愛すること、愛されること。(25)
この数日間、エドワードはうつらうつらと眠りの中を彷徨っていた。
疲労の溜まった身体は睡眠を欲しているのだ。その上、子供を宿した身体は悪阻というものに体力を奪われている。
とにかく眠い。エドワードは寝心地の良いベッドに身体を沈ませていた。
その間、彼の世話をしてくれるのは使用人の中でも仲が良かったロゼに任されていた。勿論、彼女は女中頭からきつく秘密は厳守するように言い渡されている。
夫人は屋敷の当主が正式に発表するまでは、まだこの件を公にしたくなかったのだ。本心は、このまま隠し続けていたいと心底思っていた。
ぼんやりとエドワードは瞼を開いた。穏やかな暖かい陽射しを感じた。腕を顔の前に翳して頭上から聴こえる声に耳を傾けた。
「奥様、お加減はどうですか?」
ロゼは慣れない言葉遣いで声を掛けた。もうとっくに早朝と言われる時間は過ぎているようだ。それに気づいていないエドワードがぼんやりと眠りから覚めた。
そこで毎回はっと冷や汗を掻くのだ。「仕事しなくちゃ! 寝過ごした」と、エドワードは決まって声を上げていた。その様子を見てクスクスとロゼが含み笑いをするのだ。
「大丈夫ですよ。お起きにならなくても…」
ロゼの柔らかな声に現実の世界へと引き戻されたエドワードは声を潜めた。
「あ、そうだった。わりぃ……」
途中まで起き上がった身体は急降下し大きくため息を吐いた。目覚めたからといって気分が良くなっている訳ではない。起き上がってもそれからが問題なのだ。
「奥様、お薬をお持ち致しました」
エドワードはころんと首を彼女の方に向けて困った顔をする。
「――あ、あのロゼ…。こんなオレに慣れない言葉使わなくて良いよ。普通で良いよ」
そういうとロゼはにっこり笑い返した。
「ですが。女中頭に言われていますので…」
「ホントにいいよ。ごめんな、余計な気を遣わせて…」
エドワードは枕に顔を埋めた。こんな卑しい自分が恥ずかしくて堪らなかった。使用人の分際で屋敷の主人に“愛妾”扱いを受けた挙句、その主人の子供を身籠ってしまったのだ。そんな端女が同じ使用人仲間に「奥様」と呼ばれている事に羞恥心を感じていた。
自嘲気味に顔を枕に隠した。すると意外にもロゼは可愛らしく笑い出した。
「じゃあ、女中頭がいない時はいつも通りでもいいかしら」
彼女のいつもの口調にパッとエドワードは顔を上げた。
「えっ!? ロゼ、うん…。サンキュー」
ロゼは優しい手付きで彼の額に手を当てた。エドワードの顔色が少し良くなったように見える。顔色というより気持ちの問題だろう。
「やっぱりちょっと熱があるわね。辛い?」
エドワードは首を左右に振った。本当はその熱の所為で身体がだるくて堪らなかったけれども、ロゼが自然に接してくれることで癒されるような感じがしたから。
「エド、大変だったね。でも、旦那様のこと前からずっと好きだったんでしょ。頑張ってね。私で良かったら何でも言ってね!」
「ロゼ、ありがとな。こんなオレ…みんなに蔑まれても良いのに。そんな奴なのに。優しくしてくれて、ありがとう…」
ロゼは少し躊躇いがちにエドワードの前髪を梳きながら言葉を続けた。
「え、前から言ってたじゃない。ちゃんとエドには仲間がいるんだからね」
「うん…」
「気分あんまり良くないみたいだけど…。薬、飲めるかな?」
「あ、うん。大丈夫だと思う」
ロゼに励まされるように両肘に力を入れて起き上がった。すると彼女は「ちょっと待ってね」と言って彼の背中に柔らかくて大きなクッションをあてがった。そうやって彼女は何かとエドワードの世話をしているのだ。
真新しい替えの長襦袢が渡されて、着替えを手伝うロゼ。帯はロゼが気を遣って緩めに結んでくれた。蜂蜜色の長い髪もロゼが綺麗に梳き、左肩辺りで結い上げてくれる。そうやって身なりを繕うと少しはエドワードの気分も晴れてきた。
陽射しが真ん中に昇った辺りでエドワードは、ロゼが持ってきた食事を口にした。彼の身体を気遣った献立だ。恐らくその支持は、女中頭が内密に料理長へ伝えられた物だろう。だが、それとは別に料理長の気持ちがほんのりとその献立には見られた。
丸いまんまの冷やされたグレープフルーツが一つ食膳に添えられていたのだ。他の食事は手の込んだものばかりだが、それだけは何の手も加えられていない。エドワードはそれを手に取り微熱がある頬にひたりとつけた。
「冷たくて気持ち良いや…」
皿はほとんど手付かずだ。やはり喉を通らない。それでも頬に寄せたその果物だけはエドワードの口に入りそうだ。
「エド、それ剥いてあげようか?」
にっこり笑顔でロゼは手を差し出していた。その手に彼はグレープフルーツをそっと乗せた。それは彼が食べるという意味を含んでいた。
ロゼが器用に剥いていく。その手元をエドワードはぼんやりと見ていた。
「はい、どうぞ召し上がれ」
彼が食べやすいようにと形を変えたグレープフルーツは瑞々しく金色に輝いていた。エドワードはまず一欠けら口に運んだ。グレープフルーツの酸味は彼の嗜好に合ったようだ。朗らかに変わるその表情でわかる。
「うん、美味しいや! ロゼ、ありがとな」
「良かった。それは食べられるみたいだね。あんまり食が細いんだから心配してるのよ。少しはお腹の子供の為に頑張って食べなさいよ。旦那様の大切な跡継ぎがいるんだからね」
「そうだな」
気心の知れたロゼには素直に首を立てに振ることが出来た。けれどもこの事実を屋敷の者達に知られることに抵抗を感じているのだ。それでも、エドワードの胎の中には当主の子種が刻々と息づいて成長しているのだ。後はエドワードの気持ち次第なのだ。屋敷の当主は既に腹を括っている。だから、エドワードがこの屋敷の当主の寝室にこうして身体を休めることが出来るのだから。
エドワードは漠然と今後のことを考えながらグレープフルーツを無言で口に運んでいた。甘くて酸っぱいグレープフルーツは珍しいことにペロリとなくなった。
* * *
エドワードは午後の陽射しを浴びながらまどろんでいた。風がそよそよと寝室に入ってきて、美しい色調で織り込まれた模様のカーテンを揺らしていた。エドワードは自分の肌を撫でていく風に心地よさを感じてまんじりと過ごしていた。
すると隣室から声が聴こえる。その声は穏やかではない。自然とエドワードの身体が緊張に包まれる。
また、自分の存在で揉めているのだろう。そう、思ったエドワードは無意識にシーツをぎゅっと握っていた。
喧騒の内容は彼の耳に届くことなく終わったようだ。それでもエドワードの弱った身体と精神は心を痛めてしまう。緊張から解放され、ふわりと身体が横に倒れてしまうが、ぽすっと身体は柔らかな寝具に受け止められる。そのまま、身体を起こす気力がなくぼんやりしていた。そこへ寝室の扉をノックする音がした。それでも身体は起き上がることができない。
「――入るよ」
そう、一声掛けて入って来た男はこの部屋の持ち主だ。
ベッドに不自然な格好で横臥しているエドワードに慌てて駆け寄って、彼の顔を覗き込む。その顔は険しいものだった。
「どうしたのだね。具合が悪いのか…? すぐにヒューズを呼ぼう」
すっと彼に背を向けたロイの手をエドワードは力なく掴んで、ゆっくり身体を起こした。
「……大丈夫。ちょっとクラッとしただけ。それより、また何か言われたんだろう。オレのこと…ごめん」
視線を落とす彼にロイは眉を下げて、覗き込んだ。
「君が心配することはないよ。それより本当に大丈夫なのかね?」
伏せ目がちに首を下げた。それを確認したロイが安堵の息を漏らして、すっかり気落ちしてしまったエドワードの頭をそっと胸に抱いてやった。エドワードの身体はピクリと反応して、ゆっくりと身体の力が抜けていくのだ。
この寝室やロイの私室を自由に使用して良いと言われているが、未だに借りてきた猫のように大人しい。まあ、体調が芳しくないことも原因しているのだが…。エドワードの身体は安静を言い渡されていた。
それでも彼には居場所がないのだ。居場所はあっても今、己がいる場所が不安で堪らない。此処は屋敷の旦那様の私室。エドワードのような下賎な者がおいそれと入室し続けるには躊躇われるのだ。それはエドワードの当面の世話を頼まれているロゼも感じることだ。彼女も長居は禁じられていた。
そんな複雑な心境の中でもロイが傍に居てくれると少しはこの不安から逃れることが出来る。ほんの少しだけ、この寝室に自分の移住空間を見出せるのだ。
「エド、そんなに緊張しなくても良いのだよ。好きに過ごしていて構わない」
ロイも彼の不安をよく理解していた。だから、出来るだけ早くことを進めたかったのだ。少しでも早くエドワードがこの生活に馴染んで、健やかに胎の子供の成長を見守ることが出来るように配慮したかったのだ。
ロイは頃合を見計らってエドワードにあることを相談した。恐らく彼は意を唱えるだろうが、ロイの気持ちは変わらなかった。
「気分が少し良いようならば、屋敷の者達に君のことを紹介したいと思っている」
穏やかに彼の胸でまどろんでいたエドワードが素早く反応して顔を上げた。その瞳は驚愕して大きく見開いていたが、直ぐに無言で左右に首を力なく振られた。
ロイはそんな彼の行動を優しく諭した。彼にはちょっと精神的にきついことかも知れないが、これを乗り越えれば彼の憂鬱な気持ちが少しは晴れるだろうと考えていたからだ。
「エド、その方が君のためにもお腹の子供のためにも良いのだよ。少しの我慢だ…」
所在なげにエドワードはロイの瞳を見上げた。しかし、ロイの瞳は必死に自分を説得しよと奮闘しているのがわかる。
「でも、旦那様が嫌な思いをするし…。オレは――」
と、そこでエドワードは言葉を濁した。だが、ロイは彼がやっと言葉を交わしてくれたことが嬉しかった。二人の間に出来上がっている垣根は相当高い。ロイは難なく飛び越えることが出来るが、エドワードには時間が掛かるのだ。それがわかっているから彼の意思をじっくり聞くことが重要なのだ。あの薄暗く不衛生な路地裏でエドワードに再会したときお互いの気持ちをぶつけ合った時のように。
時は何時までも待ってくれる。焦ることはいらない。
「私は何も気にしていないよ。エド、君が――続きを言ってみなさい。ゆっくりで良いからね。ちゃんと聞いてあげるから」
そう言われてもエドワードには自分の意志を告げられないと思っていた。それはどんなに寵愛を受けていても。しかし、真摯に見つめてくる瞳がエドワードにヒシヒシと訴えるのだ。言いたいことを告げなくては何も解決しないのだよと。特にエドワードには高いハードルが待ち受けているのだから。
エドワードはグッと胸を押さえてロイの瞳を見上げた。
「あ、あの…。屋敷の人達は、オレが旦那様の“奥さん”になることを快く思わないだろう。それに……そんなオレに向けられる視線が――怖いんだ」
彼にとっての一番の理由はそれだった。
“恐怖”なのだ。
エドワードは自分を興味本位に見られることを以前から嫌っていた。
それは見世物小屋で卑猥な行為に身体を穢していたときから猛烈に畏怖感を抱いていた。
勿論、その行為は自らの意志はまったくない。
それはこの「ふたなり」という稀少な身体を店に来る客人達に舞台で見せられていたことに由来する。視姦する男達の露骨で下劣な視線が堪らなく嫌だった。何度も舞台の台座から逃げ出そうとしたが、背後から強い力でねじ抑えられていた。
そんな卑猥な商売から足を洗って随分経つが、それを思い出すだけでぞっと震えが湧いてくるのだ。
ロイは震えるエドワードの身体を両腕で胸に抱え込んだ。
「エドワード、その時は私の心臓の音を聴いていると良いよ。ほら、聴こえるだろう」
エドワードの頭は彼の胸にピッタリと寄り添っている。自然とロイの胸にエドワードの耳は寄せられて、神経を集中すると彼の心音がトクトクと鳴っていた。
ゆっくりと心音は規則正しく奏でられている。それにこの場所は温かいのだ。気付けば、エドワードの瞼は閉じられて、その心音に聞き入っていた。この音色は不安を取り除いていくようだ。
恐怖に慄いていた身体も徐々に力が抜けていく。不思議な感覚に身が踊るようだ。
「私が傍に付いているのだから心配はいらない。嫌な視線を感じたら、こうしていなさい」
「――うん…」
エドワードの口唇から何気に了解の返事が返ってきた。余程、この場所に安心出来たのだろう。彼の辛いことも不安なことも、全てを丸く包み込んでくれるようだ。
* * *
書斎にロイは執事のファルマンと女中頭のアームストロング夫人を呼びつけていた。
「旦那様、お呼びでしょうか」
くるりと革張りの椅子が回って彼らの眼前にロイの颯爽とした表情が現れた。アームストロング夫人にとっては嫌な予感がする顔だ。
「屋敷の使用人達を大広間に集めてくれ。エドワードの件で話がある」
「かしこまりました。旦那様…」
ファルマンからは直ぐに返事が返ってきたが、やはりこの人は納得がいかないのだろう。夫人はその場で固まったままだ。その表情も挑むようにロイに視線を投げられていた。敢えてそれに関して、ロイは触れなかった。
夫人も遅かれ早かれこうなる事を承知していた。それなのにいざとなると長くこの屋敷に仕えてきたプライドがこの事態を許せないのだ。前代未聞、前例がないのだ。この由緒正しいマスタング家に下賎な者の血が混ざり合うのだ。
この数日の間、夫人が卒倒しない方が可笑しい。
「―――」
無言の反抗が続いた。執事のファルマンも夫人の心中を察しているのか、硬直したこの空気の中で黙っていたが、漸く夫人の口が開いた。
夫人の気持ちが切り替えられたのだろう。所詮はこの屋敷の当主に仕える身だ。当主の決定に異を唱えることは出来ない。
「――承知しました。しかし、旦那様」
「何だね。アームストロング夫人」
夫人は主人の命令を曲げて自分の意志を貫いた。やんわり聞き返すロイに対して夫人の口調は冷たく言い退ける。
「私、個人としてはエドワード様を当家の女主人として認める訳には参りません! ですから“奥様”とお呼びすることは出来ません。その旨、ご承知下さいませ」
隣で直立不動している執事のファルマンも流石に愕然とした視線を夫人に向けて、直様その非礼を詫びようとロイに振り返った。
しかし、ロイは顎を斜めにしゃくり上げた夫人の表情をにやりと苦笑していただけだった。
数日前にも似たような場面があったが、その時は一触即発の状態。どちらも引かずについには執事が二人の仲を取り持ったが…。
今回は――。
「夫人、それで構わんよ」
あっさりとロイが傍若無人な夫人を許すのだ。その顔には笑みまで浮かべている。
ロイはこの数日で悟ったのだ。名称や呼び名等はどうでも良かったのだ。唯、エドワードと人前で堂々と夫婦であると公言することに意義があるのだ。その為に必要なことをロイが補っていくのだ。
そうして暮らしていく内にゆっくりと人の心を変えていけば良いのだと悟ったのだ。
続く
何だか、悟りを開いた旦那様。そして、エドワードも…少しずつ心を開いていく。
次回はエドワードのお披露目です。
※アームストロング夫人の言動に注意! 今後に関係がある予定。最終話にね。
そこまで、桜がこの話を書き進められるか問題ですが…。
一応頭の中でプロットは出来上がってるんだけどね。文字にすると時間が掛かるのですよ。
桜 美由紀 2006/9/10