愛すること、愛されること。(16)












いつも目覚めると虚無感を残して彼はいなくなる。残されたロイは傍らの冷たいシーツを毎回手繰り寄せて目を覚ます。
どんなに熱い一夜を過ごしても蜃気楼のようにいなくなる。彼の全てを手に入れる事はできないのだろうか。そう思うと毎夜、彼の身体を激しく求めてしまう。


ところが今日は違っていた。
始まりの朝。
温かいと思った。腕に包み込む癒しの温かさを感じた。
ロイの瞳にぱっと飛び込んできたのは、カーテンの隙間から射し込む日の光ではない。それよりもっと明るい金色だった。
陽射しの高さは当主が起床する時刻だ。それなのにエドワードが自分の胸にこのベッドに身を横たえている。
驚きに声が出そうになったが、寸でのところで押し止めた。この幸せをもっと感じたくて腕に力を込めた。
金色の頭をそっと撫でながらほっそりとした肩を抱きしめる。
至福の喜びをロイは味わっていた。
このまま日の光を浴びながらずっと抱きしめていたかった。
彼を妻に迎えることができたら叶う願いだ。けれど、現実は
――成就されていない。それを考えると感傷に浸ってしまう。
そこでロイはやっと現実へと引き戻ってきた。
このまま一緒のベッドで眠っていたいのは山々だが、これがあの女中頭に知れればエドワードが肩身の狭い思いをする。穏やかに眠っている彼を起こすのは忍びがたい。しかし、止む得ない。
寝過ごした理由はロイに全面的に非がある。彼もそれをわかっているのだ。過度の「SEX」が彼の身体に負担を掛けていること。それでも抑えることができない男の性。
ロイは金色の頭に向けて苦笑いした。
だが、そこではたと気づいた。ロイはベッドから身を起こし、エドワードの美麗な顔を隠す金色の前髪をそっと掻きあげた。すると秀眉はきつく寄せられ、薄っすらと額には汗。寝苦しそうに身体を小さく折り畳んでいた。
「エドワード、大丈夫かい」
明らかに苦痛の色を見せる彼の肩を揺すり起こした。やがて薄っすらと琥珀色の瞳が何度か瞬きを繰り返し、ぼんやり開かれた。
「うわぁ
――!?」と、奇声と共に身体を跳ね起き上がったつもりが、ぐったりと力を失って夜具に埋もれた。
頭上からは「エド…」と、心配そうに自分の名を呼ぶ声が聴こえた。
急に覚醒した頭がフル回転していた。朝の陽射しが射すようにエドワードの瞳に入ってきたのは屋敷の主人の気遣わしい顔。
ロイが起きる時間まで寝入ってしまったのだ。例の如く一度起きたのだが、身体が今のような状態でどうする事も出来なかった。急に動いた身体は胃から内容物が迫り出すような激しい嘔吐感に悲鳴を上げた。
「ウッ
――
短く嗚咽を漏らし、手で口元を塞いで抑えた。身体を胎児のように小さく丸めて、苦痛を耐えるためにギュッと夜具を掴んだ。
ああ、こんな事をしている場合ではないのはわかっているのに身体が動かない。凍えるように肩が震えていた。
ロイはエドワードの異変にまず驚いた。
愛する人の苦しみに気づかず、幸せの絶頂などと感じていた自分が愚かな存在に思えて、ぐっと口唇を噛み締めた。
すぐさまエドワードの震える背中を擦った。「エドワード…」と何度も優しく声を掛けながら。
漸く、苦しい息を吐きながらエドワードが身体を起こそうとした。
「そのままでいいから眠っていなさい」
ロイが優しく身体を夜具の中に戻す。それでも彼は何とか荒い息を吐きながら身を起こそうとした。
――ハァッ、怒られるッ。ホント、寝てる場合じゃないんだよ!」
涙で瞳を潤ませて必死になっているが、身体は自分が思うように動いてくれない。エドワードは歯がゆくて仕方がなかった。ロイはベッドの端に腰掛け、宥めながら金色の頭をベッドへ沈ませていく。
「いいから。私がアームストロング夫人に話をして上げるから…」
彼女の名を出した途端、エドワードは血相を変えた。
「やめてくれよ! そんな事したら、もっと…」
言葉が後に続かない。それでも彼が伝えたかった言葉はわかる。だからといって「はい、そうですね」と引き下がる訳にもいけなかった。
今にも泣き出しそうな瞳が痛ましい。動かぬ身体がヒックヒックと嗚咽を漏らし始めた。ロイは枕に埋もれる彼にそっと額を合わせた。温かい
――微熱を感じる。それからロイは自分の大きな手を琥珀色の瞳に覆い被せた。そして、呪文を唱えるように。
「とにかく今は眠りなさい。君に無理をさせている私が悪いのだよ。すまないね…」
ロイの言葉が頭の奥にゆっくりと浸透していく。どうする事もできない闇に包まれてエドワードは意識を手放した。


*              *               *


何やら声が聴こえる。それは書斎がある部屋からだ。
ゆっくりと重い瞼が開かれた。琥珀色の瞳がぼんやりと天井を見つめていた。部屋には射すような光はなかった。カーテンが遮光して部屋の明度を薄暗くしていた。枕元に投げ出していた左手をだるそうに額へ上げた。
荒々しい声色。激しく罵倒する声色。
喧騒は書斎から聴こえる。内容はわからずとも雲行きはよくないようだ。
「ふうっ
――起きねぇと…ヤバッ」
と、エドワードは両肘に力を込めて起き上がった。ぼんやりとした頭は回復しないが、今朝ほどではない。サイドテーブルに置いてある時計の短針を見て茫然とした。どう、取り繕うにも言い訳のできない時刻だ。腹の底からため息が出た。
それでもと、倦怠感で悲鳴を上げる身体は床に足をつけた。どうにか寝乱れた長襦袢を身繕いしながらフラフラとベッドの柱に掴まり立ち上がる。吐く息が荒い、汗が滲み出る。それでも、手で壁を這うようにして足を前へと出す。
前へ進むことで何かが変わる。そう信じて生きてきた。だからヨロヨロと足を前へ出す。体調は身体を動かすにつれてゆっくりと回復してきた。クラクラしていた頭も少しは鮮明になってきた。
そして、声色が大きくなるにつれて内容がわかってきた。


「エドワードはいつから体調が悪かったのかね」
「はっきりとした事はわかりかねますが。最近だと、仲の良い使用人が申しておりました。それが…」
この淡々とした口調は女中頭だ。いつもの口調に冷酷さが加えられているようだ。
「それがではない! 今朝方、倒れたのだよ。今は眠らせているが…。とにかく医者を呼ぶように手配してくれたまえ」
ロイが声を張り上げて夫人と対峙している。
狼狽する主人に対して、こちらは冷静な判断を取らざる負えない。この由緒正しいマスタング家を代々守り続けてきた。家柄、名声、その他全てにおいて穢す事は許されないと彼女は思っていた。
それで当主とエドワードの如何わしい関係に対して、彼女の口から冷たく卑劣な言葉が飛び出すことも間々あるのだ。
「たかが使用人の分際で当家の主治医を呼ぶなど言語道断です!」
「失礼だね。使用人の分際とは、夫人! エドワードは私の大切な…」
「大切な…何ですか。旦那様、使用人兼“愛妾”でございますよ。体調が悪いようでしたら自室に戻らせ本日の仕事は休みをとらせます。それで、ようございましょう」
ロイはぐっと握り拳を作る手に力を込めた。
後の言葉が続かない自分が愚かしい。何と言い返そうとも今の彼の扱いは彼女の言う通り“愛妾”なのだから。
それでもロイはエドワードを“妻”に“妻同然”に思っている。
――眠っているからこのまま部屋で休ませよう」
妥協したように声色は低かった。それに対しても夫人は容赦なく食らいついてくるのだ。
「なりません! 旦那様のお部屋でなど厚かましい。内密な事ですので執事に頼みまして自室に連れ帰ります」
「何を言っているのだね。病人なのだよ。それも私が愛する者を他人の手に任せるなど許せん。貴女がそう言うのだったら私が自ら彼の部屋に運ぼう」
ギラッと夫人を睨み上げた。それだけは絶対に譲れない。
「いい加減になさいませ」
両者一歩も引かない。このままでは平行線を辿るばかりの会話だ。


寝室の片隅で二人の遣り取りを壁に凭れて、じっと聴いていた。
元凶は自分なのだ。
エドワードは自嘲するように薄く笑った。そして、この場を解決する為に対峙する二人の空間へと足をゆっくりと踏み入れた。
扉の先の場所は空気が刺々しく、とても長居出来る空間ではなかった。それでも自分さえ当主の寝室から消えればロイが苦悩することはないのだ。女中頭もこれ以上言及することもないだろう。
ロイの気持ちは充分すぎるほどわかっていた。その気持ちだけで充分だ。後の尻拭いは自分でする。自らの健康管理ができていない自分が悪いのだからと。
歪む床にしっかり足をつけて根を張った。
「エドワード!? ダメだよ。寝ていなさい。まだ、顔色が悪い」
睨み合う二人の世界にエドワードがふらふらと姿を現した。
ロイは彼の姿を見て一番に驚き、駆け寄ってきた。そして、肩を優しく包み込まれた。その表情は心配しすぎて彼の方が今にでも倒れそうだ。
「あ、ロイ…」と当主の名を呼んだところで女中頭の鋭い眼光がエドワードを射止めた。
それに痛いほど気づき身体は強張る。そう、どんなに寵愛されようと日が明るいうちは“旦那様”と“使用人”。日が沈めば、“愛妾”に名が変わるだけ。
この関係を忘れてはならない。
それでも自分が彼に愛されている。それが心の支えだ。
「旦那様、大丈夫だから。自分で部屋に戻るよ。心配掛けてすみません」
蒼白な顔で無理やり笑顔を作っているのがわかる。その切ない顔がロイに色んな感情を溶鉱炉でグツグツと煮え滾らせた。
やんわりと肩を抱く手から逃れるように壁を伝って足を進ませた。
「だけど、エドワード…。そんな状態では」
「今日は仕事を休ませて貰う。いいんだろ」
夫人に顔を向けると、彼女は今迄荒げていた表情をいつもの顔に戻していた。しかし、彼の顔を見ようとはしなかった。
そんな夫人の態度に舌打ちしたくなるが、ロイは激情を抑えて睨みつけた。
「医者に診せる。貴女が手配しないのならば私がやる!」
ツカツカと夫人の横を歩いていき書斎机の電話に手を伸ばした。そこで、その行動を制止するようにロイの背後から夫人が声を上げた。
「わかりました。明日、ヒューズ様の所に行かせましょう。よく考えてみればもし、労咳などやっかいな病でしたら他の使用人に迷惑が掛かります。エドワード、いいですね。明日、ヒューズ医師のところに伺いなさい」
―――
「アームストロング夫人! 貴女という人はそこまで言うかね。一体エドワードの何をそんなに毛嫌うのだ! この子が何をしたと…」
ロイが夫人の肩を猛烈な勢いで引っ掴んで、顔を突き合わせて声を荒げた。それでも動じない夫人は静かにため息を吐く。
「旦那様、一時の感情に惑わされてはなりません。貴方様はマスタング家の当主でございます。下賎の者と関わりあう事は御家の為になりません。婚約者のメアリー様にご愛情を注ぎ下さいませ」
――貴女はエドワードを下賎というのか!」
肩を掴む手に力がジワジワと篭もっていく。ギシギシと骨が軋むような音が聴こえそうだ。
一触即発の均衡状態から金切り声が上がった。
「もうやめろよ! 頼むから…」
エドワードの悲鳴にも似た声がロイを我に返らせる。
気づけばロイの激昂する身体をふらつくエドワードが止めに入っていた。何度も頭を振り乱して懇願していた。
もう見たくなかったから。
残虐で氷のような黒い瞳。人を人と思わぬ非道な男。全てを金で手に入れてしまう男。始めて出会った頃のロイの瞳が過ぎる。
「エドワード…」
「旦那様、この子の方が分を弁えているようですね」
「くっ…」
苦虫を噛み潰したような表情を露骨に表した。それから、夫人の肩を掴んでいた手を突っぱねるように外した。
エドワードには沈痛な表情を向けた。すると「心配するな」と逆に励まされるように薄っすらと微笑を返された。ロイの胸は余計グッと締め付けられた。
夫人はエドワードの肩を抱きロイの傍から離れる。それに従順に従ってエドワードは歩いて行く。金色の髪が揺れながら扉から出て行こうとしている。それを黙って視線で追うことしか出来ない。
何と情けないことだ。こんなに愛しているのに、狂おしいほどに愛しているのに何も出来ない。財力、権力、名声、全てを手に入れることが出来るのに唯一つ手に出来ないモノがある。
それは、愛する人。
閉まる扉の隙間からエドワードが蒼白な顔色でロイに微笑む姿が視界にすっと入って、そして消えた。
ロイの瞳にはいつまでもエドワードの憐れな残像が残った。




続く

あぁーまた、負けたぁ…。旦那様編!まだまだ、彼への愛が足りないんだよ。
しかし、強すぎるアームストロング夫人!
エドワードにとある予感が…。そろそろですよ!


桜 美由紀 2006/6/13