愛すること、愛されること。(28)
「エドワード、行こうか!」
軽快に彼の名を呼ぶロイの声は今朝の天気のように清々しく機嫌が良いようだ。
「あ、うん…」
彼の後をパタパタと草履を鳴らして、エドワードはロイの元に駆けて行く。その音に気づいて、ロイが優しい眼差しで振り返りその場で足を止め待っていた。自分の元に到着したエドワードの肩を優しく抱き、それからは彼の歩調に合わせて歩いている。
マスタング家の長く緩やかな階段を下りる際は、彼が転ばぬように腰に手を回して、ゆっくりと階段を一歩ずつ下りている。彼が躓けば、すぐにもその身を挺して庇うだろう。そんな雰囲気をロイは自然と出していた。
玄関フロアーに着くと、使用人達が揃って頭を同じ角度に下げていた。この屋敷の主人であるロイには見慣れた光景だが、エドワードには慣れることが出来ないことの一つだ。
今までは、自分もこの中の一人として旦那様の足元を見ていたのだ。それが今では正絹素材に美しく手刺繍を施された着物を身に着け、見るからに高価な帯びを締めているこの姿。身に着ける品物の一つ、一つに高度な手作業を強いられる一品物ばかりだ。その全てを屋敷の主人自らが選び、何も持たないエドワードの為にしつらえたのだ。
勿論、そんな贅沢な物を目にしたこともなければ、興味もなかったエドワードは戸惑ったが、如何せん彼は本当に身一つの身体だった。与えられる物を身に着けなければ、部屋の外に出ることも出来なかった。渋々、エドワードはロイの贈り物に袖を通していた。それでも口を開けば「こんな贅沢な物はいらない! 普段着で良いから」と、ロイに遠慮なく文句を言う毎日だ。
そんな暴言を聴いているロイは何故か嬉しそうな表情をしていた。
少しずつだが、生来のエドワードが姿を現していた。それを一番待ち望んでいたのはロイだ。溌剌と当主に向かって暴言を吐いていた頃から愛していたからだ。
今日も小言を言っていた彼の装いは、金糸の髪がよく映えるように選ばれた薄紅色を基盤に仕立てられた生地と金糸で編み込まれた優美な柄。キラキラと輝く長い金髪は赤と金を基調とした組紐で後頭部の上の方で結われていた。
歩くたびに金髪と赤い組紐が揺れて、美しく円を描いていた。
エドワードが日増しに麗しく変貌する姿を目にして、その場にいる屋敷の使用人達もうっとりと頬を上気させて見つめていた。そんな微笑ましく穏やかな朝の日常に毎度の如く、高く張り上げた声が玄関フロアーで響いた。
「旦那様、今日もエドワード様をお連れになるおつもりですか」
目くじらを立てているのは、この屋敷を統率するアームストロング夫人。その横には彼女の怒りを納めようと、慌てている執事のファルマン。
「そうだが、何か不都合でもあるのかね!」
ロイは夫人に対して、見下したように言葉を吐き出した。毎度のことながら、付き合っていられないと顔に書いてある。
「ありますとも!! エドワード様とご一緒に外出することはお控えください!」
「それは身重の身体を心配して、という意味かね」
ロイの視線は研ぎ澄まされた刃のように夫人を貫いた。それに臆しない夫人が言葉を続けた。
「いいえ、他人の目がございます。出来れば、エドワード様と外出されるのはご遠慮下さい。出来るだけ外には内密にお願いしたいのです。どこの輩が変な噂を立てるとも知れません。そのような噂を吐いて捨てるほど、エドワード様はお持ちですから」
この屋敷に来る以前にエドワードが男達の卑しい欲望に身を売っていたことを知っている夫人としては、彼を表舞台に立たせたくなかったのだ。屋敷の主人に言った通りの事が起き得ると叱咤しているのだ。
こんな資産家にそんな如何わしい者が嫁げば、彼の過去を知るものが甘い汁を吸いにやって来て、あらゆる手を使って脅してくるはずだ。そうとわかっていて主人と淫猥な者を一緒に外に出す訳にはいかないのだ。
「それは聞き捨てならんね! エドワードは私のビジネスパートナーとしても優秀な人材だ。君はその邪魔をしようとするのかね。彼の身体を気遣うのではなく、そんな対面ばかりを気にするのかね。実に陳腐なことだ!」
ロイの横で小さくなって話を聴いているエドワードは言い返す言葉も見つからない。
確かに夫人のいう事は真実なのだから――。
それでも、ロイがこうして安定期に入った自分を週に二日ほど会社に同行させて、身体の負担にならない程度の仕事を手伝わせてくれるこの日が楽しみで堪らなかった。
エドワードにとって少しばかりの気分転換と自分の能力を発揮できる場を与えてくれることが、何より嬉しかったのだ。
しかし、こう毎回出掛ける度に咎められるとエドワードの気も沈んでしまう。言い争うロイを物悲しそうに見上げるしかなかった。
全ては自分を妻に迎えたからだ。こんな煩わしいことに忙しいロイの時間をとらせてしまうことに深く心を傷めた。
二人の押し問答を耳に入れながら、エドワードは下腹に右手を当て擦った。
お腹の子供は五ヶ月になり、少しばかりエドワードの薄っぺらのお腹に膨らみを持たせていた。主治医のヒューズからも、屋敷に閉じこもってばかりでは気が滅入るだろうと、少し外の空気を吸うようにと勧められていた。
そのことは子供の父親にも伝えられていたから、ロイは喜んで可能な限りエドワードを外の世界へと連れ出そうとしていたのだ。
勿論、細心の注意を払っていた。
遅かれ早かれ、ロイが結婚したことは政財界でも話題となるだろう。口さがない世間の人々は面白可笑しく、エドワードのことを話題に出すことは重々承知している。そんな下世話な噂を身重の彼の耳に入らないように周囲には充分配慮していた。
それなのに、本日のアームストロング夫人は引くことを知らないようだ。エドワードはしょんぼりと視線を下げて、ロイの握り締められた拳を両手でそっと掴んだ。
「旦那様、今日は……行くの辞めるよ」
そのか細い声にロイは夫人との口論をぱたりと辞め、エドワードに視線を落とした。それから握り締めていた拳から力を抜いて、その手をエドワードの肩にそっと乗せた。先程までのギスギスとした感情が、今は自然となくなっていた。
「――すまん、無駄な時間を過ごしてしまった。今日はどうしても君に手伝って貰わねばならない仕事があったのだよ」
「えっ、でも…」
おろおろと見上げれば、いつもの優しい眼差しに変わっているロイの瞳と眼が合った。何だが、それだけで安心する。
「夫人、そういう訳だ。こんな口論をしている暇はないのだよ」
さすがに仕事のことを引き合いに出されると、夫人もそれ以上は責めることは出来ない。漸く、沈静化したところで整列していた使用人の誰ともわからないが、声が元気良く上がった。
「いってらっしゃいませ。旦那様、奥様…」
その声に続いて、他の使用人達も声を揃えて二人を送り出す声がフロアーに響いた。エドワードの心は湧いた。さり気ない使用人達の優しさに胸が戦慄くのだ。直接、祝いの言葉を掛けられることはなくても、こうした些細な気心がエドワードにとって糧となるのだ。
何時しか、こめかみに青筋が浮き上がっているアームストロング夫人のことは、気にならなくなった。エドワードは使用人達、否、仲間達に笑顔で深々と頭を下げた。
「ありがとう。行って来ます」
と、溌剌とした声を上げて屋敷の外に続く扉に脚を進めた。ロイも快活な声を上げるエドワードの表情に満足そうな笑みを浮かべた。エドワードの中で少しずつ、高い垣根に手が届きそうな感じがしていた。
ゆっくりで良いからこうして自分の腹の中で育っている新しい命と一緒に自分の居場所を探して行ければ良いと思うようになっていた。
傍には気長に待ってくれる旦那様がいるのだから――。
* * *
「あ!? 今日は社長の奥様が会社に来られる日よね?」
「えぇ、そうだわ。確か社長の予定表には書いてあったわ。お茶を出すついでに奥様と社長を観察しなくちゃ!」
そう噂しているのは、秘書課の女性達だ。ロイが経営している貿易会社の本社では今朝からこの話題で持ちきりだ。
週に二三度の割合で社長が最近連れて来るようになったエドワードに彼女達の意識は集中している。否、彼女達だけではない。全社員が二人に注目しているのだ。
従業員達の中でも非情と恐れられている社長がエドワードと一緒に出勤する時だけ、いつも無表情の社長に微笑が零れているのだ。それを始めて目にした社員の誰もが驚愕のあまりその場で大げさな動きで振り返り、目を大きく開いて固まっていた。
何故なら、社長には数多の女性達がいた。それは周知の事実でこの会社の殆んどが知っていた。
その女性達は我が物顔で社に出向き、社長に媚態していた。それを巧みに接遇し、社交的な薄い笑いで彼女達を伴って歩く社長の姿は女にだらしなく見えた。彼の財力と容姿に魅了され近づいて来たとわかっているだけに、社長自身の女性に対する考えに心底嫌気がさす場面も多々あったが――今回は違った。
社長が媚びてくる麗しい女性達やその背後にある権力や財力を見て肩を抱き寄せ、愛想笑いしている姿は此処にはない。
新しい彼女と思われる人を伴った社長は、脚を少し引き摺って歩く金色を終始気遣っていた。今までにない態度に目を見張るばかりだ。
「少し、早く歩きすぎたようだね。脚は痛まないかね?」
と、時折顔を覗き込んで優しく目尻を下げる社長からは、いつも漏れ出しているギスギスとしたオーラーは感じられない。傍にいる金髪の新参者を穏やかな表情で見守っているのだ。さり気なく伸ばされた逞しい腕からは卑猥な匂いはまったくしない。新参者を支えるために伸ばされたものだと、その場にいた社員は平凡に感じた。
そして、その新参者の名はエドワードと言うらしい。後で秘書課のホークアイ女史より社長の奥様だということが伝えられた。身重の為、社長との結婚を今は公にしていないが、正式な社長夫人であると。対応には充分注意するようにと連絡があった。
「エドワード、今日はちょっと環境が違うところに君を連れて来てしまったが……。お腹の子供の様子はどうだね? びっくりしていないかね?」
「うん、大丈夫。それより本当に会社にオレなんか連れて来ていいの?」
「心配することはいらないよ」
社長は身を屈めて、エドワードの様子を心底心配しているようだ。だが、当の相手は頬を桃色に染めて、気恥ずかしそうに小さく頷くだけだ。それでも社長が朗らかに笑っている姿が目から離れない。
今までのように女性と不埒に遊んでいる社長は此処にはいない。相手を思いやり熱い抱擁を交わしている社長の姿にすれ違う社員は呆然とするばかりだ。
* * *
「あの〜こういう資料はどこにあるんだ?」
少しハスキーな声が熱心に書類を書き綴っている女性の頭上に降り注いだ。はっと手を止め、見上げると眩しさに目を瞬かせた。
「奥様!? あ、はい…」
太陽のように眩しい金髪と琥珀色の瞳が入ってきた。それと同時に太陽のように眩しい笑顔も付け添えられ、こちらの方が思わず赤面してしまう。
秘書課で働く女性社員に時々エドワードが尋ねてくることがあるのだ。それを心待ちにしていることなど彼は知らない。唯、気さくに話し掛けてくるエドワードは既に社員達の虜となっていた。
本日、大義名文を言い付かった女性はその場にいた従業員に向けて、勝ち誇ったような笑みを大体に見せた。それを見た従業員がわざとらしく大きな嫉妬のため息を漏らした。
「奥様、ご案内します!」
シャキンと立ち上がり、丁寧に誘導し始めた。その女性の後を長い金髪を揺らしながら、ちょこちょこと追いかける社長夫人はとても可愛らしい。
大手貿易会社の本社ということで社内は様々な課に分かれ部屋数も多ければ、資料室も沢山用意されている。最近、手伝い程度に会社を訪れるエドワードにはまったく場所がわからないのだ。それでも、こうして社員に尋ねれば優しく教えてくれる。
案内する女性はドキドキしながら社長夫人に色んな事を尋ねたいという思いで頭が一杯だ。何しろあの社長をこうも変貌させることが出来る唯一の人物なのだから。
「あ、あの〜奥様……今、何ヶ月目でございますか?」
恐る恐る会話を切り出してみた。するとにこやかに微笑み、腹を大切そうに擦りながら答えが返ってきた。
「五ヶ月目かな? 安定期に入ったから此処に連れ出されたんだよ」
緩やかに円を描く下腹部に視線を下している。それはそれは愛おしいそうに見つめていた。
「そうでございますか。あの〜社長は厳しい方ですが、奥様にはお優しいのですか?」
その問いにはにかんで笑い、視線を横に逸らす彼の表情はとても愛らしく、見ているこちらが思わず頬を染め上げてしまう。
「…うん、優しいよ。でも、アイツ偏屈だから社員の人達は困ってるだろうね。自分のことを棚に上げる癖があるのにさ! それに細かいしね…」
コロコロと鈴の音を転がしたように笑いながらエドワードは話していた。そして、今まで謎のベェールに包まれていた社長についてこうして新鮮な話題を提供してくれるのだ。
気さくに答えてくれる社長夫人と楽しく会話を交わしながら廊下を歩いていると、噂の人物が幹部社員を後方に従えて向こうから現れた。女性は慌てて廊下の端に移動し、彼らの行く手を空けた。
「社長、お疲れ様です」
「うむ…」
社長からの珍しい返答にさらに緊張した面持ちになるが、隣の夫人をちらりと見れば、ちっとも動じていない。社長に向かって普通に会話を始めた。
「あ、言われていた資料用意したから。アンタのデスクに置いているよ」
「何!? もう終わったのかね。さすが君は仕事が速いね。それでは今夜、商談に行けるよ。先方が急いでいたのでね」
社長の後方でざわめきと感嘆の声が上がった。どの社員もこの会社の中で一二を争う有能な者達ばかりだ。今夜の商談に欠かせない資料をこんな短時間に製作する社長夫人を絶賛していた。その声を我が事の様に聴いているのは社長だ。まるで自慢するように満面な笑みを携えていた。そんな状況がわかっていないエドワードはきょとん、と目をパチクリさせて周囲を見渡していた。
「ん!? 終わったんだから、良いんだよね? オレ、行くよ…」
「あぁ、すまんな。助かった――今日は少し遅くなるかもしれん。ちゃんと食事をして先に休んでいなさい」
小首を傾けている夫人の金色の頭を優しく撫でて、社長は機嫌良くその場を立ち去った。後方の社員達は社長夫人に深々と頭を下げている。けれども今一本人は大業を成し得たとは思えないポケッとした顔をしている。それを見て、隣の女性はクスクスと声を殺して笑い出した。
「本当に奥様は素晴らしい才能をお持ちなのですね。それに社長が奥様の事を大切にしてあることが良くわかります。私、感心致しました」
「え? そうかな。単に人使いが荒いだけだよ。自分でやれよなって言ってるけどね」
ケロッと言い退けるエドワードは明るく笑っていた。こんな社長夫人に社員の誰もがすぐに打ち解けて、彼が会社にやってくるのを指折り数え待っているのだ。
続く
少しばかり、穏やかに時を過ごす二人。まあ、A夫人のことは見逃してやって…。
次回は甘い蜜月編。そのぐらいやってあげないと、(31)以降が辛いよね。
桜 美由紀 2006/10/18