愛すること、愛されること。(21)
あまりの気分の悪さにフラフラと仕事場を離れて外へ出た。しかし、外に出たところで新鮮な空気を吸える訳もなかった。たいして先程の場所と変わらない。
女の奇声、酔っ払いの罵声。
建物同士が密集した狭い路地裏までその喧騒は聴こえている。そして、その場所も薄汚く暗い。光の射さない場所。時より泥酔した男や女が迷い込んで吐瀉物を撒いていく。ここは不衛生だ。
エドワードの体調は余計悪くなる。それをぎゅっと胸元を押さえて耐え忍んでいた。
どこへ行っても一緒ならば、今居る所が一番良い場所であると信じよう。夜の空に満天の星が見えるはず。だけど、この場所から眺めることはできない。それでも、あの部屋から眺めていた煌めく星々を思い出そう。
そう想ってエドワードは暗闇の中、夜空を見上げていた。
「おい、アイツ使いものになんねぇーよ」
「ちょくちょく具合悪くされちゃな。困るんだよな」
裏口の扉から男が顔を出している。壁に凭れ掛かっているエドワードを胡散臭そうに見ながら隣の男と陰口を叩いていた。
それも本人に聴こえるようにだ。たちが悪い。悔しさを胸に抱きながら彼らの方をギリッと睨んで毅然とした態度でエドワードは仕事場に戻った。
食うか食われるかの世界。弱みを見せるとあっという間につけこまれる。
洗い場に戻り溜まっている皿を洗い出した。
水は冷たい。真っ赤に腫れた手で食器を洗った。真っ赤な手はところどころ擦り切れてこの冷たい水が傷に沁みる。長時間立ちっぱなしの足は浮腫んで痛みを訴える。そして、その足元から噴出す冷気が身に染み渡る。
調理場の片隅、その洗い場がエドワードの新しい仕事場だ。
屋敷を出てから、出来るだけ人目につかない場所を探した。そして、過去の自分を知る者がいない所を探した。選んだ場所はネオンが煌びやかに光り輝き夜の蝶が舞うところ。
結局はそこにしか生きるすべが見つからなかった。
卑猥な会話が飛び交い、男と女がゲームを楽しむように愛の駆け引きが行われ、欲情が縺れ合う場。そんな店が立ち並ぶ界隈にカフェがあった。昼間は普通の飲食店。夜になると見目麗しい女達が媚を売りながら男に酌をする。
エドワードは店内に出ないですむ裏方の仕事を選んだのだ。
* * *
別れを決意したあの日。
眠っている彼の短い黒髪を梳いた。
頬に触れた。
口唇に触れた。
そんなこと起きている彼にしたことはなかった。どんなに寵愛されようともどこか一線を引いていた。
愛されることに慣れていなかったから。
だから、最後だと思って彼の存在を確かめるように触れた。
今迄、エドワードの身体を欲望の捌け口として扱ってきた男達。そんな男達の中で脚を開くことを強要されてきた彼にとってロイの存在は摩訶不思議なものだった。初めは彼の感情が一方通行してそんな事もあった。けれども身体に触れられる事を嫌う彼が、いつしか彼にだけ触れて欲しいと思うようになっていた。
それから自分もロイに触れたいと――思うようになった。
しかし、エドワードは決断したのだ。このお腹にいる子供と一緒に。
この決断を下すまでに何度も「ごめんな」と、彼はお腹の子供に謝り続けた。
そうして、彼の足はこの屋敷の女中頭の部屋に向かった。その足取りにはもう迷いはなかった。
相変わらず、夫人はエドワードに視線を合わせようとしなかった。
彼女は窓から見える風景を意味もなく眺めていた。そんな夫人の背中に別段何の感情も湧かなかった。エドワードは意外と平常心を保っていた。
それにエドワードは平静を装わなくてはならない事が一つあった。
それは自分が妊娠していることを夫人に気づかれてはならない事。それだけは何としても知られたくなかった。その所為で余計な神経を使ってしまう。
少し緊張気味にエドワードは夫人の背中に向かって声を出した。
「オレ、今日で暇をもらいたいんだけど」
凛とした声で言えたと思う。
すぐに返事が返ってくると期待していたが、意外にも夫人は黙ったままだった。
その場の空気が何だか重く感じられる。
夫人はあれほど「自分から身を引くように」と、言っていた。それが――いざ、エドワードが行動に出てみれば、夫人は沈黙している。
コチコチと時計の秒針が時を刻む音がやけに五月蝿く聴こえた。
このままでは埒が明かないと思ったエドワードは、もう一度口を大きく開こうとした。
が、それを制するように夫人がこちらを向いた。
条件反射で身体が勝手に緊張するが、ここはしっかり地に根を張り突風に負けないように踏ん張り夫人と対峙しなければならない。
振り返った夫人の表情だけでは、彼女の感情を知る事はできない。いつもながら完璧な無表情な顔つき。背筋をピンと伸ばし威厳に満ちた態度だ。
「あの、だからオレ今日で――」
途中まで言いかけたところをピシャリと遮られた。
「二度も言わなくてわかります」
その言い方にエドワードの表情がムッとなった。さすが年期が入っている夫人とは大違いだ。こんな事で感情を表に出していたらこの後がマズイ。
平常心を、と心で何度も唱えた。
夫人はエドワードの身体を足の爪先から頭までしっかり舐めまわすように見入っていた。それから瞬き一つせず、彼の琥珀色の瞳を見据えた。
「ヒューズ様の所へは行ったのですね。診断の結果は何と仰いましたか」
この質問に尻込みしてはならない。ここで踏ん張らなければならない。エドワードは平静を装って琥珀色の瞳をまっすぐ夫人に向けた。
「行ってきた。大した事はないって胃炎だって」
「そうですか――」
ひたむきな瞳だった。何かを庇い一途に想う、そういう瞳の色だった。
彼のそんな瞳が勝手に語りかけてくる。
夫人は厳しい表情でしばらく彼を見ていた。それから碇型の肩が、ゆっくりと下がり深いため息が吐かれた。
「わかりました。この屋敷を辞める理由は訊かない方が良いのでしょう」
肩と一緒に下がっていた視線がゆっくりとエドワードを捕らえた。
「――あ、うん」
物分りの良すぎる夫人の返答にこちらが困ってしまう。
刺々しさが無くなった夫人の声に思わず気が緩んでしまった。後ろめたさからエドワードの視線は床に落とされる。
「旦那様には、このことは…」
さすがに「旦那様」という単語はビクリとエドワードの身体が反応してしまう。しかし、もう今更だろう。皆まで言わずとも夫人は感づいているようだ。それを敢えて知らぬふりをしている。そうエドワードは感じた。その方がエドワードには好都合だ。そんな態度をとってくれた夫人に感謝さえ覚えた。
「ううん、何も言ってねぇ。言わなくていいから」
「わかりました。では、今迄のお給金を支払います。それと退職金を」
止っていた時が進み始めれば意外にも行動は早い。夫人はデスクの引き出しから金庫を取り出した。それを見て、慌ててエドワードは止めに入った。
まるで手切れ金をもらっているみたいに思えたのだ。それだけは嫌だった。
絶対に。
「そんないいよ! オレここで医者に診てもらったりしたから。余計、金掛かってるって。貰える立場じゃないから」
甲高い声で夫人の動きを止めようとする。それをまったく無視して夫人の手は金庫をカチャッと開けた。
「当面の生活費にしなさい。これから大変でしょうから」
「え、でも。何だか手切れ金貰ってる感じがする…」
エドワードがぼそりと呟いた言葉に夫人は心外な顔つきをした。そして厳しい口調でエドワードを叱りつけた。
「私は手切れ金など一銭も渡すつもりはありません! 言葉を慎みなさい。これは今迄働いてもらった礼金です。旦那様とは一切関係はありません。それは重々承知して下さい」
夫人の憤慨振りにエドワードの身が引き締まる。
自分を“愛妾”として扱わず、ちゃんとこの屋敷の使用人として見てくれた。夫人の激昂な声はエドワードにとって心地よい響きとなった。今迄散々この件で虐げられたのに、と少し頬が緩んだが、自分をちゃんと日向の世界の一員として見てくれたことに感謝した。
「すみません。じゃ、ありがたくもらうよ」
ぺこりと頭を下げ感謝の念を表した。
古びたトランク一つ持って屋敷の門を出て行くエドワード。
金色の髪を揺らしながら振り返ることなく歩いている。その姿を夫人は自室から見下ろしていた。夫人の感情を知ることは至難の業だ。
しかし、エドワードの姿が消えてなくなるまで夫人は見ていた。
彼女の心はその姿を見て何を考えていたのだろう。
今日一日の仕事をやっと終えた。
倦怠感を抱く身体を抱えて、エドワードは住み込みの部屋に戻る。建付けの悪い引き戸をガタガタと開けて入ると、その音に隣人の怒鳴る声。
「五月蝿い! もっと静かに開けやがれ」
エドワードは舌打ちする。
この部屋には、いまだ古びたトランク一つだけ。そこには布団一つなかった。
店主に頼んでいるが、まだ此処には用意されていない。
広さは四畳半ほど。ガサガサに擦り切れた畳の部屋。此処がエドワードの新しい城だった。
疲れきった身体を大の字にする。瞳に映るのはタバコで黄ばみ薄汚れた天井。
立ち仕事で浮腫んでしまった足がジンジンして、ため息が空を舞う。エドワードはそっとお腹に両手をあて優しく擦りながら「ごめんな…。一緒に頑張ろうな」と、声を掛けていた。
すると戸を激しく叩く音。その音と罵声が飛び交う。
ゴソゴソと起き上がってエドワードは戸を開けた。目の前には布団を抱えた男が立っていた。男は面倒そうな顔つきで頭を掻いていた。
「おい。頼まれていたものだ。ほら受けとんな」
さして重くない布団だった。敷布団と掛け布団の一式。
「あ、どうも…」
男は早々に立ち去ろうとしたが、きびすを返して歯を剥き出した顔をエドワードに突きつけてきた。その男にぞくりと淫猥な空気を感じて、エドワードは身構えた。
それを楽しむように男はへへっと卑猥な笑みで近寄ってきた。
「おぉーー、言っとくが。布団があるからって男を部屋に上げたりするんじゃねぇーぞ! この店はそんなところじゃねぇからな!」
不快な笑みと心外な発言にエドワードは感情を露にした。
「そんなことしねぇーよ! オレはちゃんとまっとうに働いている!」
「なら良いんだけどな。ちょっと顔が良いからって粋がってんじゃねぇぞ!」
ちょっと嘲弄するだけが、相手を憤怒させた事にたじろいだ男は捨て台詞を吐きながら帰って行った。
エドワードはその場で戦慄く身体を抱きしめた。
自分のことを淫売みたいな物言いをする男に寒気を感じたのだ。此処で仕事を始めて数週間。何も知りもせずに見掛けで判断する輩で一杯だ。
いちいち相手にしていては余計な心労が募るばかりだ。エドワードはぐっと堪えた。お腹の子供のためにも堪えた。
こんな時はエドワード自身を認めてくれたあの男を思い出そう。自分の過去を知っていても愛してくれたあの男。
恋しいが想うことは自由だから。そして、明日からまた頑張ろう。自分自身を認めてくれるように。それが子供のためにもなるから。
愛された記憶を胸にエドワードは薄っぺらな布団に身を横たえた。
此処は闇夜ではない。
瞳に飛び込んでくる様々な色彩のライトが煌びやかに射し込んで来る。それらから逃れるようにエドワードは布団に身を隠した。小さく身体を丸めてお腹の子供を守って眠る。
夜の蝶が舞い踊る。
その界隈にロイは頻繁に顔を出しては尋ねていた。それはもちろんエドワードの事を。
ロイは毎夜、こうして金色の姿を追っていた。
続く
エドワードのその後。
さて、旦那様はエドワードを探し当てることは出来るのでしょうか?
毎度ながらストックがなくなってきました。そろそろ、続きを書かねばと思いつつ…。
イベント用に何か作らなくちゃと、四苦八苦している桜でした。
桜 美由紀 2006/7/25