愛すること、愛されること。(33)
屋敷からの直通電話が主のいない社長室で鳴っていた。不吉な予感を匂わせるコール音。何気に社長付きの秘書が電話に出ると、見る間に彼女の顔色が変わっていく。そして、助けを求めるように辺りを見回し、狼狽し始めた。
「エッ!? どういうことですか? 奥様のご容態が……アッ、社長に至急ご連絡を――」
電話口を慌てて塞ぎ、歳若い秘書はベテラン秘書のホークアイに助けを求めるように彼女に向かって声を張り上げた。
能面のように固い表情を崩さないホークアイがスクッと立ち上がったが、電話口から漏れた内容に流石の彼女も感情を面に表した。
「その電話、代わりなさい!」
わなわなと震える彼女から電話を奪い取り、電話を掛けてきたアームストロング夫人と話し始めた。受話器を持つホークアイの手が固く握り締められていた。
* * *
マスタング家の屋敷ではアームストログ夫人が轟然たる声を上げ、眼前で嗚咽を漏らしながら泣き崩れる使用人を叱り付けていた。
「――ひぃく…。も、申し訳ございません。どうしたら良いのか。エドが――」
「だから、あれほど注意したはずですよ!! こんな事態になるとは…早く手分けして探しなさい!」
床に跪いて泣いているロゼの周りを、苛立ちを表すように夫人は右往左往していた。
「こんな所で泣いている場合ではないですよ! あなたはファルマンと一緒に逸れた場所を探しに出なさい。いいですね! よからぬ輩には充分注意をしなさい」
「ヒクヒクッ……はい、申し訳ございません……」
涙に濡れた瞼を何度も擦って、ロゼは立ち上がり心配顔のファルマンの元へ走っていく。
屋敷内はこの事実に騒然としていた。使用人達も手分けし、マスタング家の屋敷周辺を雨足が強い中を探し回っていた。
「クッ…」
苦虫を噛み締めるような夫人の表情からは苛立ちが頂点に達しているようだ。
こんな事態になり旦那様の激昂を買うことは間違いない。
拉致されたと思われるエドワードはマスタング家の跡取りを宿している身体。その母体は卑しい身分でありながら旦那様の目に入れても痛くない存在だ。
夫人の肩に重責という文字が重く圧し掛かってくる。
だからエドワード達が外出することに反対したのだ。けれども、その点に関しては自分にも落ち度があったことを、少なからず認め反省していた。
しかし、そもそもの原因を辿れば――エドワードの卑しく穢れた過去がこんな事態を引き起こしたと言っても過言ではない。
今更、それを悔やんでも仕方がないことだ。夫人はわなわなと震える両拳を必死に握り締めて、今はエドワードが無事に見つかることを願うばかりだ。
* * *
タイヤが激しく土砂を巻き上げ、ワイパーが雨水を弾き激しく左右に動いていた。一刻前に比べ、やや雨足が弱まっているが、降り続く雨はまだ激しい。
「――ハボック、急げ!」
「はい! わかってますけど、この雨じゃー」
後部座席に乗っている男の表情は険しい顔つきだ。そして、荒く低音な声で命令していた。助手席に座るホークアイの表情も珍しく強張っている。
ハボックは二人の険悪な雰囲気の中で、理由も聞かされずにハンドルを握り社長の御命令通りに車を走らせていた。
「社長、此処で騒いでも仕方がありません」
助手席に身を乗り出すようにして、ロイは声を荒げた。
「しかしだな! 容態が急変したとは、一体どういうことだ!! 今朝まであんなに元気だったのだよ。それに充分、身体には注意を払っていたし、ヒューズも今のところは順調だと言っていた。それなのに――どうして!?」
勢いに任せてロイは意に満たない想いを吐き出し、項垂れるようにシートに身体を預けた。ホークアイはそんな焦燥しきった彼の顔を困惑して見ていた。
「まだ、はっきりとした情報は掴めていませんから…。そう、気落ちなさらないように」
彼女もこれ以上は口を挟めない。
電話の内容から事態はあまり芳しくないようだ。そして、それに至るまでの経緯をこの場にいる者達は詳しく知らされていないのだ。電話を直接受けたホークアイでさえ、アームストロング夫人が口を濁していて、詳しい内容を聞き出すことは出来なかった。
夫人は早口で「エドワードの容態が急変したから、至急屋敷に帰って頂くようにと…。詳しいことは直接旦那様とお話をする」と、いう事だけだったのだ。
気を揉むのは仕方がない。
「……」
ロイは彼女の助言を後に口を閉じた。しかし、苛立ちは隠しきれず、落ち着かない身体は組んだ右脚の爪先が小刻みに揺れていた。
重要な商談の時でさえ、こんなに不安に思ったことはない。それなのに、今のロイの身体と心は小刻みに震撼していた。
不確かな連絡だが、ロイの胸中は揺れに揺れ動いていた。この胸騒ぎをどうしたら抑えることが出来るのか、わからない。
気ばかりが焦るのだ。どうか無事でいてくれと、閉ざした口の中でロイは何度も反復していた。
そして、彼の顔つきは屋敷に近づくにつれて峻厳な面妖に変わっていた。
* * *
コトコトと鍋蓋が揺れる音。ポコポコと湯が沸騰する音。どれも心を和ませ心地良い。此処は屋敷内でも重要な役割を担っているマスタング家の厨房。
屋敷内はバタバタと使用人達が血相を変えて右往左往していたが、厨房はその喧騒はまだ伝わって来ていない。
厨房は普段通りだ。料理長のスカーは沸騰して揺れる鍋から美味しく煮込まれた具材を取り出し、これからもうひと手間掛けようかと顎に手をやり悩んでいた。そこに料理人見習いの青年がこの厨房に慌しく飛び込んできた。マスタング家の厨房を厳しく統括するスカーは青年の粗略な行動にギロッと睨んだ。
言葉数は少ないが、スカーは料理人としての心得と腕を徹底して弟子達に教育しているのだ。だが、その厳しい視線を感じても、彼は逸る気持ちを抑えることが出来なかった。
「オイ! 一体どうしたんだ」
腰に両腕を当て、落ち着きのない青年を荒っぽい素振りで聞き返した。
「お、奥様が――ゼェ、はぁ…っ」
エドワードの名前が出ると、仕事をしていた者達は手を中途半端に投げ出し、集まりだした。息を切らしている見習いの顔色にも不安が過ぎる。
「何だよ。続きを早く言えよ! 奥様がどうしたって…」
ごくりと唾を飲み込み、上目遣いで恐る恐る料理長を見上げれば催促する寡黙な瞳にぶち当たった。
「あ、あの〜どうも仲が良かったロゼと外出したんだけど。奥様が変な奴らに連れて行かれたらしいって…女中頭がもの凄い剣幕で怒り狂っているって――」
「何ィー!? それは本当か? 何て、こった…奥様にもしものことがあれば、旦那様はとても尋常でいられまい」
「それにしても…何が起こったんだ」
「もしかして、以前付き合っていた連中に見つかったとか?」
「それとも……旦那様は何かと敵が多いから金銭目当てで、誘拐されたとか」
「いやいや、あの子は器量良しで目立つからな」
彼らの話をスカーは厳ついた表情で黙って聴いていた。しかし、憶測は憶測を呼んで、エドワードが触れられたくない暗い過去の話まで飛び出してきた。それには流石のスカーも顔を顰めて、彼らの前にズンと前に踏み出し口を開いた。
「オイ! 憶測はそれぐらいしろ。早く持ち場について仕事だ。もし奥様に何かがあった時の為にも、色んなお食事が出せるようにするのが、俺達の役目だ」
「――はい…」
あまり多くを語らない料理長の一喝に彼らは興味本位に話していたことを反省した。
彼らもこの厨房にひょっこり現れて、料理長が作ったお菓子を美味しそうに頬張って食べているエドワードのことをいつも気に掛けていたのだ。
それはスカーも同じ気持ちである。
ふっと勝手口に視線を移すと、はにかんだ笑顔で扉を開けるエドワードの姿が目に浮かぶ。顔だけをちょこんと出して、厨房の中をコソコソ伺う彼の容貌はとても愛らしかった。
スカーが今にも扉を開けて、此方に顔を出してくるエドワードの幻影を見ていると、勝手口からガタリと不穏な物音が聴こえた。
それと――僅かな人の気配。
スカーは気になり、勝手口の扉を外側に開けた。外は軒があっても、降り込んでくるほどの激しい雨。こんな大雨の中あの子は無事だろうかと暗雲を見上げ、視線を徐に斜め下に向けたスカーは驚きのあまりビクッと肩を揺らした。
「エド!?」
ずぶ濡れのエドワードが倒れ込んでいる姿が目に飛び込んできた。
太陽のように眩しかった金髪は掻き乱れ、着物の袖は引き千切られ無残な姿。あの薄桃色に染め上げて、厨房を覗いていた頬は蒼く腫れ上がり口唇の端からはドス黒い血が滴り落ちていた。否、それだけではなかった。倒れ込んでいる身体は着物が肌蹴て、その白い肌には残酷な暴行の痕が見えていた。一体、何があったのか一目で想像がついた。
あまりのことにスカーは手を差し伸べることも出来なくて、茫然と立ち尽くしていた。すると血に濡れた口唇が僅かに動き、微かな声が上がった。
「ぅう…ッ、助けて、赤ちゃんを――」
その悲痛な叫びにやっと金縛りが解けたスカーは即座に跪きエドワードの濡れた身体を抱き上げ、明るい電灯を煌々と照らしている厨房に向かって大声で叫んだ。
「誰か、早く女中頭を呼べ! エドが――大変だ! それから早く何か…そうだ。タオルを持って来い!!」
聞きなれない慌しい低音と緊急を要する内容に厨房は忙しく駆け回った。
どれだけ耐えていたのだろう――。
もしや、この屋敷に戻ってくる事をこの子は躊躇ったのかも知れない。この冷たい雨に打たれ身体は歯の根が合わず、小刻みに震えながらも腹を必死に庇っていた。
それを想うと遣り切れなさが襲ってくる。
自分に今出来る術を探した。それは身体を少しでも温めてやることだ。
スカーは己の厚い胸板を細い身体に密着させた。
エドワードの純粋な魂を知るスカーはこのようにいたぶり、傷つけた者達を決して許しはしない。
スカーの身体が戦慄き、冷たく小刻みに震える身体を掻き抱くように抱きしめた。
この子は純粋に屋敷の旦那様を愛し、その子供を慈しんでいるだけなのだ。
それを傷つけた者には何れ天罰が下るだろう。スカーの瞳が遺憾の意味を示すように固く瞑目した。
旦那様、早くエドワードの傍にいてくれと――。
スカーは始めて他人の為に祈りを捧げた。
* * *
「一体、どういうことだ!!」
屋敷中がビリビリと落雷が落ちたかのようにその声色は低く響いていた。当主の顔色は噴火する溶岩の如く変化していた。感情を抑えきれない拳が固く握り緊められ戦慄いていた。
この怒りをどこに叩きつけて良いのか、わからない――。
声を聴き付けた使用人達も身体をビクつかせて、遠目からその様子を恐々と見ていた。
激しい雨はまだ降っていた。その中をロイはホークアイとハボックを従え、屋敷の玄関を激しく開いた。ピリピリとした緊張感が漂う玄関フロアーでは、当主の帰りを待ち侘びていたように女中頭のアームストロング夫人と使用人のロゼがいつも以上に深々と頭を下げていた。
すすり泣く女の声が何故か耳障りだ。
当主が荒々しく雨雫を服から払う姿を怯えながら俯いて見ていた女どもが、一度も当主と視線を合わせることなく、今回起きた深刻な内容を包み隠さず話した。
しかし、ロイにはその内容がさっぱり理解出来ない。
疑って掛かるように、血走った瞳が彼女達をきつく睨んでいた。
頭の整理がうまく出来ない。理解したくないのだ。
「何を言っているのだ。そんな出任せを――容態が急変したと私は連絡を受けただけだ! それなのに何をおまえ達は言っているのだ!」
こんな深刻な話を女中頭が冗談を交えて話すはずなどないとわかっているが、それでも信じ難い内容にロイは声を張り上げていた。
そして、女中頭の隣ですすり泣く女の声がロイの苛立ちをもっと過大させた。
「旦那様、申し訳ございません」
そればかりを涙声で繰り返す年若い使用人のロゼか震えながら謝罪を続けていた。
「わ、私がいけなかったんです。――旦那様の大切なお子様を身籠っている身体なのに…」
激情に駆られたロイの怒りの矛先は彼女らへと向けられてしまう。
「だから、あれほど注意していたのだぞ! 貴女には重々伝えていた。それを軽んじるから、このようなことになるのだ!」
夫人は隣で泣き崩れるロゼの身体を支えながら平身低頭し、自分の失態を詫びた。
いつもはエドワードの素性に託け、難癖をつけては当主と対立していたが、夫人も今回ばかりは自分の不始末を心から反省しているようだ。
それでもロイの激昂が治まるはずもない。
「それとも――そんなにエドが憎いのか! だからこのような事態を態と起こさせるように仕向けたのか! その隣で泣く女と組んで…」
ロイの目尻が吊り上り、口角が極悪的な苦笑を浮かべた。その面妖はエドワードと出遭う以前の非人情的な男の顔に変わっていた。歪んだ口角は思考までも捩れて曲がっていた。それほど大切にしていた者が窮地に追い込まれている事実に心が乱れ荒れているのだ。
「そのような考え滅相もありません! 旦那様、申し訳ございません…」
二人は床に額を擦り合わせて、謝罪の言葉を口にすることしか出来ない。
ホークアイは憤怒をぶちまけるロイのいかった両肩を哀しく感じた。ハボックもあまりな光景に目を伏せて持っていた鞄を抱きしめていた。
しかし、ロイの激情は治まる所を知らず――。
ゼェゼェと大声で罵声を飛ばし、ロイの豪腕が怒りに任せて遂に持ち上がったところをハボックが咄嗟の判断で止めに入った。
「旦那様、待ってください――」
それに続くようにホークアイも口で助勢した。
「社長、お止めください! それ所ではないはずです…」
ロゼは旦那様の憤激の恐ろしさに、頭を庇うように平伏していた。しかし、夫人は自らの失態を戒めるように主人の憤怒を、身を持って受けるために背筋を伸ばし瞑目していた。
その姿を一瞥し、苦笑したロイはハボックの腕を振り解いた。両肩を上下させ呼吸をどうにか整えて、夫人を鋭い目付きで見下ろした。
「――エドワードの容態は」
「外傷が酷く……その上、冷たい雨に打たれてあまり良い状態とは言えません」
「………」
夫人から聞かされた内容にロイは顔を顰めて絶句した。
後を振り返らず、無言でロイはズカズカと二階に上がり始めた。その後を慌てて、夫人が小走りで追う。
「ど、どちらに行かれます? 旦那様…」
「無論、エドワードの所へだ!」
「お、お待ちください。只今、ヒューズ様の手当てを受けておられます。どうかお待ち下さいませ」
「待ってなどいられるものか! エドワードの顔を見なくてはならない」
夫人が伸ばしてくる腕もはね退け、ロイはエドワードが治療を受けている部屋に進んだ。
激情に駆られて身体は震えていた。呼び止められる声も漫ろにロイはとある部屋の前に立った。その扉の前には使用人達が水がはいった洗面器やタオルを持って慌しく待機していたが、当主の来訪に気づき慄いた。彼女達はロイの顔色を伺いつつも、彼が部屋に入るのを阻止しようとした。
「だ、旦那様…今は――もう暫く…お待ちくださいませ」
彼女達が治療に必要な物を渡すために部屋に入った際に、エドワードの無残な姿を垣間見た。そして、彼女達はあまりの酷さに言葉を失った。そんなエドワードの姿を当主に見せられないと判断したのだ。
しかし、そんな気遣いもロイは払い除けて、戦慄く右手がドアノブを握って開閉する為に回した。
ロイは開けなければ良かったと思った。
扉の向こうには現実が待ち構えていた。
そこで、己の愚かさに気づいた。守ってやれると――想っていたのに。
目の前の惨状にエドワードを見舞うつもりが――己の不甲斐なさを悔やんで…泣いた。
続く
漸く、冒頭に戻りました。
このシーンが書きたかったのですよ。ロイの激昂シーンですね。さぁーて、エドワードの運命は?
只今、桜模索中ですが…先を色々な理由で書いていません(>_<)
桜 美由紀 2006/12/1