愛すること、愛されること。(22)
ガチャガチャと音を鳴らしながらエドワードは残飯を裏へ運んでいた。
「うっ――と…重い」
結構な重量を運んでいる。洗い場の仕事といえども意外に重労働だ。荒い息が自然と漏れる。誰も此処では彼を手伝う者はいない。エドワードは黙々と与えられた仕事をこなしていた。
指定の場所にやっと辿りついた彼は額に浮かぶ汗を腕で拭う。
この数週間で彼は痩せ衰えていた。顔色も紙のように蒼白だ。だが、こんな薄暗い場所では彼の顔色を拝むことはできない。そして、この店では誰も彼を気遣う者はいなかった。
ふらふらと壁に身体を凭れ掛けていれば、店の勝手口から罵声が飛んでくる。
「おい! 早く戻って来い。他にも仕事は残ってんだぜ! 終わらねぇーと晩飯抜きだ!」
そんな男の姿を横目で見ていた。重い身体は壁に寄り掛かったまま。「晩飯がない」と言われても急ぐ気力はなかった。それ以前に食事が喉を通らないのだ。
体力は削げ落ちていく一方だ。時より下腹が鈍痛を訴える。それでもエドワードは身体を休める訳にはいかなかった。
生活の為だ。
屋敷からの退職金は子供のために残していた。将来の生活を夢見ていたから。
エドワードは疲労困憊な身体を叱咤して壁に手をつき元来た道を歩き出す。すると彼の後方から足音が聴こえた。
また、酔っ払いが迷い込んで来たのか、と顔を顰めた。そちらを見る気にもならない。だが、足音は段々近づいてくる。「はぁー」と、深いため息を漏らしながら後ろを振り返ろうとすると。
声が聴こえた。それも自分の名を呼ぶ声。懐かしい声だった。
「エドワード」と、幻聴が聴こえる。
これは幻だと思いながら金色の髪を振り乱してエドワードは振り返った。
やっぱり幻影だ。
そう思っても身体が勝手に動揺している。カタカタと足元が崩れそうなのを必死に踏ん張った。視線が焦点を結ばない。ゆらゆらと波に浮かぶように揺れている。鼻の奥がツンと痛い。声が出なかった。
「エドワード、探したよ」
幻影が喋りかけてきた。
エドワードは幻を打ち砕くように頭をフルフルと振った。そして、ギュッと瞳を固く閉じてもう一度ゆっくり開いた。
幻影は消えない。
「さあ、帰ろう。エドワード――」
一歩、一歩足を進めて男はやってきた。それから逃れるようにエドワードは一歩足を後退させて行く。声を出さなくてはいけないのに口唇が震えて出ない。
やっと出た言葉は男にとって嘆かわしい内容だった。
「オレはアンタ何か知らない。帰ってくれ!」
「エドワード…」
男の声色は傷心しきっていた。
しかし、エドワードを捉えている瞳は光を失っていなかった。黒い瞳は闇夜の中でも爛々と輝いていた。
その瞳に吸い込まれる。エドワードはそこから動くことができなかった。
ロイは慎重に足を前へ進め彼の前に立つ。
金色の頭が路地の隙間から見えた。まるで夜空に瞬く星のようだった。その光に引き寄せられるようにロイは進んで行ったのだ。
そして、見つけた。
明らかに動揺している彼の肩をそっと掴む。細い身体がとても繊細に感じた。俯いてしまって顔を見せてくれない。ロイは何とか覗き込むようにして視線を合わせた。
「ヒューズから訊いたよ。身体は大丈夫かい?」
その問いにビクリと反応して彼の腕を払いのけてエドワードは後退した。二人の間には数歩の距離が出来た。そのたった数歩が延々と長い距離に思えるのだ。
街の喧騒が五月蝿い。
しかし、この二人の空間だけは喧騒が消失していた。
「――か、身体!? どうもしてない! それよりこんな所アンタが来るような場所じゃないよ。早く帰れよ」
エドワードは視線を斜め下に逸らしかなぐり捨てるように言った。
そんな彼に屈せずロイはにじり寄る。そうすればエドワードも一歩引いた。奇妙な攻防戦が繰り広げられた。
「妊娠しているのだろう。私達の子供だ。エドワード――」
エドワードの顔が瞬時に凍りつき、すかさず歯を剥き出して反論する。
「妊娠!? 何て、してねぇーよ! 大体こんな身体でするわけないだろう。アンタ、夢の見すぎだ!」
冷たく罵り彼に背を向けたが、胎の子は正直者らしい。自分の存在を示すように弱ったエドワードの身体に信号を走らせた。
ぐらりと世界が歪んだ。「こんな時に限って」と、エドワードは口唇を噛み締め壁に手をつき身体を支えた。もちろん、差し出された逞しい腕は頑なに拒んだ。チカチカと目の奥に稲妻が走る。それをぐっと耐えていると脳髄に直接語りかけてくる温かな声。それに縋りたい気持ちを精一杯我慢した。
そして、エドワードの口から苦し紛れに大言壮語する言動。
「大丈夫だから触んなよ!」
虚勢を張って生きなければならない事もある。エドワードは瞳を抉じ開けて真っ向からロイを見た。目の前に現れたのは、形良い眉をハの字に下げエドワードの傍らで跪き視線を合わせてくる彼。
彼の表情には明らかに疲労の色が見られた。
無精髭を生やし眼球は窪みボサボサの黒髪。颯爽と着こなしていたスーツは見る影もなくよれよれだ。
威厳正しく高貴な紳士の姿は此処にはない。それでも彼だと認識させる証はその黒い瞳だ。爛々と冴え渡るように光輝く黒い瞳。
どんなにその瞳に自分の心が崩れそうになっただろう。それでも彼との数歩の距離を埋められない。
泣きたくもないのに勝手に涙が瞳に溜まっていく。水溜りは煌めくフレームを瞳に作成していった。身体も弱っていれば、やはり精神も限界に近かったのだ。もうどうする事もできずに俯き立ち尽くしていた。
ロイは頑なに拒み続けるエドワードの身体に触れることはできず、彼はすっと腰を上げて彼から数歩離れた。これが今の二人の距離だ。ロイはこの距離を埋めるためにやってきたのだ。
しかし、自分ばかり彼に近寄っても駄目なのだ。エドワードの意思が重要なのだ。それをヒューズに教えられた。自分の想いばかりでは達成できない事もある。パートナーが必要なのだ。ロイのパートナーは彼。
エドワード・エルリック。
唯一人。
エドワードの身体は立っていられずにしゃがみ込んでいた。そんな彼を今すぐにでも抱き竦め屋敷へ連れ帰りたいという衝動をロイは抑えた。
彼の正直な気持ちを知りたい。
ロイは大きく深呼吸して口を開いた。
「エドワード、私は君の事を愛している。君が妊娠しているから探しに来たという訳ではない。私には君が必要だから探したのだよ。君はどうなのだ! 君自身はどう思っているのだね。それを訊かせてくれ」
数歩の距離の間を風が抜けていく。その風に舞うようにガザガザと紙が飛び交う。ロイの瞳は彼を逃がそうとしない。ひたすら黒い瞳がエドワードに問いかける。
それでもエドワードの視線は地面を這うばかり、やっと出た声は小さくか弱い。
「そんな……地位も名誉もある旦那様の事をオレは――」
彼の瞳から逃げるようにその開きかけた口唇も途中で固まる。使用人の本心など言える訳なかった。沈黙の時間が続いた。それでもエドワードの次の言葉を焦らずにじっと待つロイが目の前に居た。
「――アンタはお屋敷の旦那様だ。何もかも違いすぎる。アンタとオレの距離。この数歩がとっても遠いんだ」
エドワードの視線は二人の距離をしっかり見つめていた。そして、距離を縮めることが出来ない自分がいることに気づいた。
ロイはいつも平然とこの距離に入って来ていた。それなのに自分は出来ない。
卑しい過去が意地でも苛むのだ。
「私は屋敷の主人として此処にいるのではないのだよ! 唯の男としてこの場にいる」
ロイの言葉に心がドキリと弾んだ。
そうこんな身の上でなく対等な立場でこの男に会えたらどんなに良かっただろう。何度も何度も夢見てきた。太陽の下で堂々と笑いながら街を練り歩く二人。その真ん中に二人の子供でも居ればもっと最高だ。
じっと考えるエドワードの表情が困惑している。口唇が僅かに震えている。
ロイは自分の感情をぶつけるのではなく、彼の心を知りたかった。
彼の心内に煮えたぎる想いを訊きたかった。その想いは絶対自分と交わっていると信じているから。声高々にエドワードに真意を告げる。
「エドワード・エルリック。君自身に訊いているのだ。君の過去など関係ない! 今の君。素のままの君自身に問うているのだ。私の事をどう想っているのか!」
強い口調で語りかけてくるロイをふっと見上げた。
ああ――このまま自分の想いを素直に伝えられたらどんなに良いだろう。エドワードは壁にギリリと爪で傷をつけた。次第に伝えられない自分自身に腹が立ってくる。
想いぐらい自由に夢見させてくれよ。そう思うけれど悔しさに口唇を噛んだ。エドワードが僅かに残った力で立ち上がりロイに向かって一歩足を踏み出した。
「それでもオレの過去は消えない! オレは使用人だ。卑しい淫売だ。そんな奴が人を愛して良いはずない。愛されることなんか望んじゃいけない!」
荒々しく吐き出す言葉に胸が激しく上下する。彼の手には握り拳が作られていた。戦慄く拳を視界に捉えても、ロイは引き下がることはなかった。
彼の本心を訊き出すには対等の立場にいなければならない。
「そんなことを訊いているのではない。私が屋敷の主人ではなく。そして君も使用人ではない。過去何て関係ない。今を、見てくれエドワード」
ロイは自分の意志が伝わる様に黒い瞳をしっかり彼に向けた。
ここで逃げてはいけない。
「――今!?」
エドワードの激昂した表情が茫然となった。エドワードの目の前に一筋の光が射した。
「そうだ! お互いの立場など関係ない。ここに生きている人間として私は君の事を愛している。君はどうなんだ…」
頑なに意地を張っていた心が少しずつ崩壊していく。ロイの言葉の一つ一つがエドワードを喜悦させていた。目頭が熱くなるのを感じた。欣幸のあまり堰を切ったように感情が押し流れていく。
やっぱりこの男が愛しい。自分をこんなに愛してくれる彼が好きだ。
気づけばエドワードの両目から雫がぽろぽろと落ちていた。雫はこの汚濁した路地裏に似つかわしくないほど美しく、そして綺麗だった。
自然とエドワードの足はロイの方へ一歩足を踏み出した。距離が縮められる。たった数歩の距離をゆっくり時間を掛けてロイの元に歩んだ。それをじっと見守るロイ。漸く辿りついたエドワードは彼の厚い胸板を両手で叩いた。
激越に何度も何度もロイの胸を黙って叩いた。ヨレヨレの上着を両手で引っ掴み涙声ではあるが、はっきりとした口調で心の奥底に大切に閉まっていた言葉を叫ぶ。
「――好きに決まってるじゃないか! オレはアンタのこと愛してるよ!」
とうとうロイの胸に縋りながら嗚咽するエドワードの身体をロイは万感の思いでしかと抱きしめた。痩せた肩、背中、腕、全てが痛々しかった。そこまで追い詰めた自分に悔恨した。でも、これからは絶対に彼をこんな目に合わせたりしない。そう思って愛情を込めて抱きしめた。
エドワードの耳に鼻に掛かった声が聴こえる。
「ありがとう、エドワード。その言葉が欲しかったのだよ! 本当にありがとう…」
濡れた瞳を斜め上へ向けるとロイの黒い瞳と合った。彼の顔を見てエドワードは泣きながら笑った。
「何だよ! アンタのその顔! 無精髭似合ってないよ。それにぐちゃぐちゃだ――」
「エドワード…そう言ってくれるな」
目尻を下げ困ったようにエドワードの顔を見ている今のロイの姿は、とても屋敷の旦那様、大会社の社長には見えなかった。
唯の一人の男としてロイを見た。そして、エドワードは彼の声に耳を傾け心の奥底の真実を曝け出したのだ。
そうロイの熱意はちゃんとエドワードに届いた。
ロイはやっと生きた心地がした。この数日間、居ても立ってもいられなかったのだ。ロイの身体から力が抜けていく。
狭い路地裏にも関わらず、緊迫していた空気がやっと解放された。
極自然にロイはエドワードの口唇に己のものをそっと覆い被せた。久しぶりに触れた口唇はカサカサに荒れていた。それから後頭部の金色の髪に指を絡めた。こんな風に髪を梳くのも久しぶりだ。より深く重なり合った彼の口唇を潤すように何度も絡める。熱い吐息が忙しなく漏れる。熱に浮かされたエドワードの両手は弛緩してだらりとロイのシャツから離れていった。それと同時にぐらりとエドワードの身体は膝から崩れていく。それをロイはしっかりと両腕で抱きとめた。
「エドワード!?」
ロイの呼びかけに反応しない彼の身体は深い眠りへと誘われた。恐らく度重なる疲労と心労で彼の身体は限界寸前だった。そして、会いたくて会えなかった男に逢え心の底から想いをぶつけて緊張の糸がプッリと切れたのだろう。
ロイは羽毛のように軽くなってしまったエドワードの身体を横抱きにした。心配そうに彼の蒼白な顔を見つめていた。
「おい! 何時まで油売ってやがる。晩飯抜きだ、と…いねぇじゃねぇか?」
店の勝手口から首を出した男は今までこの汚濁した場所にいたはずの金色の頭を探した。だが、彼の姿は跡形もなく消えていた。
ロイとエドワードの姿はその場から忽然と消えていた。
続く
さあーやっと、二人が再会しました。
漸く、二人の想いが交差しました。これで、旦那様次のステップに踏まなければ飛んでもないことになります。
次回から、旦那様強きに出るの…巻。
桜 美由紀 2006/8/6