抱きたいな…」
耳元でふうっーと息を吐きかけるように彼は訊く。その耳がほんのり色づいてこくりと頭が下げられた。ロイの手が長襦袢の褄下から滑り込んで裾を開いていく。恥ずかしがるように胸に顔を隠すエドワード。ロイはその先の朱色の腰巻をぱらりと捲り白い太腿に触れる。桜色と朱色、景徳鎮を思わせる白。その三色に視覚から犯されていく。欲情がメラメラと燃え上がる。
一ヶ月もの禁欲生活を解禁した。ほぼ禁欲生活を強いられたのだ。
メアリーと何度か男女の仲に無理やりさせられた。もちろんアームストロング夫人の差し金だ。けれども、ロイは一度も達する事ができなかった。
それは今迄、百戦錬磨で名を通していた男が情けないほどの失態であった。しかし裏を返せば、それほどエドワードの名器に溺れているということだ。
ロイはこの数日間、毎晩エドワードを抱き続けた。情熱と愛情を込めて。
続く
旦那様が帰国されました。
久しぶりエドワードとの逢瀬は激しいものでしょう。実況中継できないのが悔しい。
その代わりに、こちらの挿絵で妄想してください。
繭良さま、より頂いた「愛すること、愛されること」のイラストだ!
★ ちょっとHだぁ、それでもOKな方、必須だ。
ロイがホークアイ秘書から頂いた休日、如何にロイがエドワードを求めたかわかるはずだ。
桜 美由紀 2006/6/6