愛すること、愛されること。(30)












「いってらっしゃいませ。旦那様――
午前八時。本日の旦那様のご出勤は早かった。どうやら、急ぎの仕事が入っているようだ。朝から慌しく屋敷の使用人達が働いていた。
使用人達が旦那様の送り出しの為に勢ぞろいする玄関フロアーでは、申し訳なさそうに屋敷の当主であるロイがエドワードの頬に触れていた。
「すまん。今日こそは君と一緒にランチをしようと思っていたのに…」
当主の身長に合わせて、目線を少し上げてエドワードはにこりと微笑んでいた。
「気にするなよ。忙しいんだろう。オレはこの子がいるから寂しくないから」
そう言いながら、少しふくよかに成長した腹を帯の上から愛しそうにエドワードは撫でた。少しずつではあるが、膨らみ出した腹に帯を締めさせるのは忍び難い。ロイはふわりと優しい笑顔で腹を撫でるエドワードに新しい着物を用意しようと画策していた。腹に負担がかからない緩やかな洋装。胸元で切り返しがあるワンピースを考えているが、男勝りの彼は断固として受け付けないだろう。それでも和装は彼の身体には締め付けが苦しいはずだ。寝巻き代わりに着て貰えれば、それで良いとロイは想像しながら微笑んでいた。それに
――もう海外から選りすごんだワンピースを特注で何着かロイは揃えていた。
「この商談が終われば、少しは休暇がとれる。取れなくても、ホークアイ女史に直談判しよう。それまでの辛抱だ」
玄関ホールから出て外に待機している車迄の短い距離だが、ロイは最愛の伴侶と一緒に歩きながら話していた。旦那様の手はしっかりエドワードの肩を抱いていた。
「旦那様が忙しいのはわかっているから。オレが我がまま言っちゃってわりぃー」
エドワードは少し視線を落として、先日ぽつりと零してしまった自分の願い事に後悔していた。それは本当に細やかなことだったのだ。
ロイと一緒にこの屋敷の庭園で昼食を共にしようということ
――
今までそれを何度とロイが試みていたが、何故か阻ませていた。それでも貴重な時間を割いて実現しようとするロイの必死な姿だけでエドワードは満足していた。
エドワードが偽りのない笑顔を見せてくれるので、ほっと安心したロイは執事のファルマンから阿吽の呼吸で鞄と帽子を受けとった。それから使用達の前にも関らず、エドワードの頬にバードキスを残してハボックがエンジンを掛けて待機させている高級車に乗り込み屋敷を後にした。
残されたエドワードは触れられた頬にそっと手を当て余韻を味わっていたが、それを良しとしない者が一人いた。
勿論、屋敷の女中頭であるアームストロング夫人だ。彼女が、今までの甘い余韻を打ち消すように咳払いをし、両手をパンパンと叩いて甲高い声を弾ませた。
一気に現実世界に戻されたような気分だ。
「さあ、皆さん仕事に戻りなさい! あぁ〜それからエドワード様、本日は11時よりテーブルマナーの先生がお見えになります。遅れないように良いですね」
あれほど当主がエドワードをこの屋敷の女夫人に迎えると宣言したにも関らず、女中頭は今だ一度としてエドワードのことを“奥様”と、呼んだことはなかった。それに対してロイも咎めることもなかったが
――使用人達は複雑な心境だ。
――はぁ〜い」
気持ちを表すようにエドワードが間延びした返事すると、いつもの如く夫人の容赦ない嫌味が始まった。それには使用人達でさえも耳を塞ぎたくなる内容だ。
それでもエドワードはグッと耐えていた。我が下賎な身を妻に迎えてくれた夫の為に耐え忍んでいた。
周囲の者達の方が心配するほど、夫人の攻撃は酷かった。いつかはこれに耐え切れなくなってエドワードが精神的に体調を崩すのではないだろうかと、心配するほどだ。
それでもエドワードは耐えていた
――。今は少しだけ息抜きの場所を見つけていたから…。
頻繁にではないが、それはエドワードにとって一人でいる時の楽しみとなっていた。
悪阻がどうにか治まった後、今度は空腹が彼を襲っていた。そんな彼のそわそわした態度を見ていた屋敷の料理長であるスカーが、使用人達の食堂にこっそりエドワードの為におやつを用意してくれたことが切っ掛けだ。
今日も女中頭の目を盗んで、目立たない厨房の勝手口からそっとエドワードは顔を出した。
時刻は10時の刻を告げる鐘の音が低く屋敷中に鳴り響いている。
コトコトと、幾つ物の鍋がコンロに掛かっていた。それを料理人見習いが厳しい顔つきで睨んでいる。昼食の為の下準備をしているのだろう。
こっそりとそんな彼らに邪魔にならないように厨房に侵入し、とある場所に辿り着いたエドワードの瞳は輝いていた。
「わぁ〜!! 美味そう〜」
粗末な作りだが、使用人達が全員座れる長広いテーブルの端におやつが用意されていた。そこは使用人の時からエドワードのお気に入りの席だ。
彼が来るであろう時間を見計らったのだろう。置かれているカップからは温かい湯気が立っていた。そして、皿に盛り付けられた大きなドーナツが二切れ添えられていた。
「あ、今日はドーナツだ! オレの好物良く知っているよな。頂きまぁ〜す。んっ、美味いなぁー」
そう舌鼓を打ちながら、素材を加工せずに作られた粗末なベンチ椅子にちょこんと座って、ドーナツをパクリと口にくわえていた。中はしっとり外はサクサクのドーナツの美味しさを一人味わっていると、ボソッと声が聴こえた。
その声の主はエドワードからかなり離れた席で何やら食材を丁寧に刻んでいた。昼食の下ごしらえをしているスカーが、視線を指先に集中したまま素っ気無い声を出していた。
「ココアミルクだ。牛乳の味がしないようにココアの風味を多くしたから、全部飲め! 腹の子がカルシウム不足で泣くぞ」
ぷらぷらと両脚を交互に揺らしながら食べていたエドワードが徐に顔を上げた。それから、すぐににっこりと笑顔を見せた。
「いつもありがとな!」
「……礼は良いから、食え! それとドーナツもミルク入りだ」
「うぇ〜ドーナツにも入ってんの!? しまった…気づかなかったよ。それでも、すごく美味いよ」
にこにこと微笑みながら用意されていた物を全て食べつくし、腹をすりすりと擦っているエドワードをスカーは顔を背けながらもちらりと見て、浅黒い肌の頬をポッと朱色に染めていた。それを誤魔化すようにいつも粗雑な言葉を投げるのだ。本当は作った料理を褒められることが嬉しくてしかたがないのだ。今迄、食に対して興味のなかった旦那様がエドワードを娶ってからというもの、興味を示し色んな質問をしてくるようになったのだ。そんな風に旦那様を変えてくれたエドワードを密かに感謝していた。
「そろそろ女中頭が呼びに来るぞ。早く食べたら、行け。仕事の邪魔だ!」
作った料理を褒められることが料理人として一番嬉しいことだ。エドワードの笑みに偽りはない。いつも美味しそうに食べていくエドワードの笑顔は、何時しかスカーや此処で必死に料理をしている見習い達の励みにもなっていたのだ。
「ご馳走様でした! あ、それと……此処に置いとくね」
いつものように軽やかに笑って、エドワードは料理書とその訳文を置いて厨房から消えた。その後姿をスカーは薄っすらと笑みを零して見ていた。
パタパタと厨房を通り過ぎる際に、厳しい顔で鍋と格闘している彼らにエドワードは挨拶と笑顔は欠かさない。けれども、そんなエドワードの後ろから「厨房は走るな!」と、スカーの一声が響いた。その声に一瞬身体をビクッと跳ね上げたエドワードだが、後ろを悪戯っ子のように、にやりと振り返る姿に厨房は一気に笑いの場となるのだ。


*          *          *


悪阻が治まったエドワードには、アームストロング夫人が用意した家庭教師が毎日のようにマスタング家を訪問し、彼に足りない部分を補うように教育を施されていた。
今日も11時よりテーブルマナーの講義を二時間受けてから、漸く昼食の時間を与えられた。それから別の先生が15時から来る予定だと聞かされていた。
ウンザリだ。疲れる
――。こんな柄ではないのだ。だけど、ロイと一緒にいられると思えばこそ頑張れるというもの。
そんな昼食を兼ねた休憩時間の合間に、エドワードの元にロゼが難しい顔をしてやって来た。
「どうしたんだよ?」
「うぅ〜ん……奥様にこんな事訊いて良いのかしら」
困り顔でロゼは手に持っていたメモを見ていた。エドワードは私室で短い休憩時間をお気に入りのカウチに座って窓から見える外の景色を腹の子供と一緒に眺めて和んでいた。
「ロゼ、エドで良いから…」
と、苦笑いするエドワードに向かってロゼも薄く笑い返した。が、彼女の頭はそれところではないようだ。ブツブツとメモ用紙を何度も見ては深慮なため息吐いていた。
「……ロゼ!? どうしたんだよ。オレにわかるんだったら答えるよ」
今迄、エドワードがやっていた仕事が少しではあるが、ロゼにも回ってきているのだ。エドワードの仕事は特殊なモノが多かった。学がなければ、わからない代物が大抵を占めていた。それを難なくこなしていた彼の才能はやはり他の使用人達とは違って抜き出ていたのだ。その彼が使用人という枠から抜けたことにより、少ながらずも使用人達の負担は増えたと言っても過言ではないのだ。
暫く、首を右へ左へと傾けながらロゼはやっと口を開いた。本当はこんなことを屋敷の奥様に尋ねることは許されないことだ。
それはわかっているが
――彼女にはお手上げの仕事なのだ。
――あのね。このメモの本を購入してくれって、頼まれたの。それでね。電話で屋敷の御用達の店に問い合わせてもわからないし――ないって言うのよ」
ちゃんと御用達の店に確認の電話をしている辺り、ロゼも健闘しているようだ。しかし、その後の追跡ができずに困り果てていた。
「それって、急いでいるのか?」
エドワードが心配してくれる声にロゼの曇っていた表情に少しばかり光が射した。素直にこくりと頭を下げた。
この仕事はちょうど12時前ぐらいに会社から電話があったものだ。始めは執事であるファルマンに伝えられた内容だったのだが、彼は屋敷の所用で今朝早くから不在。その為、掛かってきた電話を取り次いだロゼがたまたま仕事を担うことになったのだ。それも明朝までに揃えるように言われたようだ。使用人仲間に尋ねるが、やはりわからないの一点張りでほとほと困っていた。
「見せてみて…」
ロゼから渡されたメモを見て暫く考え込んだエドワードだが、次の瞬間にはその顔はすっきりと回答を導き出していた。
「エド、わかる?」
いつも気丈なロゼだが、こんな難題始めてと言わんばかりの困り顔にちょっとばかり意外性を感じて、エドワードはクスッと小さな声を出して笑ってしまった。それに気づいた彼女は顔を真っ赤にして怒り出した。
「もう〜笑い事じゃないんだから、エドの意地悪!」
「ごめん、ごめん。大丈夫、ちゃんとわかるよ」
破顔しつつも、ちゃんとロゼの声に耳を貸すエドワードはこの屋敷の歴代女主人達とは違って、親しみやすさを感じさせてくれた。
「此処に書かれている本は普通の本屋にはないよ。多分、セントラル通りの裏だったな。そこの古びた古本屋が持っていると思うよ。でも
――そこの場所はわからないだろうな。あそこは迷子になりやすいと有名だし。オレも何度か迷ったから」
目を輝かさせて、ロゼはエドワードの話を食い入るように聴いていた。出来れば、一緒にその古本屋に案内して貰いたいと、口に出さずとも顔に書かれていた。
だけど、エドワードは今やマスタング家の奥様の身分。それに身重の大切な身体だ。
嬉々としていたロゼの表情が僅かの間に山の天候のように変化した。そんな彼女の心情を素早く読み取り、エドワードは自分から口火を切った。
「ロゼ、心配するなよ。オレが一緒に行ってやるよ」
がっくりと項垂れていた頭が機敏に上がった。そして、その表情は花が咲いたように明るい。だけど、又もやその花は首を下げた。
「でも
――そんなことあの女中頭が許さないわ」
「言ってみないとわかんないよ。それに急ぐんだろう。オレが一緒に言ってやるからさ。元気出せよ!」
「えっ、本当? エドも一緒に話してくれる」
「うん…。いつもロゼには助けて貰っているからさ。少しは役に立たせてくれよ。さあ、善は急げというから」
――ありがとう。エド、こっちこそゴメンね」
二人はお互いの顔を見合わせ、はにかんで笑っていた。それからすぐに、エドワードはお気に入りのカウチから立ち上がると、ロゼと一緒にあの人物の元へと行った。


*          *          *


二人の想像通りアームストロング夫人の眉間は皺を寄せた。それでもエドワードは必死に熱意を伝えていた。
「急ぎだっていわれてるから。それにその本屋はオレしか知らないし…」
「貴方まで行く必要はないはずです!」
ビリビリと厳しい声色に二人はビクッと身体を震わせた。夫人の反論が容赦なく二人を襲っていた。それにも負けずとエドワードはロゼの為に恐る恐る理由を話していた。
「じゃあ、誰かロゼと一緒に行ける人が今屋敷にいるのか? 女の細腕じゃ、到底無理だよ」
以前からこの仕事は一人でこなすには荷が重いと思っていた。本当に荷が重いのだ。頼まれる書籍はどれも非常に厚くて重いのだ。少女一人では到底無理だろうと判断した。
今は妊娠中で重い物など極力持つなと言われているが、少しぐらいの手伝いは身体の為にも良いだろうとエドワードは思ってロゼに加勢しているのだ。
そう言われると、夫人も暫し悩んだ。今のところ男手はいないのだ。この仕事を任されている執事のファルマンは所用で今朝から出ている。
では、ハボックはと言えば、旦那様と同行中。他の使用人と言っても、適する人材がまったくいない。では、夫人自らという訳にもいかない。彼女も色々と忙しい身だ。さすがの夫人も今回ばかりは間が悪く頭を抱えた。
それに夫人としてはエドワードを外出させたくないのだ。
その第一の理由は勿論、マスタング家の体裁。
その二は屋敷の当主から外出させる場合は必ず男手をつけるようにと言われていた。
それはエドワードの身の安全の為
――
最近はなくなったが、エドワードに纏わりつく過去の因縁を懸念してのこと。
もう苦肉の策だ諦めるしかなさそうだ、と暫く考えあぐねた夫人は重い口唇を開いた。
――仕方がありません。くれぐれも注意してお行きなさい」
深くため息を吐いて夫人は珍しく許可を出した。その言葉でエドワードとロゼはホッと一安心した。此処の関門さえ、越えれば何事もなく用事を済ませることが出来ると思っていた。しかし、そう甘くはない夫人は喜び合う二人を前に厳しく注文をつけた。
「ロゼ、身重のエドワード様に重い物を持たせぬように。それと
――
「!?」
夫人の視線が鋭くエドワードに向けられ、彼の身体全体を睥睨した。
「エドワード様、ストール等でその腹を隠してから行きなさい」
エドワードの腹を穢れた存在のように言い放った夫人にエドワードは酷く憤りを感じた。腹の子に対して冷たい態度を取られたのではないとエドワードは瞬時に察したが、彼女が何に対してそんなに毛嫌いするのか理由は只一つ。
それはエドワード自身が当主の跡継ぎを宿していることに不満を持っているのだ。
そんな峻厳な態度を取られても、エドワードは俯いて言い返すことも出来ない。
「…はい、そうします」
小さな声で哀しそうに返事をするエドワードの心情を察することもなく、夫人は次から次へと二人が出掛ける為の注意と小言を述べ始めた。
それを二人はグッと俯いて耐えるしかない。それでも久しぶりに二人で外出できると内心喜んでいる。二人にはきつい小言もそよ風のように感じられた。
しかし、今となって思えばアームストロング夫人も此処で最大のミスを起こしたことになるのだ。行かせるべきではなかったのだ。
そして、エドワードもこの後に巻き込まれる運命を知らない
――
唯、全てが予期していなかった出来事なのだ。それとも、こうなることは定められていたのかもしれない。
全てが泡のように消え失せた。未来も夢も希望も
――何もかも、消えてしまった――




続く

あ、やっと奥様エドワード外に出ます。
これで話が進むよう/(~_~;) あ〜これから底に突き落されますのでご注意。
(31)はまだ序章かな?

桜 美由紀 2006/10/31