愛すること、愛されること。(34)
「エドワード!?」
扉を開くとほんのり明るい灯りが部屋中に満ちていた。廊下はランプの灯りを頼りに全ての物が薄暗い色に見えていた。けれどもこの室内は橙色の明かりが揺らめいていた。
少しだけ気持ちが和らぎ、そして室温は適温よりも少し温かい。これはエドワードの傷ついた身体を気遣ったものだろう。
忙しい声色が部屋を支配しているのにロイは気づいた。
ロイはそれなりの覚悟を持ってこの部屋を訪れたつもりだったが、全容が明らかになった現実に打ちのめされた。
切迫した声色がロイの心臓を鷲掴みにし、一歩一歩灯りが激しく揺らめく場所に近づくにしたがって、背中から嫌な冷たい汗が流れてくる。
「グレイシア、もっと灯りを近づけろ!」
聞き覚えのある声に安堵感を覚える。だが、その声色が逼迫している様子を伝えた。
今になって気づけば、鉄の香りと消毒液の匂いがこの部屋に充満していたのだ。それに気づいた途端、部屋中に満ちた緊迫した空気をヒシヒシと感じた。
ハッとロイの脳が眼前にある光景を視神経が捉え、画像として映し出した。
そこには正視出来ない光景が広がっていた――。
嘘ではなかった。偽りではなかった。
声を失い、眼前の光景から逃れるように大きな手の平が視界を覆った。
ギュッと掴むように顔を覆っていた左手を外して、一歩前に近づき口唇を震わせて声を上げた。
「エド、どうして……こんなことに…」
グレイシアが傷口に必死な形相でライトを近づけていた。その灯りを頼りにヒューズが額に汗を浮かべ手当てをしていた。
エドワードは?
痛みに呻きながら、枕に顔を埋めて耐え忍んでいる。その額には珠の汗が浮かんでいて、時折グレイシアが濡れたタオルで拭っていた。
食いしばる口端は青黒く鬱血し、血が滲んでいた。その頬は蒼黒く変色し、原型がわからないぐらいに腫れ上がり思わず、差し伸べていた手を引いてしまった。
金糸の髪は濡れそぼって、枕に冷たい染みを作っていた。左手が必死に痛みを耐えるようにシーツを掻き毟っていたが、右腕はその機能を忘れたように腫れ上がり清潔な真っ白い包帯で幾重にも巻かれ固定されていた。肌蹴られた肌着からは擦り傷、裂傷が見え隠れし、赤い鮮血が覆われたガーゼから滲み出していた。
それだけでも目を覆う惨劇だ。あちらこちらそんな生傷が耐えない。
ヒューズは怪我人の両膝を立て股座を触診していた。その表情はひどく塞ぎ込んでいた。広げられた両脚から白い長襦袢の裾がさらりとめくれて、醜い痕を残す傷が目に付いた。そこを狙ったかのように古傷は新しい傷となって鬱血していた。他にもほっそりと生白かった肌は深く傷つけられていた。
口唇を震わせながらエドワードの名を呼ぶと苦痛に顔を歪ませ、瞑目していた目蓋がプルプルと瞬きながら開かれた。それにロイは少しばかりの安堵の色を見せたが――。
開かれた虚ろな琥珀色の瞳からはポロポロと涙の雫が零れ始めた。
「エドワード!?」
傷つけられた身体を労わってやろうと、ロイはこの姿を見るまでは粋がっていた。けれども実際は彼の身体に触れることに躊躇いを感じてしまう。
伸ばした手を知らぬ間に引っ込めてしまっていた。それほどに燦々たる現状なのだ。
己の不甲斐なさを情けなく思った――。
憔悴しきった身体は声を上げるのも儘ならない。それでもエドワードは苦痛に堪え、慣れ親しんだ声色に向かって顔をゆっくりと向けた。
今にも泣き出しそうな表情を見せる男に、伝えなくてはならないことがあるのだ。
少し口唇を開くだけでも激痛が走る。それをグッと耐えてエドワードは喉から掠れた声を出した。傍に耳を寄せなければ、聞き取れないほどの小さな声。
ロイは身体を屈めて、彼の口元に片耳を近づけた。するとか細い声が耳に伝わってきた。
「――ごめん、なさい…」
必死に言葉を紡ぐ、エドワードが涙ぐましくてロイは彼の顔横で額をシーツに擦り合わせた。それからくぐもった声を必死に出してエドワードを励ました。
「……君が謝ることはない。君が悪いのではない。――君は必死に守ったのだろう」
この荒くれた感情を表すようにロイの手は己の黒髪を掻き乱していた。塗炭の苦しみからゆっくり顔を上げて、涙を流しながら笑顔を作った。
エドワードの万感の想いをロイが代わりに言葉にした。朦朧とした意識でも、エドワードの胸壊は歓喜に溢れかえった。
嬉しかった――のだ。こんな汚れきった下賎な身体を信じてくれる人がいた。
この想いをどう伝えたら良いのか、わからない――。身体は動かない。口を開くのも億劫だ。それでも――。
ヒック、ヒック…とエドワードは胸を上下させて嗚咽を漏らし出した。
「エドワード!? 泣かなくて良い…身体に障るから」
困惑したロイの声色がとても優しくエドワードの胸に染み入る。
「……ぅ、うっ…もうこの身体をあんな奴らに触れさせたくなかった。大切な人の子供がいる――このお腹を触られたくなかった」
ロイにもエドワードの熱い想いが伝わってくる。先程まで触れる事を躊躇っていた手が自然と伸び、湿った金色の小さな頭をそっと包み込んだ。
「わかっているから…」
君の想いは伝わっているのだ。あの心も汚染されそうな売春宿にいても、君は輝いていたから――。君はその純粋な心で何かを守ろうとしていただけだ、ということ。
ロイは傷に障らない様に優しく、それでいて強く想いを込めて抱きしめた。
「ぅ、ん…お腹だけは必死に守ったんだよぉ。だから、許して…」
大粒の涙を琥珀色の瞳、一杯に浮かべて懇願していた。
「許すも許さないもない! 君は私の大切な子供を守ってくれたんだ。それだけで充分だ…君は何も悪いことはしていないよ」
エドワードの嗚咽は止らない。そして、何度も謝罪を繰り返している。
決して――君が悪いのではない、と言い聞かせてもエドワードの懺悔は終わらない。
冷たい身体は嗚咽を繰り返すごとに、急速に熱を孕み始めた。苦慮の色を表していたヒューズの顔が突如、峻厳なものに変わった。
「グレイシア、鎮静剤を早く!! これ以上、興奮させてはいかん。胎児が危険な状態に晒されるぞ!」
ヒューズの動きが敏捷なものに変わる。それに驚き、ロイは情けなくも狼狽してしまう。気づけば、抱きしめていたエドワードの顔色は蒼白に変わり、嗚咽を上げていた吐息は忙しく熱い息を苦しそうに吐いていた。
ロイが何度も彼の名を呼び掛けたが、反応がない。
困惑した面持ちでヒューズに視線を向けたが、慮外な言葉が返ってきた。
「ロイ、おまえは外に出ていろ」
気遣う余裕のない低音にゾクリと背筋が凍りついた。ヒューズは急変したエドワードの容態に油断ならない状態なのだ。
「……しかし、エドが――」
助けを請い上目遣いでヒューズを見つめるが、その視線を逸らされてしまった。傍にいる事さえ、許可されない事態にロイの心は冷たく凍えていく。
この時ばかり自分の不甲斐なさに悔やんだ。
それならばと――憎悪というモノが変わりに芽生えてきた。
絶対に許さない!!
エドワードをこのような目に合わせた奴らを絶対に許さない!!
ロイはエドワードの身体で傷ついていない場所を必死に探し、その箇所を何度も擦りながら、グレイシアに促されて後ろ髪を引かれる思いで部屋を出た。
「エドワード……」
哀しい慟哭が薄暗い廊下に呼応して響いた。締め出された扉を叩いたロイはだらりと腕を垂らし、扉を背後にした。
事態は緊迫していた――。そして、ロイの憤怒も頂点に達していた。
前髪に表情を隠されていたが、その面は何人たりとも近づけない鋼の目つきとなっていた。触れる者を容赦ない視線で射止めていく。冷酷で卑劣な瞳が顕在していた。その面妖な面構えは彼の身の内に燻る激昂の大きさを表していた。
「だ、旦那様…」
と、気遣いの言葉を掛けてくる者でさえ標的にされような目つき。一瞬にして、その場は羅刹が棲む場所に変わる。
待機している使用人達が恐れ慄き、身を縮み上げ沈黙していた。その静寂の中を瞋恚に燃えた面がゆっくりと上を向いた。ドキッとするその表情に使用人達は俯いた。
「ホークアイ君、幹部を屋敷に呼べ! それから今からいう資料を私の書斎に持ってくるように。大至急だ!」
言葉は緩やかに始まり、最後は怒気を孕んだように張り上げられた。ホークアイは口角を歪曲させた社長の暗黒の表情を黙って見ていた。
以前はその面を見るだけで嫌気が差したが、今日はそんなことを微塵も感じなかった。何故なら、彼女も眼前で世を呪うような表情をしている男と同じ面構えになっていたからだ。
「はい――何なりとお申し付けください」
ロイの復讐は水面下で始まったのだ。
* * *
苛立った表情を露にしていた。
揃えられた資料を広いデスクに広げ、忌々しくある場所にロイは指を指していた。
「此処だ! この土地を全て買い取れ!! 金は幾らでも良いから買い占めろ!」
社の中でも土地買収に明るく腕の立つ幹部達がマスタング家のリビングに集められた。広大なリビングは突如、物々しい雰囲気を漂わせた会議室に変わった。突然の収集に困惑した社員もいるが、この手のことは日常茶飯事だ。
しかし、今回の買収は何やら因縁めいたものが孕んでいるようだ。いつもと形相が違う社長の顔つきでそれはわかる。それに漠然とだが、使用人達の隔意ある態度で社長が怒り狂っている原因を感じ取ることが出来た。彼の傍には――エドワードがいないのだ。
そして、その土地は以前から買収を狙っていた物件でもある。
何かと土地所有者が入れ替わり、曰くのある店が立ち並び経営されている。その所為で交渉が難航していたが、こう社長が強気に出れば鬼に金棒である。あらゆる手段が許可されたといっても過言ではない。
「わかりました。この土地の所有者との交渉は如何様にしましょうか?」
ブレダの瞳が残忍に光、その視線だけを上げて社長の意向を確認した。
「この土地に関るもの全てを我が社の手中にしろ! 誰も私の意に歯向かわないようにな! そして――燻り出せ!」
「はい! 社長の仰せのままに…」
これがどういう意味を示すのか、強面の社員達は熟慮していた。
それは――この場所で如何わしい経営をしている頭を潰せという意味だ。その段取りを任されたのだ。
――深くは追求しない。されど標的にされた男は社長の逆鱗に触れたという事だ。こうなったからには、その男はこの業界、否この国にいることは叶わないだろう。
また――歯向かってくれば、命を落すことも在りうるのだ。
バンッと、ロイの両手の平がデスクに広げられた地図を叩いて、その不退転な意思を示した。
「アイツを絶対に許さん! さあー行け。徹底的に奴らを叩きのめせ!」
その瞳には焔が燃え上がり、獲物を狙う狩人の目つきになっていた。
真っ当なことをサラサラと涼しい顔で吐き出しながら、弱い物を餌食に生き、そして弄んでいたあの男の歪んだ面妖は――今も忘れられない。
キンブリー。
不慮の事故で重症を負っていたエドワードの身体さえも、男達の欲望に捧げようとしていた男だ。人としての価値など、あの男にはない。
一人になったリビングは閑散としていた。
先程まで荒々しく命令をしていた声色も今はない――。
急激な虚無感をロイは感じ、ガクリと黒革のソファーに身体を投げ出していた。コチコチと、このリビングの中で一番高価な柱時計が趣きある音で時を刻んでいた。
視線を上げると、あれから随分長い時間が経過していた。けれどもヒューズから何の音沙汰もない。それを想うとロイの額には冷や汗が滴り落ち両肘を膝に突いて、頭部を抱えるように支えていた。
激しく罵倒するように、命令を下している間もエドワードの惨憺たる姿がロイの脳裏でフラッシュバックしていた。
「エドワード、どうか…無事でいてくれ」
すると寂寥たるリビングに足音が聴こえてきた。ハッと気づいて煩悶し、疲れ切った顔を上げると眼前にヒューズが眉間に深く皺を刻んで立っていた。
「ヒューズ…」
ヒューズはロイと向かい合わせに、黙って黒革のソファーに腰を下した。その物腰からは疲労の文字がありありと現れていた。
そのヒューズの後を追うように、アームストロング夫人が神妙な面持ちでリビングに入ってきた。夫人がパタッと重々しい扉を閉めるとそれを待ちかねたようにヒューズが口を開き出した。
「エドワードはどうにか……。だが、腹の子は――あまり芳しくない。今は小康状態だが、もしもの場合もありえるから覚悟してくれ」
覚悟を決めていた――。
ロイはズシッとその言葉を重く受け止めたが、諦め切れない想いも顕在していた。口唇を戦慄かせながら、希望を持たせてくれるだけの言葉を得ようとした。
「……まだ、そうと決まった訳ではないのだろう。二人は頑張っているのだろう」
「あぁ……そうだ。今は絶対に安静が必要だ。ちょっとした精神的な心労も腹の子には命取りになる状態だ。そうなるとエドワードも危ない…」
「―――」
それ以上は何も返す言葉が見つからなかった。
ヒューズもソファーに身体を深く預け、重いため息を吐いた。
エドワードの身体を治療した者だからこそわかるのだが、エドワードが暴行を受けた背景が浮かんでくるというものだ。遣る瀬無さにヒューズの口を重くさせたが、解せぬ想いがふつふつと湧いてきた。
「まったく酷いもんだ! 故意にやられたのかどうか判断のしようがないが。エドの動きを封じ込める為の暴行みたいだ」
ヒューズの顔つきが醜く歪み、素直に怒りを面に出していた。
「クッ、許せん!!」
「だがな…ロイ、感心するよ。あの子は必死に守ったんだな。身を挺して胎を庇っていたようだ。それで右腕は骨折しているよ…。他にも――酷いもんだよ。よくこの屋敷まで歩いて帰って来たものだ。ホント、身重の身に…クッ、何てことをやる奴らだ…」
病状の説明を訊けば訊くほど、エドワードをこんな目に合わせた奴らに対して憎悪が湧いてくる。艶やかな黒髪を掻き乱してロイは苦々しい顔でヒューズを睨むように見た。
「――あいつらは、そういう奴らだ!」
「ロイ、目星はついているのか?」
「あぁーもう次の手は打った」
ピシャッと暗雲に稲妻が走った。それから忽ち落雷が轟いた。その音に呼応し合うように、ロイも声色を低音にして答えた。身の毛のよだつロイの表情が蒼い光に浮かび上がった。流石のヒューズもその面にはゴクリと生唾を嚥下してしまう。ロイの中に棲む悪鬼を呼び起こしてしまったのだ。
しかし、そんな悪鬼もエドワードが絡むと愛情ある一人の男に変貌するのだ。それを知っているヒューズはふっと顔の緊張を解いた。
「ロイ、エドの傍に行ってもいいぞ! だがな……くれぐれも興奮はさせるなよ」
先程、爪弾きされたロイに漸く許可が下りた。
悪鬼の如き形相の男は途端に目尻を下げ、おろおろと席を立ち上がろうとしていた。その変わり身の早さを呆気にとられながらヒューズは言葉を続けた。
「……油断ならん状態だから、グレイシアを二、三日付添わせよう」
そういうヒューズの声を背中で聴いていたロイの視界にアームストロング夫人が映ったが、睥睨しただけに終わった。
今はそれ所ではないのだ。
一刻も早くエドワードと子供の容態が回復することが先決なのだ。
彼女らを叱責する余裕はなかった。
そして――この余裕の無さが、愛する人の孤独に気づくのに遅れた。
屋敷の者達、否、関係する者達、皆が不安を抱いて戦慄く心を見抜けなかったのだ――。
オレは淋しかったんだと思う――。
エドワードはそう後で自分の行動を振り返った。
続く
すみません。久しぶりの更新です。
あー痛いシーン満載です。頑張れエド! 旦那様は相当怒っています。旦那様、復讐編を考えなくてはいけない。
桜 美由紀 2006/12/23