愛すること、愛されること。(26)
「旦那様、皆が揃いました」
寝室の扉がノックされ、外から平淡な執事の声が部屋に聴こえる。
その声に反応してか、エドワードはベッドの上で身を竦めていた。長い蜂蜜色の髪が気持ちを表すように垂れ下がり、彼の愛嬌ある顔は隠れてしまっている。やはり彼の緊張は取れないのだ。
ロイは以前に比べて手触りの良くなった髪を梳き上げて、彼の顔を心配そうに覗き込んだ。
エドワードのことを屋敷の使用人達に正式に妻として紹介すると言ってから、ロイは日がな一日ずっとエドワードの傍に付き添い彼の縮んだ背中を擦っていた。
「エドワード、大丈夫だから。私がこうしているから…」
「う、うん……」
緊張して強張る頬がやせ我慢しながら小さく微笑んだ。ロイもそれを見て、苦笑いするしかなかった。エドワードの足が慎重にベッドから降ろされようとした。彼も敷かれたレールに乗ろうと勇気を出しているようだ。
ふわりと毛足の長い絨毯がエドワードの足裏に感触を伝える。そして、次の一歩を前に出し、歩こうとするエドワードの身体をしっかりロイが支えていた。
震える笑顔でエドワードはロイを見上げた。「大丈夫…だから」と自分に言い聞かせているようだ。
ロイにも彼の些細やかな前進は喜ばしいことだった。その気持ちが、意欲がとても嬉しかったのだ。彼がこの苦境を乗り越えようとする姿は微笑ましい。それ故にエドワードを守ろうとする想いも俄然と湧いてくるのだ。
寝室の扉を開くとそこに執事のファルマンが頭を深々と下げて、待ち構えていた。
ロイが視線をエドワードに向けると彼は、ふぅーと重い息を吐いて胸元を掻き抱くように握り締めていた。どうやら身籠った身体で無理に仕事をしていた彼の身体は極度の疲労を蓄積していて、回復するまでには時間が掛かるようだ。
地に脚を付けていても感覚がフワフワしていた。それに、少し歩を進ませるだけで息が切れてしまう。それと同時にロイに身を任せてしまって、身体も気持ちも緩和していることにエドワードの胸が痛んだ。
こんな場面で意地っ張りな彼の性格が出てくるのだ。
「――ちょっと…!?」
エドワードから驚きの声が上がった。
それはそうだろう。さあ、今から執事と共にこの屋敷の使用人達が集まっている場所に行くのだ。しっかり自分の脚で堂々と歩いていかねば、自分のことを見初めてくれた旦那様の顔に泥を塗ることになると思っていた彼だ。
それなのに――。
エドワードの身体は屋敷の主人の腕によって横抱きに抱えられてしまったのだ。
「旦那様!? そのようなことをなさらずとも、奥様のお加減が悪いようでしたら車椅子をご用意致します」
さすがの執事も声を張り上げ、慌てているようだ。
エドワードは主人の胸でか弱い力を振り絞って抵抗していた。このように屋敷の旦那様に身も心も甘えてしまった姿を使用人達の前に晒したくなかったのだ。
数週間前までは、自分はこの屋敷の使用人だったのだ。同僚の前では毅然とした態度でいたかった。誰からも後ろ指を指されたくなかった。自分の生き方を蔑まれたくなかった。
例え、こんな形で屋敷の主人との関係を暴露されたとしても、エドワードには利害を超えた愛があったからこそ、屋敷の旦那様を慕った。
そして、この未曾有の身体に屋敷の重責を担う後継者を身籠った――。
こればかりは不可抗力だ。でも――事実。
ロイは確固たる威厳の元でエドワードを妻だと使用人達に見せ付ける口実を計っていた。彼や執事の抵抗などそよ風のようなものだ。
「エドワード、身体が弱っているのだから私に大人しく抱かれていなさい。大丈夫、何も心配することはいらない。それとファルマン、車椅子は必要ない! 夫である私が妻の身体を庇うのは極普通のことだ」
ロイの表情には一遍の曇りもなく、釈然としていた。
恐らく、これから使用人達にこの旨を話すのだろうが、決して異議を立てられることなくやり退けるという意志が表れている。
誰も何人たりとも邪魔はさせない。そんな姿勢にファルマンも言葉を呑むしかなかった。
「かしこまりました」
彼は静かに頭を下げた。
この屋敷の執事であるファルマンは納得したようだったが、土気色な表情をしているエドワードは未だに居心地が悪そうに身体を小さく丸めていた。それに気づいて、ロイが何度も優しく声を掛けながら使用人達が招集されている場所へと歩を進めた。ロイは赤い絨毯で敷き詰められた階段をしっかりとした足取りで下りて行った。
彼の両腕には二つの命が預けられているのだ。
* * *
ファルマンの手によって、壮麗な作りを施された扉が開かれた。エドワードは開かれた空間から射すような光を浴びて、瞳を凝らした。暗い闇の世界で生きてきたエドワードにとってこの場所、この異様な空気は耐え難いものがあったのだ。
まるで舞台に立たされる気分なのである。それも見世物小屋のような饐えた匂いが篭もる粗野な裏舞台ではない。輝かんばかりの照明が射し込む表舞台へと自分が招かれているのだ。
自然と身体は萎縮してしまう。
そんな彼を横抱きにした男の表情は清々しかった。怖気づくエドワードに気を配る余裕さえあるのだ。
屋敷の全使用人が雁首を揃えて、主人の到着を待っていた。定位置に並び、頭を同じ角度で下げている姿は女中頭の教育の賜物である。
だが、それがかえってエドワードの身を引き締めるものとなる。
通常ならば、あの位置に自分は立っていたはずなのだ。それを思うとエドワードはかつての同僚達の顔をまっすぐ見つめることは出来なかった。
この部屋に入ったときから好奇な瞳と複雑に絡み合った視線を一身に受けていた。それでもこの場から逃げられないのである。もう、後戻りは出来ない。エドワードにとって正念場を迎えていた。それはこうして旦那様の両腕と胸に抱かれることに身体を委ねてしまった時から覚悟を強いられていた。
ロイは使用人達の視線をものともせず、屋敷の主人が座るソファーに腰をどっかりと下した。勿論、エドワードはその傍らに慎重に下された。
足先が冷えないようにと執事のファルマンがさり気なく柔らかく暖かな室内靴を丁寧に履かせくれた。まごついているエドワードを見て、ロイはクスッと笑った。
使用人達の前でロイは彼の身体を気遣うように、彼の肩に掛けられていたガウンの合わせを整えてやった。
傍から見れば、実に微笑ましい光景である。それもそのはず、この屋敷の当主が穏やかな笑みを浮かべているのだ。
卑劣、冷酷、残虐、金の為なら非道に手を汚すと名高い主人の変わりように一同は唖然としていた。
しかし、その視線は数週間前まで一緒に働いていたエドワードに向けられているのだ。彼らの仲を知らない使用人達の驚きは計り知れない。
そんな好奇な視線を敏感に感じてエドワードは俯かずには居られなかったが、ロイのぎらついた視線は真っ直ぐ使用人達に向けられていた。その傍らで独り身体を竦めているエドワードをしっかりロイの左腕が抱き寄せていた。
それから辛辣なロイの声が使用人達に掛けられた。
「此処に、今日皆に集まってもらったが、重要な話がある。私は此処にいる――」
そう言うと、ロイの腕がぎゅっとエドワードの身体を更に自分の方へ寄せ、広く逞しい胸へと萎縮してしまっている金色の頭を抱きとめた。緊張する彼を安心させる為に己の心音を聴かせてやる。その心音は力強く脈打ち、エドワードの心を少しばかり和ませる。
そして、ロイは穏やかな瞳でエドワードの俯いた顔を覗き込み屋敷の使用人達に二人の間柄を見せつけた。
使用人一同が顔を上げずとも、エドワードには驚愕する彼らの顔が見えるようだ。そんな空気が大広間でもピィーンと感じられた。
眼前で平身低頭する使用人達全てを掌握するようにロイは見渡してから言葉を続けた。
「……エドワードを正式に私の妻に迎えた。彼は私の子供を身籠っている。その子供はマスタング家の後継者である。数週間前までは、この屋敷の使用人として君達と共に働いていたが、彼は私の愛すべき妻である。それを君達に理解してもらいたい!」
今迄、興味本位な視線が彼らに向けられていたが、一瞬にして空気が変わった。ざわざわと空気だけがざわめいていた。誰も、声も音も発していない。それでも何やら不穏な空気が蠢いていた。彼らの複雑な心中がロイとエドワードにヒシヒシと伝わってくる。
だが、ロイの姿勢は堅忍不抜なものだった。威厳に満ちた表情で使用人達の理解を求めていた。否、事実を伝えたのだ。そして、誰にも反論はさせない――と、ロイの寡黙な瞳はそう語っていた。
そして、その瞳は特別にある人物をきつく睨み上げていた。
彼女さえ――反論させないと。
そんな緊迫した空気の中で一声上がった。この声が全てを丸く治めることになるのだ。
その声の主はハボックだった。
「おめでとうございます! 旦那様、奥様。末永くお二人のお幸せをお喜び致します」
彼の一声で屋敷の使用人達の思考が変わったと言っても過言ではなかった。皆、それぞれに思うところはあったが、口に出せなかった。
それは彼らを総べる女中頭、アームストロング夫人の眼があったことに違いなかった。使用人達の間でも二人の関係は噂になっていた。しかしながら、嫌かな噂ではなかった。
それはエドワードの性格によるものだろう。確かに出自は如何わしい見世物小屋の色子。この屋敷に雇われ始めた当初は色んな方法でいびりもした。だが、時が経つと共に彼の人柄の良さにマスタング家の使用人達は徐々に惹かれていったのだ。
それも――淫売小屋で身体を売っていたとは思えない彼の純情な心に。彼のことを悪く言う者は、この屋敷に今はいなかった。
ハボックの勇気ある声に、続くように他の使用人達から一斉に声が上がった。
「おめでとうございます。旦那様、奥様――」
使用人達の声を忌々しそうに横目で見ているのは、彼らを総べる女中頭のアームストロング夫人。だが、彼女は使用人達を咎めず真っ直ぐ彼方を見ていた。
彼らに自分の心情を知られたくはない。フツフツと燻る怒りを腹の前で合わせた両手の平に熱をこめ、耐えていた。屋敷の主人が公然と下した決断にもう反論することは出来ない。このマスタング家の使用人である一、女中頭が今更何を言っても後の祭りだ。今迄、彼女なりにこの屋敷の為と思って、二人の仲が表沙汰にならぬように隠してきた。そして、引き離すようにあの手この手と下してきた。
それでも、主人の気持ちが変わることはなかった。
アームストロング夫人は自責の念に駆られて、戦慄く口唇を噛み締めていた。
今迄、俯いていたエドワードの顔が突如、上げられた。
怯えた瞳が彼らを見るためにしっかりと開かれ、それから徐々に心が喜悦した。子犬のようにオドオドしていた瞳はにっこりと微笑み輝きを取り戻し始めた。
その瞳にまず映ったのは、金色の短髪姿で大柄の男。いつも兄のように慕っていた男。そのハボックが大きな身体を曲げて頭を下げていたが、とある人物の眼を掻い潜って彼の手がガッツポーズをエドワードに見せていた。
それから少し視線を横に移せば、健康的な褐色の肌の少女がちょこっと顔を上げ笑っていた。その口唇から声は出さずとも「エド、良かったね」と口元が動いたのがわかった。
彼らの些細な祝いの気持ちがエドワードにじんわりと伝わってきた。
エドワードは顔色の悪い顔で必死に彼らに微笑んだ。
その瞳には光が反射してキラリと輝くものが今にも溢れようとしていた。それ悲嘆にくれて流れるものではない。喜悦の涙――。
嬉しさを少しでも伝えたかった。彼らのおかげで自分はこうして屋敷の主人の胸に抱かれているのだからといっても過言ではなかった。
影ながら彼らに支えられていたから。
ロイもエドワードが胸に秘めた想いを声に出さずとも充分に理解できた。声を殺して嗚咽をするエドワードの背中をロイの大きな手が優しく擦り、その瞳は慈愛に溢れていた。彼は己の片割れをこの腕に納めているのだ。
そして、慈愛に満ち眉尻を下げた顔を使用人達の向けた。使用人の誰もが思っただろう。冷酷卑劣と謳われ、屋敷の使用人達にも厳しい視線を送っていた彼が想像し得ない表情を自分達の前に現したのだから。
それはほんの一瞬の間ではあったが、使用人達の瞳に深く刻み込まれた。
「料理長、妻はこんな状態だ。食事には充分気を遣ってくれたまえ。以前、君が出してくれたシチューを非常に喜んでいたよ。食が細くなっているから今度出してみてくれ」
大きな胸に顔を埋めているエドワードを苦笑いしながら、ロイはこの屋敷の料理長であるスカーに話をふった。
急な言葉に暫く声を失っていたスカーだが、いつもの無表情を崩さず深々と頭を下げた。
だが、彼にとってこれほど名誉なことはないのだ。屋敷の主人から食事に対して要望があったのだ。多忙な主人は屋敷で食事をするものの、味云々に関して今迄一言も口を挟んだことがなかった。言わば、興味がないように思えた。これは料理人として屈辱的なものである。そんな彼が初めて料理長に対して食事の指示を出しているのだ。
強面に見られる顔の裏側では、ぐっと熱いものが流れていた。
「旦那様、かしこまりました。精一杯、努力させて頂きます」
「あぁ……頼むよ。少しでも体力を回復させたいのだよ」
未だにロイの胸から顔を上げることが出来ないエドワードは小さく頷いていた。そんな彼の様子をロイは目を細めて見ていた。それも瞬刻の間だけ、にわかにいつもの当主の顔に戻った彼は使用人達に鋭い眼光を見せた。
「それと皆に伝えておく。今後、エドワードに危害を加える者は絶対に許さない! 彼を愚弄する者、粗略に扱う者、断じて許さない。それを心するように」
彼が厳しい眼差しで言い放つ言葉に一同は頭を下げた。勿論、その中にはアームストロング夫人の姿もあったが、承服出来ないと顔には書かれている。
そのことはロイも充分承知していた。だから、此処で今一度彼女に釘を刺しておかねばならないのだ。
「夫人、貴女がマスタング家の為にとメアリーを婚約者として迎えていたようだが、その件はきっぱり断ってくれたまえ!」
使用人達の喧騒がパタリと止み、緊迫した空気が漂い始めた。女中頭の一挙手一投足を屋敷の使用人達は固唾を呑んで見守っていた。
確かに使用人達は屋敷の主人であるロイに雇われているが、それでも彼女の考慮によって雇用が左右されることもあるのだ。
「――かしこまりました」
しかし、思い掛けない言葉があっさりと夫人の口から滑り出した。思わず耳を疑ってしまう。すんなりと引き下がる夫人の姿にロイの口角が吊り上った。
主人としての威厳を此処ぞとばかりに見せ付けた瞬間である。こうして、強気に出ることが出来たのも、この胸で抱きとめているエドワードが少しずつではあるが、ロイに対して素直に愛情を口に出すようになったからだ。
お互いの気持ちが通じ合えばどんな困難にも立ち向かえるのだ。
こうしてロイはエドワードを正式にマスタング家の妻に迎えた。
続く
漸く、屋敷の使用人達の前で発表しました! これで少しはエドの風当たりも柔らかくなるかな?
そろそろ、あと二話後辺りから話を問題の冒頭に戻る予定。例の旦那様の激昂が…ですね。
と、此処で失礼致します。
只今アンケートをやってます。題して「同人誌発行について」
「愛すること。愛されること。」 再録集
「月の子 エピソード集」 再録+α
「その他、新刊」 う〜ん…色々模索中
などをちょっと検討中です。
是非、同人誌として読みたい購入したいと、思う作品に投票してやって下さい!
選択は複数投票可能です。
あれぇー「愛、愛」結構人気があると思っていたのですが、伸び悩んでます。
「愛、愛」好きな人、是非オフ本として読みたいと思っている方。
是非御協力下さいませ! 私的に「愛、愛」を頑張りたい桜でした(>_<)
毎度ながらトップページで行なってます。
此処が一番、皆さんの目に留まるようなので告知/笑。
■お願い■
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いい加減…腹が立ってきた桜です。(ーー;)
桜 美由紀 2006/9/17