愛すること、愛されること。(37)
ロイの顔は無愛想に女中の顔を睨んでいた。その瞳には明らかに憎悪とも言える焔がメラメラと燃え上がっていた。伝言を伝えただけの彼女はロイの豹変した顔に慄き、すぐさま怯えるように瞳を伏せた。
それと同時に好奇心という文字が彼女の頭に浮かんだ。右顧左眄し、仲間にそれとなく内容をこそこそと耳打ちするのだ。
その内容に彼女達の視線は嫌な者でも見るような目つきでエドワードを見ていた。
そんな彼女らの一変した態度にエドワードは傷心な顔を更に曇らせた。
居心地の悪さを忽ちのうちに感じ、それから助けを求めるように唯一人自分を理解してくれる男に不本意ながらも縋った。
いつもならばこんな些細な諸事でロイを頼ることなどないエドワードだが、今はひび割れた硝子。いつ砕け散るともわからない状態なのだ。
不安げな眼差しをロイに向けてシャツの袖をぎゅっと握っていたが、それがかえって自分を追い詰める結果になってしまう。
先程までの和やかな雰囲気は一変し、ロイはスクッと立ち上がった。
自然とエドワードの左手は離されてしまった。ぱたりと投げ出されるように左腕はベッドに落ちた。
「――ロイ…!?」
擦れた声は自然と震えていた。
ロイはエドワードに視線を合わせることなく大きな手で彼の小さな頭を撫でながら、黙って背を向けた。
そして、低い声で一声。
「何も心配することはない――」
と、唯それだけの言葉を言い残してロイは寝室から出て行った。
彼の背には冷酷で残虐的な憎悪という焔がメラメラと燃えていた。何も告げずとも全てをその背中が語っていたのだ。
その背をエドワードは慄然とした瞳で追うことしか出来なかった。そして、切望――。
行くなよ――傍にいてくれと。
自分が悪いんだったら謝るから――そんな顔をしないでくれと…。
貴方を此処まで追い込んでいるのはオレを正妻に迎えている所為だ! だから――怒らないで、昔の顔に……人を愛することを知らない、出遭う前の顔に戻らないで――と。
想うことは山ほどあったが、何一つ言葉にすることが出来なかった。
指し伸べた左手が虚しく空を舞う。そして、ぱたりと落ちた。
傍で俯いていた女中達もロイの後を追うようにパタパタと出て行った。これから繰り広げられる茶番に乗り遅れるなという勢いだ。
申し訳ない程度に頭を下げて、そそくさとエドワードの傍を離れていく女中達。
その後姿も今のエドワードは目で追うことしか出来ない。
パタンと重苦しい音を立てて扉が閉じられた。その後は、静寂が訪れた。
シンと静まり返った寝室。そこに唯一人、取り残されたエドワードはその静けさと戦っていた。
「誰も――いなくなった…」
ぽつりと零される呟き。
そして、その原因を作っているのは自分自身だということも本能で感じ取っていた。
あの女中達の態度で直ぐにわかったのだ。蔑んだ瞳、哀れだ瞳――穢いものをみる瞳。そんな悪辣な瞳がエドワードに向けられていたから。
恐らく、自分の過去をネタに奴らがこの屋敷に乗り込んできたのだろう。
ロイの名が奴の口から出たときから、何れはこうなるだろうと思わずにはいられなかった。
だから――。
エドワードはぼんやりと潤んだ瞳を泳がせた。そして、虚ろな視線が食べ掛けのプリンに向いた。ロイが自分の為に一匙ずつ食べさせてくれていた物はサイドテーブルに中途半端に置かれていた。
懐かしい物でも思い出すようにエドワードは瞳を細めて、それを見ていた。それから何を思いついたのか、打撲で痛む身体を必死に動かしてサイドテーブルに手を伸ばした。
「……あ ぁっ――届いた…」
キラリと銀色のスプーンに指先が触れ思わず顔が綻んだが、届いたと思ったスプーンは呆気なく床に乾いた音を立てて転がり落ちた。ゆっくりと落ちていく様をエドワードは陥落していく己の運命を見るように感じていた。
虚しかった――心細かった――。
この危うい命を一緒に守って欲しかった。
一滴の涙がぽたりと零れる。
傍にいて欲しかったんだ。それだけで良かったのに――人の想いとは不揃いだ。
エドワードは足掻きながら激痛に苛まれる身体を起こし、ふわりと柔らかい床に震える両脚を下ろした。我がものではない感覚と共にふらつきながら次の一歩を踏み出し前進した。
絶対安静を要する身体だとわかっていても、どうすることも出来なかった。気持ちばかりが先走りしていた。
自分の身体だけを危険に晒すだけならばまだしも――胎の子供をも危険に……。その意味は充分わかっていたはずなのに。
けれどもこの時のエドワードにはその判別は出来なかったのだ。
まるで幽鬼のようにエドワードは何者かに誘われるように歩き出した。
彼の耳元で誰かが不気味に口角を吊り上げて囁くのだ。そして、彼を危険な場所へと誘うのだ。まるで操られるようにエドワードは壁面を伝い、その危うい身体で騒ぎの根源を起こしている場所に自らの脚で近づこうとしていた。
* * *
「――それで奴らは?」
まっすぐ先を歩く男が低音で声を発した。長く伸びた両足は大股を広げて先を急いでいた。緊迫する空気が敷き詰められた絨毯の柔らかい廊下を包み込んだ。
「あ、あの……ただ今、客間にお通しております」
ロイの後を追うように小走りでついてくる女中達の息は上がっていたが、ロイはそんな彼女達に向かって舌打ちし、怒気を孕んだ声色で叱咤した。
その態度に思わず彼女達は肩を震わせた。
「そんな輩を客間に通す必要はない! 一体何をしているのだ。アームストロング夫人は!」
「――申し訳ございません、旦那様…。すごい剣幕で屋敷に入ってきたもので、どうすることもできなくて…」
「チッ、どいつも役にたたん奴らだ!」
ロイは鬼の形相で更に足を速めた。主人の激昂を買ってしまった女中達はビクつきながら彼の後を追った。
まさか向こうからやってくるとは思っていなかった。それも堂々とこのマスタング家にやってくるとは良い度胸だ、とロイの顔は面妖に歪んだ。
「ただではすまさん! 私の大切な者に手を出した罪を思い知るが良い」
ぐっと握り拳に力が込められ、先を進める脚は床を踏みつけるように荒々しかった。
「だ、旦那様…」
遠くで己の激昂を諌めようとする声が聞こえるが、それさえ煩わしい。ロイの噴火した思考は如何に相手を陥れるか画策していた。が、しかしその手筈は既に進行していたのだ。恐らくその所為であの男が憤慨してロイの前に直接交渉に現れたのかもしれない。
それとも――エドワードの汚れた過去を利用して強請りに来たのだろうか。どちらにしてもエドワードを守る準備に懸念はない。
「ホークアイ君とブレダに伝えろ。資料を持って直ちにリビングに来いと、大至急だ!」
「ぁ あ、はい――旦那様…」
ロイが口早に用件を伝えると、咄嗟に女中の一人が顔を上げて逆方向に走り出した。
不測の事態の為にロイは二人を屋敷にて待機させていた。社内で公にする訳にはいかない裏プロジェクト。その為、マスタング家の一室を貸し切って精選されたメンバーが私情の絡んだこのプロジェクトを極秘に、そして迅速に進めていた。
「絶対に許さんからな! キンブリー!」
ギリギリと歯を噛み締めて、ロイは重厚な扉の前に立った。
何やら物々しい声が外にまで漏れて彼のこめかみがピクッと痙攣した。聞き覚えのある声はロイの感情を逆撫でし、左右の扉をロイは勢いよく両腕で激しい爆音を立てて開いた。
バンッと空圧を伴って扉は開かれ、部屋にいる者達が咄嗟に視線をロイに向けた。
それまでマスタング家の使用人達に好き勝手な罵声を浴びさせていた男の口がゴクッと息を飲むように言葉を飲み込んだ。
「――だ、旦那様…」
若い女中達は現れた主人の姿にほっと安心したように声を上擦らせた。そして、すかさず縋るように助けを求めてきた。それにあのアームストロング夫人でさえ手に負えない始末のようだ。彼女が苛立っている様子がその引き攣った表情で良くわかる。
一向に埒の明かない彼らの対応から逃げ出すように夫人はロイの傍にやって来て、コソコソと現状を説明し出した。
ロイは無言で夫人の言葉に耳を貸し、異様な空気に包まれている室内を目視した。そして、彼らを睥睨した。
どうやら乗り込んできたのは男、二人のようだ。如何にもゴロツキ風情の男。奴はうろうろとソファーの周りを練り歩き何やら喚き散らし周囲でまごつく使用人達を威嚇していた。
しかし、ロイにはそんな小者に用はなかった。
ロイの視線はある男を凄んで見ていた。
その男は纏っている空気がその辺の灰色の世界に生きる者達とは明らかに違っていた。悠々と我が物顔で高級ソファーに脚を組んでしっくりと座っているのだ。その涼しげな態度と威圧するような目つきは周りの者を寄せ付けなかった。
仕立ての良い真っ白なスーツが血塗られた色に染まっているように思えるのは、同じ匂いがするロイだけかもしれない。
それにロイの登場に慌てる様子もない。男はにやりと口角を婉曲させてロイを涼しげに見ていた。その眼は面白い玩具を手にしたと狂喜しているようにも見える。
ロイは更なる憎悪を燃やしたが、そんな奴の視線を無視してロイは煮詰まった頭を極限に迄冷やし、代わりに冷ややかな笑みで招かれざる訪問者に微笑んだ。
「初めてお目に掛かるようだが、一体どういう趣だね」
ドスッと主がいつも座るソファーに腰を下ろし、猛々しく脚を組んだ。その眼には凄まじく殺気が漲っていた。
使用人達は固唾を飲んで遠目から見ていた。
物腰の柔らかな会話がいくつか飛び交っていたが、それとは正反対に主人の顔は怜悧なものに変わっていた。それを愉しむように相手の男はにやりと哂っているのだ。
「それでわざわざ此方まで出向いて頂いた用件とは? ゾルフ・J・キンブリー氏」
「あーロイ・マスタング氏……それはですね。ほら気づきませんか?」
周囲で脅える使用人達を優越に眺め渡してからキンブリーは一緒に来た男を顎でしゃくって何やら命令した。すると暫く二人の会話を聞き入っていた男は出番とばかりに意気揚々と声を張り上げて大げな態度を取り出した。
「あーイテェ!! 痛てぇーよ! ほら見ろよ。お宅の若奥様が俺の顔をこんなにしやがったんだよ。どうしてくれんだよ」
怒号しながらロイならず周りの使用人達にもその傷を見せびらかした。その頬には真っ白なガーゼが全面に貼り付けられていた。
痛々しそうに突然顔を顰めて、頬を抑える姿はそれまで威圧的な態度で使用人達を脅し練り歩いていた男とは思えない。
ロイはそんな虚言を吐く男には目もくれなかった。が、ふっと嘲るように笑った。
やはりエドワードはただではすまさなかったのだ。男達の良いようにされるのは許さない。しっかり自分の意思表示をしたのだ。決死の覚悟で反撃した様子が手に取るようにわかる。
それどころか淡々とした口調でロイと対峙しているキンブリーの顔にも薄っすらと傷跡が残っていた。
「……何が可笑しいのですか?」
ロイの余裕ある笑みが今迄優位にたっていると思っていたキンブリーを不愉快にさせた。眉根を上げて、初めてロイに向かって対抗心を燃やした彼がそこにいた。
それをロイは見逃さなかった。
嘲笑う口元をロイは隠さなかった。
「いえ、何も……。しかし、私の妻がそのような暴行をしたという証拠は何もないはずですが」
ムッとした顔を面に現したキンブリーは組んだ片足を揺すりだした。
「――そうですか。そう言われるのですね。先日、私どもの前にマスタング氏の奥方が現れたのですよ。そして――ほら、私の部下に傷をつけた。まあーそちらはうちにいたエドワードを水揚げしたという事実を公にしたくないという気持ちはわかりますがね」
そう言って、キンブリーは自信満々に使用人達をにやりと見渡した。明らさまにエドワードの出自を暴露し、ロイの身辺を賑わせたのだ。
キンブリーの予想通りに使用人達はざわついていた。
エドワードがこの屋敷に来てから、彼の素性は隠すことなく伝えられていた。
――始めはロイが穢れた素性の少年を拾ってきたとだけ伝えられ、主人の気まぐれが始まったと使用人達の誰しもが安易に思っていた。
だが、それがいつの間にか主人の寵愛を受けて、ついには主人の子種を宿る間柄となり妻の座を射止めたのだ。
それも半陰陽という稀な身体で主人から愛されているのだ。それほど両性体という身体は男の欲望を満たし、虜にしてしまうのだろか。
こればかりは憶測にすぎない。果たしてエドワードにそれだけの意図があったかどうかは彼らにはわからない。だけど長い間、同じ処遇で否、それ以下で一緒に働いてきた彼らにはエドワードの過去を消し去るだけの材料は揃っていた。
だが、こうも現実を突き立てられると信頼していた者達も、どの姿のエドワードを信じたら良いのかわからなくなってしまう。
ざわざわとざわめき使用人達は傍にいる者に耳打ちするのだ。そんな彼らの姿は見ていてえげつなく、エドワードを心底慕っているロイには耐えられない光景だ。どよめく使用人達をロイは睨みつけて威圧した。
それと同時にキンブリーの口角はにやりと吊り上った。
「エドワードはうちでは売れっ子でしたからね。あの金額でマスタング氏にお譲りするのは非常にうちとしては痛手でしたからね。あれの具合は良かったでしょう。だから、こうも貴方の傍に置かれているのでしょうね」
性的欲求によってエドワードを此処に連れてきたと、言わんばかりの発言に使用人達は更に困惑していた。それが相手の狙いなのだ。
こうして精神面から少しずつ落としていくのだ。そういうネタはエドワードには沢山あるのだ。そんな彼を妻に娶ったロイの気が知れないとばかりに、キンブリーは赤裸々にエドワードの破廉恥なネタを随所に混ぜ合わせて話を進めた。
しかし、そんな卑猥な話にも屈しないロイがいた。
「確かにエドワードは貴方が経営していた店から私が購入したが、それは貴方の店から彼を解放させる為のものだ。淫らなことはまったく関係ない!」
使用人達がいる前で堂々とロイは言い退けたのだ。こうもはっきり過去を否定せずに断言することは、こうして恐喝紛いなことを言ってきた男達には堪えるのだ。
キンブリーがぐっと息を飲んだのがわかる。
「ほぉー自由と言われますか。しかし、あれを水揚げした後しっかり此方の屋敷でこき使っていたのではないですか? そう昼は屋敷の仕事。夜は貴方の閨の相手をと、大変だったでしょうね。それに一度あれと寝ると手放したくない。良い声で泣く。それは――お抱きになった貴方ならば良くわかるでしょう。――ですがね。あれを始めに仕込んだのは私ですよ。私に感謝して欲しいですよ」
「クッ!? 何をッ、貴様!!」
せせら笑いながらキンブリーの口から耳を塞ぎたくなるような内容の言葉が吐き出される。
彼も半ばやけくそで物を言っているようだ。
流石のロイも苦虫を噛み砕いた表情になり、リーチの長い右腕が咄嗟にキンブリーの襟首を引き千切るように絞め上げた。ギシギシと首骨が絞まる音が聴こえた。
続く
はい! これから山場に入ります。
覚悟はいいですね? エドワード若奥様の身に――…。ホント、昼ドラ入ってます。
しかし「例」の場所で *38話まで更新してますが…その後が続かないよぉー只今奮闘中。
桜 美由紀 2007/1/30