愛すること、愛されること。(20)












――社長怖いですね」
「ええ、この数週間こんな調子なのよ」
ヒソヒソと社長室を訪れた社員達がそう零していく。そして、訪れる社員全てが、何かしらその社長に攻撃されていた。
その原因は……。
数週間前からエドワードが消えたのである。
消えたという表現は相応しくない。マスタング家の使用人としての仕事を辞めて屋敷から出て行ったらしい。
当主と顔を会わせる事なく、屋敷から居なくなったのだ。
前夜あれほど愛を語り合ったというのに
――。まるでそれが最後の晩餐のように彼は忽然と居なくなったのだ。
使用人達を束ねるアームストロング夫人に訊いたところ、夫人は淡々と業務連絡をするように「エドワードは本日辞めました。理由は聞いておりません」と。
その一点張りだった。
何故、屋敷の当主であるロイに許可を得ずに辞めさせたのかと問えば「彼がそれを望んだ」と、在り来りな回答が返ってくるだけだった。
そのあまりの潔さに、もしや夫人の思惑かと彼女を責め上げたが、彼女はそ知らぬふり。かえって、腹が立つ物言いをされた。埒が明かない。
その日からロイは八方尽くしてエドワードを探し続けていた。
それこそ金に糸目をつけず、そして手段は選ばない。今の彼はエドワードと出会う前の冷酷卑劣な男だ。ギラギラと刺すような視線で全てを見下していた。
刀の鞘の役目をしていた愛すべき彼が傍にいないのだ。
どす黒い裏社会で生活してきたエドワードだ。もしや、その伝を頼って危険な場所に潜り込んでいるのではないだろうかと、やきもきしていた。だが、その線を探るにはこの冷酷な仮面は役に立つ。
決して以前のような商売に身を売る事はしないだろうと信じている。それだけは、彼自身の魂が許さないだろう。だが、彼がいないのだ。強い爆風が彼の胸に吹いていた。
金で全てを支配する。金で人の心も買い取ってしまうロイ・マスタング。しかし、エドワードとの逢瀬を知る者は見ていられない姿だ。
社内はピリピリと張り詰めた空気に満ちていた。それは社内だけではなかった。屋敷内でもその緊張感がヒシヒシと使用人達に伝わっていたのだ。


ロイはギスキズときつい眼差しで社長室の重厚な椅子に座っていた。
黒革の椅子は窓を向いている。ロイは窓から見える景色を恨めしそうに腕を組んで睨んでいた。そんな彼を秘書のホークアイが諌めようと近づく。しかし、彼女のきりっとシャープな眉は下がり気味だ。
「社長、そんな顔をされますと…社員が怖がります」
―――
無言のまま彼女の方へ椅子を回した。
だらりと肘掛に腕を乗せ、後頭部を椅子の背に凭れ掛けているその顔は憔悴しきっていた。恐らく気を許せる者にのみ見せる顔だ。
ロイがどれほど彼のことを慕っていたか知る彼女にはその表情はとても切ないものだ。そして、彼女もエドワードの事が心配で堪らなかった。
「社長…まだエドワード君は見つからないのですか」
「あぁ
――
気のない返事が室内を更に暗くする。
「どうしていなくなったりしたのでしょうか」
――それは私の所為だろうね。彼の心に棲みつく闇を取り除くことができなかった。彼との壁を取り除くことが出来ていれば、彼が離れて行く事はなかったのだが…。今となっては全て遅かった――
「社長――」
掛ける言葉が見つからなかった。
このご時世好きあったもの同士、結婚できる確立は少ない。それが大富豪、実業家ならば尚のこと。親が選んだ縁談を甘んじて受け入れる。または事業拡大の為に政略結婚を強いられるそんな世の中だ。
しかるに、その逆もありえる。それにはそれ相応の代価が必要だ。
ロイの苦悩がわかるだけに二人の関係が切なくなるのだった。


*               *               *


煌びやかなネオン街。女達の喧騒が至る所で聴こえる。それを掻い潜って静寂な場所にいた。こんな風に一人になりたい時にくる店だ。
此処は
――
そして、気心の知れた友人と来る店でもあった。
ロイは一人酒を飲みただ、ただ想う。
此処は煩わしく媚態を示してくる女はいない。明度が落ちた室内にポツリポツリと温かなランプが色彩に加わって、その場の雰囲気を彩っていた。
カウンターの端。そこがロイの指定席。
熟年の男がカウンターの中で黙って高級なタンブラーを磨いていた。ロイは黙ってグラスの中身を一気に飲んでいた。
次から次へと注がれる酒を胃の中に押し流していた。
「よ、荒れてるな!」
そこへ聴きなれた声がした。その声でさえ今は癇に障る。声の主が誰なのか、わかるだけに視線を合わすことなく黙々とロイはグラスを傾けていた。
ヒューズはそんなロイを見て苦笑いをして、その顔を店のマスターに向けた。それに対してマスターは困ったような仕草をしていた。
美味しくない酒をがぶ飲みするロイの横に呆れた顔で座るヒューズ。
彼は目の前に出されたグラスにゆっくりと口をつけた。二人の間に会話はない。閑寂な店内の空気が刺すように痛い。
グラスの氷が音を立てた。それはカランと乾いた音だった。その音をきっかけにヒューズが静かに口を開いた。
「今日、おまえさんの屋敷に行って来た」
エドワードがその後、病院にやって来ないのを心配してヒューズ自ら彼を訪ねたのだ。しかし、屋敷には元気に跳ね回る金色の頭がなかった。
女中頭に尋ねてみると「屋敷の仕事を辞め出て行った」と。それとロイの秘書からの救難信号。それでやっとヒューズは話の糸が繋がったのであった。
以前、この場所で酒を酌み交わした際、ロイに早く結婚しろと笑って話していた。
この話が出ると必ず仏頂面をする彼が照れたように笑っていたのが、印象に残っている。あの時、こいつはこう言った。「大切な人がちゃんといる。遊びではなく本当に大切にしたい人が
――」と。その時は珍しいものだと、感心していた。
その大切な人がロイの前から消えたということがヒューズにはわかった。
―――
やはりロイから返事は返ってこない。
それでも構わずヒューズは独り言のように言葉を続けた。
「エドの奴がいなくなったらしいな。それが原因か? この荒れようは」
鋭い眼光でロイを見つめた。その瞳には彼を責めるようなきつい眼差しが含まれていた。隣の男はグッとグラスを持つ手に力を込めた。
「おまえに何がわかる!」
「あぁー、わからんね。だけどこんな姿、エドの奴は喜ばんだろうな」
「好きな女と結婚しているおまえに
――私の気持ちは、わからんだろうな!」
ロイが吐き捨てるように言った後、グラスに手を伸ばした。しかし、横から伸びてきた大きな手がグラスに蓋をした。それからもう一方の手がロイの胸倉をきつく締め上げてきた。ギリギリと布地が擦れ合う音がする。ヒューズの右手は血の気を失っていた。
室内は一触即発している。静かに稲妻が鳴り落ちていた。ロイは狂気するヒューズを上目遣いで睨み上げていた。
だが、ふっとヒューズの肩から力が抜け落ち、手を突き放すように離した。彼は正面をきつく見据えた。その表情は明らかに激憤していた。ヒューズの重い口が開かれたが、やはり口調は冷たく荒い。
「俺だってな、一応大病院の跡取りなんでな。結婚には反対された! それでもグレイシアの事を愛し、彼女も俺のことを愛してくれたから結婚できた。うだうだ悩んでいるおまえさんと一緒にしないでくれ!」
ヒューズこそ何も知らないのはおまえの方だといきり立っていた。
――私だって何度もエドを妻に迎えたいと。だが、彼の口からは傍にいるだけで良いと…」
そう投げやりに言い返してふっと何かが過ぎった。
そうだ。いつも愛を呟くのは自分。
彼からの返事は傍にいたい。それだけ…だ、と。
その琥珀色の瞳は何かに怯えていた。彼の心の闇と過酷な過去が邪魔をするのだ。そんなこと十分わかっていたはずなのに。「傍にいるだけで…」と、悲しい返事が返る度にロイはいつも虚無感を感じていた。彼の心と身体を手に入れたいと思っていたのだ。
本当の彼の気持ちを訊きたかった。
その答え次第でどうにでもなるのだ。それだけの代価を払う覚悟はとうの昔に出来ているのに、彼の本心を訊くのが怖かったのかもしれない。
初めて心の底から愛してしまったから
――
臆病になっていた自分に気づいた。
酒に溺れて、死んだ魚のような眼から生気が戻り始める。ヒューズはにやりと横目で彼を観察していた。
そして、此処に来た目的を告げる。
「エドの奴、妊娠してるぞ。早く見つけてやれ。おまえの子供だろ」
ろくに視線を合わせていなかったヒューズの瞳をロイは確然と見た。ヒューズの瞳に偽りはなかった。ロイの瞳孔はかっきりと開かれ、喉元がごくりと動いた。
ヒューズはロイの表情が輝かしく光っていくのがわかった。あまり感情を面に出すことがなかったロイ。いつも飄々とその場の雰囲気に合わせて表情を作っていた彼。それが今日一日で喜怒哀楽、様々な顔を見せてくれた。彼の心をここまで揺り動かすことができるのはエドワード唯一人だ。
やはり彼の存在がロイの心を大きく支配していたのだ。
ロイの前途に光明が射した瞬間だ。
「マスター水をくれ!」
そう言うとロイは渡されたコップの水をごくごくと飲み干した。口元から溢れた水を手で拭う。酒に溺れていた男の眼はしっかりと前を見据え、黒い瞳は爛々と輝いていた。そして、ヒューズに躊躇いのない真っ直ぐな瞳を向けた。
「すまなかった。君に感謝するよ! 私は何て愚かなんだ。もっと早く気づけば。今からでも遅くはないだろうか…」
「あぁー、遅くはないさ」
やっと美味い酒が飲めそうだと、ヒューズはグラスに手を伸ばした。二三口、酒を味わっているうちに隣の男の気配が消えた。
ヒューズの口から「くっくっ…」と笑いが出た。
「マスター、やっと動いたな。アイツ」
「そのようですね。素早かったですよ。走って扉に向かっていきましたからね」
「あーぁ、またお節介焼いちまったよ俺は…」
ヒューズの口唇がにんまりと上がった。


その頃、ロイはネオン街を走っていた。
少しでも早くエドワードと再会できるようにと界隈を探し回った。それも自らの足で
――
今までは人にまかせきりだったが、自らの身体を使って走っていた。
そう遅くはないのだから
――




続く

ヒューズさん、すっごく良い役しています。
彼がこの話のクッション役のなんですよ。彼のさりげない言葉の一つにロイが助けられる。
少しは原作の味を出したい、と想って書いている桜でした。
が、漸く旦那様重大なことに気づいたようです。これで話は進みます。旦那様が走ります!

桜 美由紀 2006/7/15