愛すること、愛されること。(36)












「奥様、少し枕を上げますね。ご気分が悪くなりましたらおっしゃって下さいね」
エドワードの看護はグレイシアの代わりに屋敷の女中達が甲斐甲斐しくやっていた。
数日間、緊迫した状態を彷徨っていたが、容態が少し落ち着いたのだ。まだまだ、胎の子は不安定な状態なのだが、今はその容態を観察するしか出来ない状態にある。
「うん…」
ぼんやりとエドワードは声を出した。
意識がしっかりしてきた彼は周りを見渡したが、やはり今日もその姿はなかった。
しょんぼりと肩を落とし、辛そうな息を吐いて顔色を沈ませた。
傷つき身も心も憔悴しきったエドワードは痛ましく、顔を合わせるのも憚ってしまう。だから殊更に女中達は努めて明るい笑顔を作って彼を励ましていた。
女中達もエドワードが目覚めるたびに旦那様を探していることに気づいていた。
また、その反対も知っている。
旦那様がエドワードを心配するあまり深夜にも係わらず彼を見舞い、そのまま彼のベッドで突っ伏して眠っている姿を毎晩見ているのだ。
絡み合うように握っている左手が二人の絆の強さを感じさせて、女中達はその姿に破顔していた。
けれども二人はそれを知らない。
そのすれ違いが傷ついたエドワードの心をより一層孤独にしていた。
そして、ロイは彼をこんな眼に合わせた奴らが許せずに憎しみの焔を燃やし続けていた。
そんな二人の気持ちのすれ違いに悪魔はそっと囁くのだ。
「奥様、旦那様はすぐにいらっしゃいますよ! 今日はお仕事を早く切り上げられたようですよ」
薄暗かったエドワードの表情が弱々しくだが一際綻んだ。
が、しかし
――咄嗟にその表情は暗く沈んだ。その変化を見ていた女中達は口々に彼を励ました。
「毎晩、旦那様は奥様のご看病をされていましたよ。たまたまお会いになることが出来なかっただけですよ」
「すぐに参られますよ。先程、旦那様にお伝えしたとき喜んでいらっしゃいましたから…」
女中達にほだされ、エドワードは俯いた顔を上げて彼女達の優しい気心に感謝して細く笑って見せた。そして、その場が少し和んだように見えた。
けれども
――気の利かない人間もいるのだ。
「そうですよ。今はまだ……お腹の跡継ぎ様もご無事なのですから…」
口を滑らしたように、ハッと女中の一人が手で口を覆った。
わかっている事とはいえ、エドワードには辛い言葉だ。
主治医であるヒューズから今の病状を聴かされていた。それが悦べる状態でないことにエドワードは心を痛めていた。
そんな彼に精神的なショックを与えないようにと、周囲にもきつく注意を呼び掛けられていたのに…。
「あ、貴女何てことを……! 奥様、申し訳ございません…」
直様、頭を下げてくる二人にエドワードは悲痛な面持ちで俯いた。彼女達が頭を下げることは何一つ遣っていないのだ。災いを呼んだのは自分なのだ。力ない頭をゆっくりと左右に振って、彼女達に嘆かわしく作り笑いを向けた。
――良いんだよ。悪いのはオレなんだから…。心配掛けてゴメン…」
途切れ途切れに小さな声で懺悔を繰り返すエドワードは見ていて切ない。その場にいた誰もが瞳を伏せ、そっと顔を背けた。
厚く巻かれた右腕は投げ出され、エドワードの思い通りに機能しない。それでも自由に動く左手が代わりに、ふっくらと膨らんでいる腹をそっと撫でていた。
その胎は油断ならない状況にいるのだ。そんな彼を労しげに見ることしか出来ない女中達を気遣う余裕は今のエドワードにはない。
彼は左手の甲を額に当て、頭痛をやり過ごそうとしていた。満身創痍なエドワードは少し身体を起こしているだけでも疲弊してしまう。
ズキズキと身体中が悲鳴を上げて軋み。発熱し続けている身体はだるくて堪らない。エドワードは重く長い吐息を吐いていた。
すると扉をノックする音が部屋に響いた。
「はい!?」
蕭然とした室内はたったそれだけの音で緩和された。女中らはこの居心地の悪い空間から逃げ出すように扉へと向かった。
「旦那様……?」
女中らの声は助けを求めるように上擦っていた。それから面映い顔で後方を振り返り明るい声を上げた。
「奥様! 旦那様ですよ」
「どうぞ旦那様、奥様がお待ちですよ」
快活にロイをエドワードの病床へ導こうとするが、それを待たずにロイはつかつかと足を進ませた。今のロイには彼しか見えていないのだ。
エドワードも女中達からロイの来訪を告げられたことで心がにわかに湧き立つ。その反面、自分を責め立てる声が脳内で反復されていた。
それでも
――寂しいという感情がエドワードの心の大半を占めていた。
敷き詰められた絨毯の所為で足音は響かない。けれどもロイの息遣いがすぐ傍で聴こえるようだ。彼の顔を想い描きながらエドワードは口唇を戦慄かせ、左手でシーツをキュッと掴んだ。
すると眉根をハの字に下げた心配そうな顔が涙で溢れた瞳に映った。
「エドワード!?」
久しぶりに聴く声色でエドワードの感涙がぽろぽろと零れ出してしまう。
「あぁ〜泣かなくて良いから…」
何も言えずにエグエグと嗚咽を漏らし出したエドワードにまごつきながらロイは枕元に投げ出されていた左手を両手でしっかりと握った。
その手の温かさに毎晩誰かと手を繋いでいたことをエドワードは薄っすらと思い出した。その正体がふいに自分の前に現れて、この溢れんばかりの想いをどうしたら良いのだろうかと、彼の心は震えた。
悪いのは全て自分なのに
――それでもこの温かさに助けと癒しを求める自分が酷く醜いものに感じる。
エドワードは声を殺して泣くしかなかった。
「お、奥様
――そんなにお泣きにならないで下さい。お体に障りますから」
あまりに切なく嗚咽するものだから、女中達も心配そうに彼のベッドに駆け寄ってきた。そんな彼女らにロイはフッと笑いを漏らした。
「ほら、こうして皆が心配する。泣き止みなさい」
そういうロイも情けなく眉根を下げて困り果てた顔をしていた。その顔を見た途端エドワードはこの溢れた想いをたった一言の言葉に表すしかなかった。
――ご、ごめん…なさい」
たったそれだけの短い言葉で、彼の心底に沈殿する底知れぬ罪悪感を察することが出来た。途切れ途切れの小さな声色は女中達の涙をそそる。
遂には彼を心配させまいと毅然としていたロイの顔までも崩れてしまう。彼はクシャッと顔を歪めてエドワードの熱を孕んだ頬を優しく擦った。
「……エド、いいんだ。君は悪くないから」
ロイは声を震わせ、彼の小さな金色の頭に口づけをした。熱い吐息がエドワードの口唇から長く吐き出される。
ほんの少しだけエドワードの重かった心が軽くなった。
ロイの慈愛に満ちた抱擁をエドワードは瞑目して縋り付いていた。それから再び濡れそぼった睫を押し上げると、そこにはエドワードが予想していた顔があった。
「こら…ッ! 私にこれ以上心配掛けてはいけないよ。ちゃんとヒューズのいうことを聴いて今は体力を回復させることだけを考えなさい!」
少しばかり戯けたように叱ってロイは片目を瞑った。それからすぐに彼は目を細めて、優しくエドワードの涙を拭った。
上辺だけの優しさはいらない。
こうして叱ってくれる彼だから
――傍にいられるのだ。
立ち上がることが出来るのだ。
ロイの包容力の大きさにエドワードは改めて気づかされる。
「うん…。そうだね」
固く結んでいた口唇を少し緩ませエドワードは頷いて見せた。漸く、泣き止んだエドワードにほっと胸を撫で下ろしたロイは腰をベッド際に下ろした。
ロイは真っ白な包帯を分厚く巻いた箇所を優しく撫で、エドワードの傷ついた全ての場所にその大きな手で優しく労わった。
「ん
――しかし、まだ熱が高いようだね?」
エドワードの容態を気にするロイは付き添っている女中達を振り返ると、茫然と彼らの遣り取りを聞き入っていた彼女達ははっと肩を跳ね上がらせた。
「えぇ、はい
――随分下がりましたが。まだまだ傷口からの発熱が高いようで…」
女中二人は顔を見合わせて困った顔をロイに向けた。
ロイは痛ましげにエドワードの腫れた頬にそっと手を当て、こつんと額を合わせた。
「辛いかね? エドワード…」
そうロイが眉を顰めて問えば、エドワードが少し瞳を逸らしてゆっくりと口唇を開いた。
「オレは大丈夫
――だけど」
しかし、とてもそうは見えない。強がりな彼が必死に嘘をついている。
それが健気で堪らない。
そんな彼だが、胎の子供の事を問われると瞳が不安そうに揺れた。
「でも……お腹の子は……ご、ごめん。オレの所為で大切な跡継ぎを危険な目に合わせて…しまって」
辛酸を顔に出さないように努めて、それでもロイに助けを求めて腫れぼったい瞳で見上げた。それには流石のロイも難色を示した。
それはエドワードに対してのものではない。彼にこのグツグツと煮え滾る憤りをあたる訳にはいかない。そうとわかっていても、この行き場のない怒りは自らの意思に反して漏れ出してしまうのだ。それを寸でのところでロイは堪え、苦い笑みを漏らした。
「エドワード、自分を責めるのはよしなさい」
「ごめん…この子がいなくなったら
――オレは此処にいられない」
ロイの温かい瞳から逃れるようにふわりと柔らかい枕に顔を埋めた。
「そんな事はないよ」
それでもロイは温かい言葉を吐き続けた。握られた手の温かさ…その柔らかく包み込む温かい声色が本当は今にも倒れそうなエドワードを支えていた。
「ほら…エドワード、少しでも食事をしなさい。皆が心配している」
ベッドサイドに置かれたトレイからロイはナプキンをサラッと取り外した。そこにはプルンと揺れた黄色く珍しい食べ物が乗せられていた。
この重い空気が漂う寝室にロイは新鮮な風を運んだのだ。
彼の気遣いにエドワードも枕に伏せていた顔を彼の方に向けた。そして、目蓋が切れて腫れた眼を大きく開かせて、その物体を怪訝そうに見ていた。
――なに…?」
「心配する料理長が君にと作ってくれたのだよ。食欲が出ない君にもこれならば食べられるだろう」
ほら口を開けてと、言わんばかりに黄色く揺れる物をスプーンにすくおうとすると、周囲にいた女中達が慌てたように口を開いた。
「だ、旦那様!! 私どもが致しますから…どうぞ楽になさって下さいませ」
女中達がロイから銀色に輝くスプーンを奪い取ろうとしたが、ロイは上機嫌に口元を上げた。
「良いのだよ。私がしたいのだ」
そういう主人の手からスプーンを奪い取るができずに、彼女達はその場でまごついていたが、彼の言うままに傷を負いうまく開かぬ口唇を少し開けたエドワードにうっとりと見蕩れていた。
二人の仲睦まじい甘い光景はなかなか見ることができない。いつも横槍を入れるアームストロング夫人がいるからだ。
「どうだね?」
「イッ…」
冷たい物体に傷を負った口端と口内が沁みた。それから甘い糖度が口内に広がった。
「エド!?」
にわかに笑みを漏らしたエドワードに傍にいた女中達もホッと安心した。勿論、その物体を口に運んだロイはさぞかし嬉しそうに笑った。
「おいしい…」
ぼそりと蒼痣を刻んだ口唇が感想を述べた。それに満足したようにロイが次のスプーンを彼の口元に運ぶと、エドワードも進んで口を開いた。
「良かった! 君の食が細くなっていると心配で堪らなかった。これならば少しでも君の口に入るだろうと、料理長と相談したのだよ」
「だ、旦那様…うまいよ」
「こら、エド……まだ、その癖は治らないのかね」
ロイが口を尖らせていうと、エドワードは頬を上気させて赤かった頬を更に染め言い直した。女中達が二人の間で一際瞳を輝かせていたのだ。元はそちら側にいたエドワードはやはり彼女達に気兼ねするのだ。しかし、鶴の一声でそれは払いのけられる。
「ロイ…美味しいよ。これ何ていうの?」
「は、はは…。プリンというものだそうだ。栄養価が高い貴重な卵黄で作ったデザートだそうだ…」
口内で広がる甘みと冷たさにエドワードは今迄沈んでいた表情をほの明るくさせた。それと同時にロイの心遣いが孤独に沈んでいた傷心の心を少しずつ浮上させた。
この温かさを離したくなかった。
目蓋を下ろせば、獲物を手中にしたあの爬虫類の瞳が浮かんでくる。それにくわえて、悶えても足掻いても鈍痛に戦慄く身体はその事実を忘れさせてくれない。
それなのに今は
――ロイの瞳の温かさだけで、その声色だけで癒される。この手を離さないでと、ロイに気づかれないようにギュッと彼のシャツの裾を握っていた。
だが
――そんな一時の幸せもあっという間に消えてしまうのだった。
「さあ、もう一口食べてみなさい」
朗らかにロイがスプーンを差し出した。
残虐な過去を忘れさせるようにと彼が明るく努めていると、扉を叩く音にほんの僅かな穏やかな二人の時間が遮断された。
訝しそうにロイが後方を見やると、女中の一人が苦悶した面持ちで駆け寄ってきた。そして、エドワードをスッと避けるように彼女はロイにコソコソと耳打ちした。するとロイの穏やかに繕っていた顔が瞬く間に険しいものに変わった。
そして、緩やかに流れていた温かい空気に氷雪から漏れ出した冷気が室内を包んだ。
「ロイ!?」
ギュッと掴んでいたシャツの生地から痺れるような感覚がエドワードに流れてくる。心許ない表情を露わにしたエドワード。だが、その時誰も彼に気遣う余裕はなかったのだ。
それだけの衝撃が屋敷中に走っていたのだ。




続く

すこしばかりの平穏? を与えて落とす。
桜って何て非道な人間なのでしょう…。毎回辛くてすみません(^_^;)

桜 美由紀 2007/1/13