愛すること、愛されること。(17)












「エド、入るよ」
聴き慣れない足音が部屋に近づいてきたと思った。コンコンと扉を優しく叩かれた。この部屋の扉を叩くのは唯一人。女中頭のみ。
だけど、この叩き方は彼女ではない。
ベッドからゆっくり起き上がると建て付けの悪い扉が軋みながら開かれた。
扉の前にはロゼが心配そうに笑っていた。
「あ、寝てていいよ。気分どう?」
「ロゼ、どうして…。此処に」
金色の髪を気だるく掻き上げながらきょとん、とした表情を向けた。
「うん、ちょっと待って。えぇっと机に置いていいかな…」
彼女の両手には盆が持たれていた。何やらカチャカチャと音を鳴らしながら簡素な机にそれを置いた。それから、ぐるりと部屋を一見して一言。
「この部屋結構ボロね。私達の部屋の方が作りいいわよ。もう信じられないわ! それよりエド、大丈夫? 倒れたって訊いたから」
仕事を休み自室で休んでいたおかげで幾分体調は回復していた。倦怠感は残るが、今朝よりはマシである。
「うん、今はね。だいぶ良い。それよりここ来たら不味いんじゃ」
「旦那様に頼まれたのよ。エドが倒れたからって様子を診てやって欲しいって」
腰に両手を当て彼女は茶化すように喋った。思ったよりエドワードが元気そうなのでロゼは、ほっと安心した。強張っていた頬も今では自然な膨らみを持っている。
彼女がそれほど緊張したのには理由がある。それは屋敷の当主が直々に頼んできたからだ。それも女中頭に内緒でエドワードを見舞って欲しいと。一途に黒い瞳が自分を見ていたのが印象的だ。その瞳がロゼを映していない事は明白だったが。それでも彼女にしてみれば、別の意味で胸がときめく瞬間だった。
「旦那様が…」
肩肘をマットにつきながら身体を起こしかけていた。その彼の瞳が斜め下を見つめた。もちろん瞳は困惑という色を出していた。
ロゼはそんな彼を尻目に、盆に被せてあった布を取った。
「エド、あのね…。あなたの体調が悪いって、料理長のスカーさんに言ったらね。すごいのよ!」
ほら、と盆に乗せられた物を誇らしげに見せた。
食欲をそそる匂いと一緒に温かい湯気がエドワードの目の前に現れた。
――すっげぇー! これスカーが…」
さっきまでの物憂いな表情が一変した。
温かな湯気を出す皿の中身はエドワードの好物、シチューだった。
「そうなのよ。わざわざエドの為に作ってくれたんだからね! 私もちょっと頂いちゃったけどね。これは内緒よぉー、あの女中頭に知れたら…ああ、こわ…」
「あぁー、オレが前シチュー食べたいって、好きだって言ったの覚えてくれてたんだ」
「へぇーそうなの。すっごい無口で怖い感じだけど根は優しいんだね。私がエドの事ボソッと言っただけなのよ。そしたら「待ってろ」って。「これは消化にいいから食べさせろ」って持たされちゃったのよ」
「そうなんだ」
エドワードはしみじみとシチューを見つめた。
使用人の好物などこの屋敷の食事でめったに出てこない。全ての食事はこの屋敷の当主の為に厳選して作られているからだ。使用人達は料理長らが忙しい合間に作ってくれたまかない飯を食べている。
それなのに自分の為だけに食事を作ってくれたという。これほど嬉しい事はない。
「どう、食べれそう?」
俯いている彼を覗くように見るロゼ。そんな彼女ににっこり満面の笑顔で返事をした。
彼も久しぶりに食欲が湧いてきた。一口、一口味を噛み締めるように食べた。大層な食材は入ってないが、それがかえって今の彼に良かったみたいだ。
本当に美味しかった。心遣いが美味しかった。
人の温かさが、五臓六腑にしみわたる。これも人に愛されると言う事の一つだろう。
にっこり笑顔で食べるエドワードにロゼもほっと安心した。
「エド…良かったね。ちゃんとあなたには味方がいるからね。私やスカーさん、そしてリザさん、ハボックさん。あんな女中頭の言う事なんか気にしちゃダメだからね」
空になった皿を見つめながらエドワードはゆっくり頷いた。
薄々感づいているのだろう。今回の件を、そしてロイとの関係を。それでも遠くから見守ってくれている彼らに改めて感謝した。
「うん。ありがとな。何かこれで元気になりそうだ。そうだ、これスカーに渡しといて」
ゴソゴソとベッドから届く範囲にある机の引き出しから分厚い本と紙束を取り出した。
「何、それ?」
不思議そうに渡された物を見つめる。
「あぁー、この間、黙って本を見ているスカーがいたんだ。何やってんのか、訊いてみたら。「旦那様の為にもっと美味しい料理を作りたいから勉強したい。でもこの外国の本は読めない」って、だからオレが翻訳してやるって約束してたんだ。ちょっと遅くなったけどな…」
このご時世、全ての人々が字を読み書きできる訳ではない。現実はその教育を受けたくても受けられない人々が多い。現にこうして勉学より仕事。ロゼ達のように年若い時分より、どこぞの屋敷に住み込みで働く者の方が多かった。
そんな中、稀にみる才能を発揮しているエドワードは憧れの的でもあった。それなのに、決して自分の能力を自慢するわけでもなく、さり気なく手を差し伸べる。
等価交換そんな原則はない。だから代価はない。それでも彼は快く引き受けていた。
「自分が好きでやることだから」と。
唯、口唇の端を上げ、大きな琥珀色の瞳をぱっちり開けて笑うだけ。
「そうなの…。エド、お屋敷の仕事もあるのにすごいね。あなたが旦那様に特別に思われる気持ちわかるよ」
そう言いながら彼女は渡された物をペラペラと捲って見ていた。彼女が読んでわかる代物ではない。それでも熱意は伝わってくる。
使用人達の間で噂される彼の卑猥な素性、そして屋敷の当主との仲。
噂に戸は閉められない。
それを知っても今の彼が真の姿なのだろうと確信する。そして、陰乍ら応援したくなるのだった。
此処で彼と話していると心が洗われるようだ。ほんの些細な邪心も彼方へと跳んでいく。変わりに純粋無垢な魂がふわっと心に入ってくるのだ。
もっと彼と色んな話をしてこの長い夜を過ごしたかったが、彼には休養が必要だ。ロゼは薄い掛け布団を彼の肩まで掛けて、ポンポンと金色の頭を撫でた。
「ゆっくり休みなさいね。エド」
「うん、ロゼありがとな。それからスカーにも…すっげぇ、美味かったって」
にっこりと微笑んでロゼは、この部屋の扉をゆっくり閉めた。
ロゼが帰った部屋はまた静まり返った。
シーンと音が消えた部屋。聴こえる音といえば、隙間から風が入ってきてカタカタと部屋の戸板が重なり合う音だ。
寂しいと言えば嘘ではない。
しかし、心は温かかった。
ロイの私室で精神的に攻撃を受け、心も身体も疲労困憊していた。それでもロゼの見舞いがエドワードの枯れた心に水と栄養を与えてくれた。
彼女を寄越してくれたのはロイだ。それを思うと彼が、いかに自分のことを愛してくれているのか量れる。
“愛妾”と言われるが、それ以上の愛情をロイから沢山貰っている。金子や高価な品物ではない。形に表すことの出来ない愛情。エドワードはそれで充分満足している。
硬いベッド、薄い毛布でも今日は暖かく柔らかい。まるでロイの胸に抱かれているようだ。天窓から僅かに見える星が視界に自然と入ってくる。キラキラ輝く星。次第に瞼は下がり深い眠りに誘われていった。


*               *               *


「わりぃーな、ロゼ」
「ううん、いいのよ。気にしないで。だって女中頭から一緒に行くように言われたんだから。それに、こうして屋敷の外に出れるのは嬉しいし」
彼女の足取りは軽く可憐にステップを踏んでいる。そんな彼女の後姿を眩しそうにエドワードは見つめていた。
彼女の軽やかなステップとは正反対に彼の足取りは鉛のように重かった。体調が芳しくないのも一つの原因だ。それと、行き先が病院だからだ。


天窓から射す光で目が覚めた。何度か瞬きを繰り返して、ゆっくり意識を覚醒させた。金髪のほつれを掻き上げながら身体を起こした。体調はすっきりしないが、昨日のように激しい眩暈はなかった。やはりあれは溜まり過ぎた疲労の所為だったのだろう。
そう思ってエドワードはベッドから下り、着替え始めた。
もちろん着物は木綿。地味な色、そして柄。着物の丈は動きやすいようにくるぶしより五寸ほど上だ。
それが余計貧相に見えてしまう。
帯をキュッと締めたところで少し胸が苦しい。着物の袂を口元に当て吐き気を凌いだ。やはり体調は優れないようだ。それでも仕事をしなければならない。気持を引き締めるために、背に垂れる長い金髪をきゅっと後頭部できつく結い上げた。
それから、エドワードは身体を叱咤して仕事場へ向かった。
使用人達の朝礼が始まる前に、まず彼に課せられた仕事がある。もちろん他の使用人達も面々に振り分けられている。エドワードは階段の拭き掃除だ。
そこをいつものように冷たい水に雑巾を浸し拭いていた。すると朝日を遮断する影が床に長く現れた。ふっと上を見上げれば、その場にアームストロング夫人が立っていた。
彼女の表情に微笑みはない。いつもの鉄仮面と淡々とした口調でエドワードに話しかけてきた。
「今日はロゼと一緒にヒューズ様の病院へ行くように」
エドワードは立ち上がり、その命令を渋るような表情で夫人を見上げた。
「あ、オレ体調良くなったからいい…」
「いいえ! 旦那様とお約束しましたから行って頂きます。それに労咳だったら私達も困りますからね。いいですね!」
強い口調で言われた。まるで腫れ物に触るような扱いだ。当主の“愛妾”という立場だから仕方がない。それと嫌味もたっぷり含まれていた。
「はぁ〜い…」
気のない声で返事を返すぐらいの抵抗しかできない。最初から相手にしようと思っていない。けれど、ちょっぴり恨めしそうに睨み上げた。
くるりと背を向け立ち去ろうとした夫人はピタリと足を止めた。
怪訝そうに彼女の行動を見ていると。
「もし、……貴方の身体に旦那様の
――
――?」
夫人は、背を向けたままだ。表情を伺う事はできない。一体何を話したかったのか、わからない。その場の空気が澱んだ。
「いえ、結構です。何もありません」
そう自分だけ納得したように夫人は振り返ることなく消えていった。
夫人には一抹の不安があったのだ。彼の病状を“労咳”などと貶した言い方をした。しかし、その症状は悪阻そのもの。もしや“妊娠”しているのではないかと。
杞憂に過ぎなければ良いのだが、そう思って彼女の足は進んでいった。




続く

ちらほらと…話が動き始めました。
しかし、冷たいものだアームストロング夫人!


桜 美由紀 2006/6/20