愛すること、愛されること。(19)












ヒューズの口から“妊娠”という単語を訊いてから後の記憶が定かではなかった。
「相手の男は誰だ? 金髪の運転手の兄ちゃんか? おまえら仲良いみたいだからな」
ヒューズがにこりと笑みを零し、茶化すようにエドワードに訊いてきた。
勿論、この笑みの裏側には複雑な願いがあった。そして、彼のこの言動には真意を確かめる為に巧みな話術が施されていた。
だが、ヒューズの祈りは虚しく天には聞き入れられなかった。
エドワードの表情が固く強張り、視線は覚束ないほど揺れて、膝辺りの生地をきつく握り締めていた。
それを期にヒューズは緩んでいた表情を引き締めて話し始めた。「もう一度ちゃんと検査を受けるように。出来れば相手の男も連れて来い」とか、「悪阻が酷いようだし、身体も弱っているから、仕事は暫く休め。流れる恐れがあるぞ…」と。
何やら注意事項を真顔で話してきた。
けれども、そんな彼らの表情など今のエドワードには、まったく視界に入らなかった。何も見えなくなっていたのだ。
ヒューズの口がパクパクと開いたり閉じたりしていた。エドワードの耳には彼らの声が右から左へと流れていた。そして、どうしようもない畏怖感が身体を戦慄かせた。頭の中では、自問自答が繰り返される。
妊娠。
誰の子供。
ロイの子供。
お屋敷の旦那様の子供。
自分は使用人。そして、過去は淫猥な身体を男達に売っていた。その子供
――
今は“愛妾”。その子供
――


*              *               *


ふと気づけば、西へ傾いた夕陽に向かって、トボトボと歩いていた。横に並んで歩いているロゼが色んな話をしていた。けれども、エドワードの耳には届かなかった。
視界が夕日で真っ赤になる。
帰宅を急ぐ人々の喧騒が聴こえるはずなのに、彼は消音の世界にいた。
まさかの事実にどうする事もできない。
ふらふらと足だけが前へ進んでいた。気持ちは何処かに置き去りにされているようだ。一人世界に取り残されていた。
ふらりと身体がぐらついた。
生きている事を主張するようにエドワードのお腹の子が彼に眩暈を起こさせる。
「あ、エド
――大丈夫」
倒れ掛かる彼の身体を支えながらロゼは道の端に避けた。しゃがみこむエドワードの顔色は蒼白。気分の悪さにエドワードは着物の袂で口元を覆った。
「ウッ
――
目頭が熱くなる。そんな彼の背を優しくロゼは擦ってくれた。彼女には病名は胃炎だとエドワードは嘘を教えていた。
言える筈がない。
そんな彼の揺れる瞳に飛び込んできたのは、喧騒な街中で父親と母親の二人の手に両手を繋ぎ合わせた子供の姿。帰路を急ぐ家族は子供を中心に笑みが耐えない。そして、この夕焼けの中、堂々と歩いていた。
エドワードにとって眩しい光景だ。
自分はこの太陽の下、ロイと並んで一緒に歩くことはできない。
“使用人”だから“愛妾”だから。
でも、夢はあった。
こんな温かい家庭を夢見てきた。誰にも後ろ指を差される事なく、日の光を浴びながら彼と歩きたい。朝日を共に浴びて目覚めたい。
叶わぬ夢の中、この子はお腹に宿ってしまった。
愛されることを教えてくれた男の子供。
どうしても産みたい。珍奇な身体に宿った大切な命だ。
でも、自分がロイの子供を産むことによって彼は窮地に陥るだろう。だから、エドワードは一つの結論を出した。
――ロゼ、もう大丈夫。治まった」
「そう…無理しないでね」
彼はすっと立ち上がった。先程までの迷いはない。
エドワードは前へ進むために一歩足を前へ出した。そして、彼の瞳には光りと強い意志が現れていた。


*               *               *


「ほら、終わったぞ! もう、こんなのアンタの部下にやらせろよな」
一体誰が、この書斎机の持ち主かわからない。この黒革の椅子に座って会社の書類を作成したり、翻訳したりしているのはエドワードだ。
机の上でトントンと書類の束を揃えているエドワードはいつになくご機嫌だ。
ロイは彼の顔を覗き込んだ。そして、顔に垂れている長い金髪を右耳に掛けてやる。
「ヒューズの所に行ってきたか? ちゃんと行かせて貰っただろうね」
ちょっと表情が強張る。
それを彼に気づかれないように、にっこりと笑って、視線だけ上へ向けてロイを見ていた。
「うん。胃炎だって。しばらく薬飲んだら治るだろうってさ…」
「本当に?」
顔色が良くない彼をロイは心配していた。
「うん」
「無理はしなくていいからね」
彼の明るい返事がやけに気になった。それが、空元気のようにも見受けられるのだ。そう、何だか気持ちの整理がついたようなすっきりとした表情だ。
一体、何の…。
と、ロイはエドワードの顔をじっと見つめていた。
エドワードはその視線を気まずそうに見返した。が、ふいっと横に視線を逸らして彼は椅子から下りた。それからテクテクと窓辺に歩いて行った。
「どうしたのだね」
エドワードはじっと窓の外を見つめていた。
外は闇。
日中、この部屋からは美しい庭園が見える。夜の闇の中ではおいそれと見えるはずもない。瞳を凝らして見ていると、街灯によって僅かに照らし出された庭園が浮かび上がってくる。
「なぁ
――抱いてくれないかな」
今迄一度たりともエドワードがそんな言葉を口にした事はなかった。
喜ばしいことだが、耳を疑ってしまう。
彼は背を向けたままだ。何かを語ろうとしているが、それがわからない。それでも彼の唯一の願いを聞き入れたいと、ロイはそう思った。しかし、彼の身体を労わるほうが先決だ。
「ん、どうしたのだね。身体の具合が良くないのだろう。ゆっくり眠るといい」
エドワードは、くるりとロイに身体を向けた。視線はロイの爪先。
口唇を噛み締めながら彼はこういった。
「優しく抱いてくれないかな。ダメかな? やっぱりオレが頼みごとしたりしたら…」
「いや、そんな事はないよ。唯、君の身体を心配しているだけだよ」
「大丈夫…」
「そうかい。辛かったらいいなさい」
その返事にエドワードの頬が薄く色づいた。珍しくエドワードから彼の身体に両腕を回して、片頬をロイの胸に摺り寄せてくる。まるで、その温かさを忘れまいとするように。
ロイはエドワードを優しく抱き上げベッドへと運んだ。随分小さな身体になったものだ、と思う。
壊れ物に触れるようにそっと扱う。
彼が望むように抱いてやろう。
それぐらいしかできない。
ロイの手がゆっくりと帯を解いていく。緩くなった身八つ口から手を差し入れる。温かい肌を感じる。ピンッと固くなった乳首を優しく指で愛撫した。もう片手で襟を肩から抜いた。すると白魚のような裸体が瞳に映し出される。
無残な傷痕が痛ましい。
右肩、肩甲骨辺りから上腕部までの蚯蚓腫れのように残った傷。そして衿下をめくり朱色の腰巻を捲った場所。左脚の太腿にも醜い傷痕。
それでも愛して止まないこの身体。
その傷の一つ、一つを大切に口唇で愛撫した。傷の全てが彼の生き様を表している。彼を大切に抱いた。
「大丈夫かね…」
彼の恍惚とした表情を見たくてロイは顔を上げる。すると、彼の琥珀色の瞳から大粒の涙がぽろぽろと流れていた。
「ごめん…何か、変っ
――
涙を拭う彼の手を優しく掴む。その手の甲にそっと口づけた。それから彼の額に触れるだけのキスをする。涙を零す目尻にも頬にも、そして口唇にも。
優しいキスをする。
あ、あっと熱い吐息が濡れた桜色の口唇から漏れる。
エドワードの耳の下を吸い上げた。彼の感じる部分をロイは丁寧に愛撫した。彼の身体を隅々まで熟知していた。そこを嬲られる度に、エドワードの身体は電流が走ったようにビクビクと震える。そして、触れられていない場所が勝手に濡れる。
グチュグチュと厭らしい音が聴こえてきそうだ。それを知られたくなくて、エドワードは両脚を摺り合わせた。
「ん、気持ちいいのかね」
白い内股に手を差し込み閉ざされた場所をゆっくりと開いた。
「ハァ、うっん。何かすっげぇ嬉しいんだ。オレ…」
指は休むことなく濡れた蜜壷の中を探索していた。忙しく吐き出される吐息の中、エドワードは言葉を吐き出す。
「…こんなオレの身体を優しく抱いてくれて。そして、オレを愛してくれてありがとう…」
「エドワード、そんなことぐらい。私は今でも君を妻に迎えたいと思っているのだよ」
快感に身を踊らされている彼からクスクスと笑い声が漏れた。
「う、ん。いいよ。気持ちだけもらっとくよ!」
「冗談で言っているのではないのだよ。ただ
――
ロイの口から出てくる言葉をエドワードは自分の口唇でそっと塞いだ。そして、ゆっくりと自分から舌を絡めた。彼の言葉を飲み込むように。
彼の気持ちは良くわかっている。わかり過ぎるぐらいだ。だから決断したのだ。
これで良い。
ちゃんと宝物を貰ったから。
宝物は一つで充分だ。欲張ると、ろくな目にあわない。
熱に魘されるように快楽を求める。エドワードの屹立した男根がそそり立ち涙を流していた。それをロイが優しく吸い取る。恥らわずにはいられない行為だ。それでも身体は快楽を求めて暴走した。身体が求めるままに心は従う。
この交わりが最後だからと、エドワードは思っているのだ。
「あ、あっん。ハァッ…欲しい。入れて欲しい。ロイを感じたい…」
ロイの顔を熱っぽい琥珀色の眼にしっかりと焼き付ける。
絶対に忘れない。
この男を忘れない。
愛しているから。愛されたから。
恍惚としたロイの顔をうっとりと見つめて強請った。こんなに積極的に愛欲を彼に見せたことはなかった。
でも、今日は
――。今日だけは――
恥辱も羞辱も今のエドワードにはない。彼との思い出を作りたかった。優しい思い出を…。
――しかし、身体は辛くないか? エドワード」
「ん、んっ…いい。ゆっくり入れて、優しく…お願いだから」
心から自分を欲しがってくれるエドワードが愛らしくてたまらない。
ロイも彼に深い愛情を込める。
「いいよ。辛かったら言うんだよ」
彼が望むように蜜壷に雄々しい男根を当て、ゆっくりと中へ挿入した。いつもより柔らかく、熱い。ロイの一物をそこは、ゆるゆると包み込んだ。
男としてこれほどの淫欲を味わえる事は、そうないだろう。
「あっ…入ってくる」
全ての物を完全にエドワードの中に挿入した。それから彼の小さな頭を両腕で抱き込み、瞳を合わせる。
「入ったよ。動いても良いかね」
耳朶を噛むようにして甘く囁いた。すると喘ぎながら声が返ってくる。
「っ…ん、あっ。ゆ、ゆっくりして、浅く
――
お腹の子供の事を考えた。
けれども、どうしてもロイを身体で感じたかった。エドワードは腹の子供に「ごめんね」と心で囁いた。
ロイは彼にふっと微笑を送る。
君が望むことを叶えてあげようと。
「ああ、いいよ。エドワード今日はいつになく可愛いね…」
二人はお互いの快楽を求め始める。それは激しく貪るようにではない。ゆっくりと律動を繰り返しながらお互いを確認し合う。快感の中、優しく瞳で会話をした。触れるだけの優しいキスをプレゼントした。とても充実した悦楽だ。
心も身体も満たされた。
絶頂を感じ始めたエドワードの四肢をロイが抱きすくめる。どこかへ飛んで行ってしまわないように。
エドワードが全身をガクガクと痙攣させ始めた。絶頂が近いようだ。それに従うようにロイも一緒に昇り詰める。
二人は抱きしめあって快感を共にした。




まだ、暗闇に支配された世界。
東から昇る太陽は姿を現していない。暗い世界に薄っすらと明度が射し始める。
そんな中、エドワードはベッドから静かに下りていた。そして、床に膝立ちで立ち上がりマットレスにぺたりと頬をつけていた。その視線の先にはロイが安らかに眠る寝顔。
そっと彼が目覚めないように艶やかな黒髪に触る。それから頬に触れ、口唇に触れる。それは名残惜しそうに。
彼が目覚めないように細心の注意を払って、エドワードはロイに語りかけた。
――ロイ、オレも愛している。世界中で一番に。でも――さよなら」


そして、エドワードは忽然と屋敷から姿を消した。




続く

これより、エドワード失踪編。
まだま、エンジンが掛からないロイにそろそろ立ち上がって貰いますが…。
それまでに時間がまた、掛かるんだよ。この旦那様はねぇー。

桜 美由紀 2006/7/9