愛すること、愛されること。(35)












氷を割る鈍い音がしんみりとした寝室に響いていた。アイスピックを持つ男の手はぎこちない。それでも男は冷たさに手の感覚を奪われながらも懸命に氷を割っていた。
男の瞳には微塵の野心も嫉妬もない。一心不乱に氷を割っているのだ。だが、あるものと言えば、素朴に愛する者を祈り続ける瞳だけだ。
カラカラと氷の重なり合う音と水の音。その音は音階を奏でるように優しい。それでいて癒しを感じさせる音だ。
ロイは氷嚢を新しく作り変え、熱に汗を滲ませるエドワードの額にそっと乗せた。熱っぽい吐息は忙しなく漏れていて、彼の身体が苛まれていることが容易にわかる。
頬も時間が経つと共に醜く腫れあがっていた。そこを労りながら、冷たく湿らせたタオルで冷やしてやる。
ロイはベッド横に置かれた椅子に座り、彼の苦痛に歪む顔を覗き込むように見ていた。容態が急変する場合もあるので傍にはグレイシアも付き添い、憂慮な面持ちで見守っていた。
エドワードは時折、夢に魘されるように頭を小さく左右に振っていた。そして、薬が与える眠りの中で微睡んでいた。その眠りは酷く辛いものかもしれない。孤独との闘いなのだから……。
ロイは少しでもそんな彼の苦痛を緩和しようと、グッと掛布を握り締めている彼の右手に己の手を重ねた。


*          *          *


長く暗い夜。雨音はまだ止まない。カタカタと打ち付ける雨がそれを知らせていた。
グレイシアはエドワードの不憫さに心を沈ませて見つめていた。その傍にはエドワードが眠るベッド脇に突っ伏している黒髪の男。
コチコチと音を奏でる時計の時刻は午前をとうに回っていた。エドワードの為をと、ロイは慣れない手付きで看護していた。
大財閥の旦那様がやる仕事ではない。使用人達が看護を代わろうと幾度となく申し出てきたが、ロイはそれを無視して此処にいるのだ。
明日も早くから仕事があるだろうにと、グレイシアが目を細めてロイの背中に毛布を掛けてやった。突然の緊急事態に彼の精神状態も疲弊していたのだろう。ロイはその気配にもまったく気づく様子はなく眠っていた。
エドワードの左手を握り締めて
――
微笑ましい姿を垣間見ることが出来たが、以前エドワードは浅く短い呼吸を吐いていた。魘されるように少し頭が揺れると、氷嚢がカラリと音を立てて額から落ちた。
ロイの代わりにその氷嚢を掬い上げようとすると、エドワードが小さな呻き声を上げながら、固く閉じていた目蓋を開けようとしていた。
グレイシアがその異変に気づき、エドワードの脈を測り始めた。やや早めに打ち続ける脈拍に眉を顰めたが、そっとその腕を掛布の中に納めて額の汗を拭ってやると、ぼんやりと琥珀色の瞳が現れた。
「……ぅ、んっ
――
暫く、その瞳は虚ろに辺りを見回していた。だが、虚ろな瞳は緊迫したように突然光を取り戻した。
急激に覚醒したエドワードの身体は鈍い反応をしていた。まるで自分の身体ではない感覚に戸惑いを感じていたが、少しでも身体を動かそうものならば全身に疼痛が走った。
それでも虚ろな金目が何かを探すように彷徨っていた。それが見つからなくて瞳から涙の雫がぽたりぽたりと零れ出した。
「どうしたの?」
優しく問い掛ける声音がエドワード耳にぼんやりと聴こえたが、理解は出来なかった。唯、重い頭を緩慢に振ることしか出来なかった。
何をどう伝えて良いのやらわからない。それに身体は鉛のように重くて動かない。憔悴した身体は口を開けることさえ儘ならないのだ。
それでも熱っぽい息を小さく吐き続けるだけの彼を穏やかな瞳が見下ろしていた。
――大丈夫よ。エドワード君、眠りなさい」
グレイシアのふとした言葉で、朦朧としていたエドワードの意識が急激に浮上した。
自分は肝要なことを忘れていたのだ。
にわかに彼の顔が強張っていき、僅かに動く運動神経が彼の左手を動かした。その手は小刻みに震えながらある場所を目指してゆっくりと進んだ。まずは緩やかな丘に辿り着いた。そこで少しばかり彼の表情が緩められた。
覚束ない全神経を集中させた。するとその丘は温かく微弱な鼓動を刻み、命の息吹が
――トクン、トンク…と胎動が伝わってきた。
エドワードの表情に少しずつ明るさが蘇ってきた。そこを何度も確かめるようにエドワードの左手が腹を擦っていた。
それから緊張のあまり引き攣っていた顔が柔らかく微笑んだ。
彼の一挙一同をグレイシアは目を細めて見つめていた。優しい手付きで零れる涙の雫を掬い取り、朧な瞳を覗き込んで彼女は子守唄でも囁くように声を出した。
「エドワード君、泣かないでね。それに
――ほら、探している人は此処にいるわよ」
エドワードが彼女の視線をゆるゆると追うと、揺れる琥珀色の瞳に黒い物体が映った。混乱している意識はそれを判別するまでに暫しの暇が掛かったが
――
ぼんやりとしていた瞳に生気が溢れ出して、彼の口唇からガラガラに嗄れた声が呻き声を上げるように小さく鳴った。
「……ロ、イッ?」
にこりとグレイシアが微笑みながら、エドワードの頭を少し抱えて氷枕を差し替えた。エドワードは首だけをロイの方に向けて目を丸くしていた。それからゆっくりと安堵の熱い吐息をゆっくり吐いた。
そして、彼は重い目蓋を安心したようにゆっくりと閉じた。
良かった
――傍にいてくれたことに喜悦し、ほろりと涙が零れた。
だけど、今はとっても眠くてロイと話すことも出来ない。本当はもっとオレの話を聞いて欲しかったのかもしれない。もっともっと許しを請いたかったのかもしれない。
ロイは許してくれているかもしれないけど
――オレの気持ちはずっと晴れない。
闇の中を彷徨い続けていた。
今更……いい訳だと、言われるかもしれないけど、ね。
頼りないオレが心を寄せているのは、ロイただ一人なんだ。


*          *          *


朝陽を目蓋の裏に感じて、ロイは顔を上げた。
夢ではない
――現実に再びハンマーで頭を殴られたようだ。
「エドワード…」
鼻に掛かった声で呼びかけても反応はない。昨晩から彼の容態は変わっていない。彼は寝苦しそうに表情を歪めていた。重い空気がその場を包み込んでいると、背後からの声にロイは振り返った。
「エドワード君、明け方に少し目が覚めたみたいなの。貴方を探していたわ…」
物腰の柔らかいグレイシアの口調にロイはほっと胸を撫で下ろしたが、エドワードの辛そうな表情を見ると容態が気になるところだ。
「私を探していた!?」
驚いたようにエドワードの顔を見下ろし、汗に濡れた金髪を優しく撫で付けた。こんな状態に陥っても自分を必要としてくれるエドワードがたまらなく愛おしい。
「そうですか……エドの容態は?」
苦い顔を浮かべながら尋ねると、グレイシアも表情を暗くした。
「あまり……。良くも悪くもなっていないわ」
「そうですか…」
ロイは目を伏せ、頭を抱え込んだ。
苦しむエドワードを気遣わしい顔で見つめることしか出来ない。
そっと顔を逸らし、温かい彼の左手を包み込んだ。それから徐に立ち上がると、グレイシアに頭を下げた。
「すまんが、エドワードのことを頼んでも良いかね。仕事が立て込んでいて…。出来ればずっと傍にいてやりたいが…」
そういうと、少しばかり瞳を逸らした。
傍にいてやりたいのは、山々なのだ。しかし、何も出来ない自分が不甲斐なくなるのだ。こうしてエドワードが窮地に陥って必死に這い上がろうとしているのに、ただこうして手を握ることしか出来ない自分が辛いのだ。
それより他にも出来ることが
――あるのだ。いいや、これは自らの手で遣らねばならない。しかし、それでエドワードの苦痛が和らぐものではないと、ロイはわかっていた。
それでも
――彼の過去を綺麗に拭ってやりたかったのだ。
自然とロイの表情が冷厳なものに変化していた。それを黙って見ていたグレイシアは長く息を吐いた。
「わかりました。貴方もあまり根を詰めないように」
彼の気持ちを察した彼女はそれ以上深く追求することはなかった。


*          *          *


「あら、目が覚めたようね?」
橙色の灯りがチカチカと瞼の奥で点滅していた。それが眩しく、エドワードは瞳を凝らしながら、ぼんやりと薄目を開けた。しかし、彼の意識はまだ混沌の中にいるようだ。
「……」
ころんと、首を左側に倒すと乱れた金髪が傷ついた頬を覆うように落ちてきた。それから口を開こうにも、エドワードは声の出し方がわからずに戸惑っていた。
するとそんな彼の様子に気づいたグレイシアが熱を孕んだ額にそっと手の平を乗せた。その手にエドワードは懐かしさを感じた。そして、安らぎという感情に浸った。
エドワードは熱い吐息をゆっくりと肺から吐いた。
少しずつ彼の記憶と意識が鮮明になってきた。ゆっくりと視線だけを動かして、エドワードは大切な男を探した。
いつも颯爽としている表情を酷く歪めて、自分を叱るに決まっている。そうしてくれた方がどんなに楽だろうか
――
そう想って心許ない首がゆっくり角度を変えて、黒髪の男を探していた。
エドワードの僅かな動きで彼の感情を読み取ったグレイシアはにっこりと微笑んだ。
「ちゃんと彼は傍にいるわよ。あなたが眠っている間、ずっと心配そうに見守っていたわ」
その言葉はすんなりとエドワードの耳に伝わった。
良かった
――
彼に見放されてはいない。この子がまだ自分とロイの間を繋いでいるのだ。
エドワードは寝具の中で大切な場所をゆっくりと擦った。
それでも
――ロイの顔を見たい。あの大きな手で触れて欲しい。
許されることならば、この穢れた身体をその手で浄化して欲しかった。
それを想うと、自然と涙が溢れ出してくる。しかし、その涙を自分で拭うことが出来ないのだ。あの男達と闘って身体は疲弊困憊して、自由が利かないのだ。それが歯がゆくて堪らない。そんな彼の様子を見たグレイシアは微苦笑を浮かべていた。
「次に目が覚め時は、彼が必ずあなたの傍にいるから…」
ハッとしたように表情はほの明るくなり、エドワードはこくりと頭を揺らした。
ロイの仕事が忙しいのは、重々承知している。それにこんな事件を起こしてしまったのだ。その後始末に時間を割かれていることも承知している。
それの上、深夜に自分の看病をしているロイが堪らなく恋しい。
それがたとえ嘘だとしても
――彼が恋しいのだ。
「……うん」
小さくかさついた声を鳴らしてエドワードは再び目蓋をゆっくりと閉じた。
夢現の世界に引き込まれるエドワードは切願した。再び目蓋が開いた時、自分の瞳に映る最初の光景は激昂するロイの顔が見たい。
大切な跡継ぎを危険な目に合わせてしまったのだ。それなりの仕打ちを受けなければならない。
わかっているのだ。
己の穢れた過去がこんな不祥事を呼び起こしてしまったのだ。
だから
――叱ってくれと。
そして、自分勝手な想いだけど……。
ほとぼりが冷めたら、また彼の傍に置いてくれるように
――穢れたオレを許して…。
エドワードは微かな息吹を宿す場所に左手をゆっくりと這わせた。これも胎の子が頑張って生き続けてくれているから想えることなのだが……。


しかし、それから三日ほど二人はすれ違いの時間を過ごすことになるのだ。
ロイが見舞う時間帯は決まってエドワードが眠りに就いていた。そして、エドワードがぼんやりと目覚めている時間は、ロイが仕事に追われていた。
これは故意にそうなったのではない。神の悪戯というものだ。
本当はずっと一緒にいたかったのに……。
傍で見守りたかったのに……。
そのすれ違いが今後の二人を荒波へと誘った。


神様はやっぱり穢れたオレを許してはくれなかったのだ。
そして、オレはいつの間にかロイの傍を離れて生きていく術を忘れてしまった。
オレは自分がどっぷりと幸せという言葉に浸かっていた事に今更ながら気づいてしまった。




続く

すみません。
エドが可愛そうな状態です。が、まだまだですよ。ただ今、ロイが反撃しているシーンー書いています。
殴れ!やっちまえー! 旦那様〜キンブリーをのしてしまえ!そんな感じでまだまだ続きます。
今年もどうぞ宜しくお願い致します。

桜 美由紀 2007/1/3