愛すること、愛されること。(38)












相手の口車に乗せられているとわかっているが、それでも今殴らねばいつ殴るのだ。
衝動的な想いに駆られて腕に力が込められていた。
一触即発の事態に使用人達が一斉に前のめりになっていた。そんな中でも執事のファルマンが声を荒げて二人の間に駆け寄ってきた。
「だ、旦那様…お止め下さいませ!」
「オイ、コラー! キンブリーさんに何てことしやがる!」
キンブリーと一緒に来た男も罵声を吐き出してロイを威嚇したが、それはロイの鋭利な瞳だけで男はすんなり黙った。
ファルマンの諌める声にも伸ばされる腕にもロイの激昂を抑えることは出来なかった。
この男の所為でエドワードはあのような卑俗な生活を強いられていたのだ。
この男がまだ幼いエドワードに寝る暇も与えないほどに客を取らせていたのだ。
この男がエドワードの神聖で未曾有な身体を犯し、赤い血を流させたのだ。
組敷かれて悶えるエドワードの煩悶な表情がロイの脳裏でチカチカと点滅していた。
そして――大切な子供を宿しているエドワードに無体を働いたのだ。
愛することを教えてくれたエドワードの身体と心を傷つけたのだ。
絶対に許すわけにはいかなかった。
ファルマンに掴まれていた腕を振り解き、嘲る男の左頬を剛健で何度も殴りつけた。
耳を塞ぐようなけたたましい音がリビングに轟いた。使用人達の驚愕した悲鳴も響いた。
殴られた勢いでキンブリーはソファーに転がるように投げ出されたが、それでも尚彼は滑稽な笑みを漏らして声を上げていた。
「あ、ぁはははッ……! 暴力はいけないですねぇ〜暴力は、あっははは――」
それはロイの怒り狂った感情に油を注ぎ込むだけの暴言だ。
「貴様! 一体何が目的だッ」
苦々しく顔を引き攣らせてキンブリーの襟首を片手で掴んで立ち上がらせると、待っていたと言わんばかりに血が滴る口角を吊り上げた。
変質的な言動と思考にロイは己の身が汚れる気がしてキンブリーを突き放した。
キンブリーはよろめきながら立ち上がったが、そつがない態度で真っ白なスーツの襟をピシッと正し、スーツの埃を叩いた。散々殴られたことなど気にもしていないようだ。食えない奴というのは、目の前の男を指し示すようだ。
キンブリーにとってこの機を逃すわけはなかった。ギラリと爬虫類的眼が輝いていた。
ロイはそんな態度を怪訝に思いながら胸を上下させ、彼を見据えていた。
キンブリーはぺろりと口端から滴る血を舌で舐めた。
「あーあ、マスタング夫妻はどうして、こうも乱暴なんだ。私に傷を負わせるとは」
「!?」
ロイは眉を顰めた。
彼は言葉とは裏腹に打たれた頬になど興味がないようだ。かえってその痛みを心地よく感じているようにも見える。非常に不気味な存在だ。
ならば――その目的は一体何なのだ。金銭目当てならばもう話は進んでもいいはずだ。
一体何なのだ!
ドスッと横柄な態度でソファーに座りなおして、脚を組んだキンブリーは余裕たっぷりにロイを見上げて赤い唇が蠢かせた。
「この私に対する暴力と部下に負わせた怪我。その償いとしてこの屋敷には不釣合いの貴方の奥方を所望しているのですよ。警察沙汰にされたくないでしょう。私が代わりに引き取りますよ」
漸く、キンブリーは目当てのモノの名を明かした。
卑劣な内容にロイは目を見開いた。戦慄く両拳を必死に押さえつけた。
キンブリーの底知れない下劣さにロイの憤怒は怒髪天を突いたのだ。
「――それは此方の台詞だ! 私の妻に重症を負わせたのはお前達のほうだ。それに妻は身重の身体だ。それを何という苛虐なことをしてくれたのだ! 訴えるのは此方の方だ」
「ほぉ〜元売春をしていた輩のいうことなど世間は聞きますか? それにマスタング家の品位を疑われますよ。そんなお荷物を私が喜んで引き受けようと言っているのですよ。感謝される方ですよ」
あまりの言いように使用人達も再びざわつき始めた。
それに素早く反応をしたのはアームストロング夫人であった。先代の頃から屋敷を守ってきた彼女にはマスタング家の品位は肝要なことなのだ。
「だ、旦那様! ですから、エドワード様を屋敷にお迎えするのを反対したのです。このような輩が屋敷に入ってくる破目になるのです」
主人の所業を諌めるように夫人が駆けて来たけれどもロイが一喝した。
「うるさい! 黙れ!」
忌々しい顔つきで夫人を見やると、すぐに太太しい面構えをしているキンブリーにその視線を戻した。今度は先程のように怒りに任せて殴るわけにはいかない。ロイは必死に葛藤していた。
漸く相手が土俵に着いたのだから。
「ほらほら、屋敷でも立場がないでしょう。私どもの店に来れば、何の心配もないのですよ。それに今は――」
使用人達の中でもヒソヒソと陰口が叩かれ始めた。内部分裂の始まりにキンブリーの表情はにやにやと冷笑を浮かべていた。
所詮、人の上辺だけしか見ていない者達はすぐに他人の言動に惑わされるのだ。だが、ロイはそんな彼らとは違う。エドワードの全てを愛しているのだ。
そして、もっとも非道な言葉は饒舌に吐き出されたのだ。
「それにふたなりの妊婦として舞台に出せば、忽ち人気者になるでしょうから。そういう変り種を好む輩も多いですし、それにアソコの具合も最高によくなる。柔らかく濡れ、そして締まりも良い。小さく幼い身体に不釣合いな腹の大きさは男達の庇護欲を高める。マスタングさんには申し訳ないが、その腹の子供も貴方の子供とは言い切れないのでは?」
勝ち誇ったように彼の口から卑猥な話が饒舌に語られる。
ロイの眉間はグッと深い皺を寄せ、拳には爪が食い込んでいた。ロイをも愚弄するその言葉に耐え忍んで豪腕で訴えるのでなく、知的に彼を追い込むべくロイは部下の名を低い声で呼んだ。
「ブレダ、資料を!」
「はっ、社長」
迅速な動きでブレダの手から厚い書類がロイに渡された。それをポンッとロイは荒っぽい素振りでテーブルに投げ出した。
それからロイの反撃が始まった。
「ほぉーまだあの場所で卑猥な商売をされるのですか?」
「!? 何を言っているのですか?」
今迄、怒りに我を忘れていた男が豹変したのである。キンブリーは戯けていた顔を素に戻した。彼からはただならぬ空気が満ちていたからだ。
「あの場所で商売を続けられるということですね。確か、キンブリー氏はあのエドワードがいた店とは別に十店舗の非合法の店をお持ちでしたね」
「私が経営している店の数を把握しているとは……。調べられたのですか?」
「えぇー勿論ですよ。私の妻を傷つけたのですから。それぐらいはしないとですね」
形勢逆転とばかりに不敵な笑みをキンブリーに見せた。そして、視線は態とテーブルに投げ出した書類を見ていた。それに気づいたキンブリーが吊り上った目を下からゆっくりと上げて、ロイを寡黙に睨んだ。
「どうぞ、その資料を見てください。あーそれはキンブリー氏の控えの書類ですから。持ち帰って頂いて結構です」
そう言われて、分厚い書類の封を開けて内容を確認しだした。すると彼の傲慢な表情は打って変わって、忽ち青褪めていくのがわかる。
それをロイはクツクツと喉を鳴らして相手が落ちていく様子を見ていた。
「こ、これは……!?」
ソファーの背凭れに背中を預けて、優雅に脚を組んでロイは相手を見下した。
「それは貴方の経営していた店、会社、その他…貴方名義になっている物件、資産全てを私が買収したという書類ですよ。これでは今後の経営は…いえ、生活も侭ならないですよね」
「クッ、まさかそんなことできるものか!」
冷静にことを運んでいたと思われるキンブリーが始めて怒号し、手元で震えている書類をバサバサと捲ってその有無を再度確認しだした。
「いいえ、もう君達の帰る場所はないのですよ。そうアジトに使っていたと思われる場末の酒場でさえもう警察が押さえていますよ。ブレダ、電話を」
右手を少し上に翳して支持をしたロイの元にすぐに電話器が用意された。その受話器をキンブリーに渡すと、電話口の外まで響く甲高い悲鳴が漏れていた。
「……キ、キンブリーさん、大変ですよ! どうしましょう。俺らこのまま警察に捕まってしまうみたいですよ。ヒィー逃げ場がなくてどうしたら良いか…」
受話器を握る手が震えていた。不敵な笑みが影を潜めて、眉根が困窮な様を形とっていた。
仲間の悲痛な訴えを聴いていたようだが、話半ばでガチャリと受話器は下ろされた。それから歯軋りするように口を歪めて、ロイに食いつくように暴言を吐き出した。
「よくもやってくれたな!!」
上品な言葉遣いが一変していた。それだけでロイが彼を窮地に追いやった事がよくわかる。
だが、ロイも念には念を押して更なる駒を見せ付けた。
「あーそうだ! それでも隠れて裏商売をしようとするでしょうからね。私も賢くなりましたよ。キング・ブラッドレイ氏をご存知か?」
キンブリーの顔が瞬く間に青褪めて豹変した。
キング・ブラッドレイは政財界で一、二を争う重鎮である。それと同時に裏社会をも牛耳っている人物だ。その名前は裏家業で生きる人間の誰もが知っている名だ。
実際、ロイも何度か彼の手を借りたことがある。裏と表……表裏一体という。表社会で成功している人間も綺麗な道ばかりを歩んでいるのではない。
時として、裏の道を歩まねばならないときもあるのだ。
「貴様、ブラッドレイに何を吹き込んだ!」
「あっははは…そんな戯れたことしませんよ。ただ、ブラッドレイ氏がエドワードを気に入ってくれましてね。勿論、それは彼の秀でた知識と頭脳にですけどね」
「何ぃ――!! よ、よくもやってくれたな!」
意気込んだ怒号もロイは鼻であしらった。
「エドワードが暴行を受けたと話したら、いたく心配して下さってね。手を下した輩と同じ空気を吸うのはけしからんと、ご立腹でね…」
書類がグシャッと握り締められた。恨みがましく視線を刺すように向けた。それからロイの口から決定打が出された。
「ホークアイ君、渡航書類を持ってきたまえ!」
キング・ブラッドレイが背後についてしまった。その事実にキンブリーは驚愕していた。彼を敵に回してしまったら、恐ろしい制裁が待ち迎えているのだ。
刃向かおうにも自殺行為に近い。それだけ裏の世界で名を馳せているのだ。決して死を恐れているのではない。
だが、負けを認めずにはいられない。
ギシギシと歯軋りして悔しがっていた。
ホークアイが毅然とした態度でロイに言われた書類をキンブリーに冷たく渡し、サインをさせた。それをロイが冷ややかな目つきで確認すると、渡航書をキンブリーの前に投げ捨てた。
「国外追放だ! 命があるだけ良いと思え!」
「クッ……! 遣りやがったな」
負け犬の遠吠えほど見苦しいものはない。ロイは蔑んだ目でキンブリーを睥睨し、一喝して追い払う。もう奴の後姿を見る必要はない。否、視界に入れたくもないのだ。
「もう用はない。出て行きたまえ!」
ソファーが倒れそうな勢いでキンブリーは立ち上がった。フウフウと肩と胸で荒い息をして渡航書をグシャリと掴んだ。それからロイを睨みながらキンブリーは苦々しい顔つきで大きく開かれている扉に向かって大股でドスドスと歩いて行った。
その後をこそこそと小さくなって男もついて行く。あれだけ大きな態度をとっていたが、今は見る影もない。
だが、そこで誰も予想し得ない出来事が待ち受けていたのだ。
カツカツと靴音を鳴らして、足早に歩く音がピタッと止まった。その時、使用人達が徐に扉の方へ視線を向けると、慨然として口を手で覆い目を見開いた。
それから――罵詈雑言。
「――エド、よくもやってくれたな! この私への恩を忘れやがって、お前を女にしてやったのはこの私だ! 泣いて喚くお前のふたなりの身体を抱いたのは俺だ! くっそう…血が滴るお前アソコは締まりがよくて良かったな。俺がお前の身体を調教した所為で売れっ子になれたんだ。その淫猥な身体でマスタングの旦那を誑かしやがって、うまくやったもんだな!」
耳を塞ぎたくなる内容を明け透けにされた。その場にいた使用人達は青褪めて立ち尽くす彼をつい蔑んだように見てしまう。
ロイは我が耳を疑いながら咄嗟に立ち上がって、振り返ると――。
此処にいるはずのないエドワードが涙を流しながら蒼い顔で弱弱しく頭を振っていた。
「エドワード!?」
涙を瞳一杯に溜めているエドワードとロイの眼があった。
何度もロイに謝るように首を薄弱に振っていた。首を振るたびに溢れた涙が零れた。
そして――エドワードの陰口からは冷たいものが内股を伝って流れ出した。ポタッと床に赤い染みを作ってそれは広がった。
「!? エドワード、どうして此処へ…一体いつからそこで聞いていたんだ…」
声を荒げて幽鬼のように立ち尽くしているエドワードの元へロイは駆けた。
キンブリーは苦し紛れにエドワードの姿を見た途端、理性も欠片もなく私憤を彼に吐き散らして、マスタング家を後にした。
キンブリーの狂気じみた甲高い笑い声がリビングを出た後も耳障りに響いていた。それと同時に使用人の金切り声が上がった。
「キャァー!! お、奥様――どうしましょう…まあ――」


ざわめく声と悲鳴。俄かにその場が戦場化した。
その瞬間は今でも忘れられることは出来ない。目に焼きついて離れられない。忘れたくても忘れられない光景。
大切な我が子がいなくなった瞬間だからだ。
愛するエドワードから笑顔が消えた瞬間だ。


使用人達も悲壮な顔でエドワードの傍に駆け付けていた。ロイはそれを掻き分けて、エドワードの所に辿り着いた。そして、目を見張る惨劇に声を一瞬失った。
苦痛を訴えて膨らんだ腹を抱きこむエドワードの真っ白な長襦袢が血でドス赤く濡れていた。
「――エドワード、大丈夫か! 誰か、早く…医者を呼べ!」
今は気の利いた言葉が思い浮かばない。倒れ込むエドワードの身体を抱き起こして、ロイは胸に掻き抱いた。
痛々しい身体は包帯で至る所を覆われていて、発熱していた。激痛に悶える頬もガーゼで覆われていて、掻き抱いたもののどうしたら良いか暫くわからなかった。
エドワードが呻きながら小さな声を吐いた。
「痛ッぅう…。ご、ごめん。オレの所為でッ、こんなことに――。ホントは知られたくなかったんだ。オレの過去ッ…聴かれたくなかった…」
ロイには有体に自分の過去を話していたが、それでも当人の口から売春宿での卑しい性生活を暴露されエドワードは激しいショックを受けた。それが誘発して、エドワードの身体と腹の子供が危機に晒されていた。
ヒューズからも注意を受けていた。精神的ショックを与えないようにと……。
命の保障はないと。
半ばエドワードはパニックに陥っていた。それをロイは必死に宥めた。
「エドワード、もう喋らなくて良いから…わかっているから。何があっても君を愛しているから、ね…」
「クッ、ぅッ……助けて赤ちゃんを…。腹、痛いッ、ごめん…旦那様――こんな穢れた身体…」
切れ切れに訴える言葉はロイに再度悲痛な叫びを上げさせた。
「オイ、早く! 医者を呼べ! 早くだ。ヒューズを呼べ! 何をしている急げ!」
見る見るうちにエドワードの白い長襦袢は血に染まっていく。呻き声を上げていたエドワードは一際高い声を上げた後にパタリと左腕を床に下ろした。
顔色は蒼白に変わり口唇も紫色へと変色していった。ロイは何度も使用人達に叫号した。


*          *          *


ベッドの上でなにやら密談が交わされていた。
身体は倦怠感に包まれていてまったく動かない。それと身体中に纏わり付く熱が体力と気力を削ぎ落としているようだった。
優しくて大きな手が額を覆って、冷たさを感じた。それから汗で張り付いて邪魔な前髪を払ってくれた。
ころりと首を傾けると、穏やかな手つきで顔に掛かる横髪を梳いてくれている。
少しだけ息が楽に吸えた。
だけど――それとは別に真上で聴こえる声は少しずつ荒々しくなっていた。
「ですから、私は最初から反対だったのです! エドワード様がマスタング家にいること自体が当家には災いとなるのですよ。どうして旦那様はそこをわかって頂けないのですか? 残念なことに跡継ぎは死産という結果ですし――」
「アームストロング夫人…少し声を落としてくれ。エドの容態はまだ不安定なんだから…」
困ったように夫人の憤激を諌めているのはヒューズだった。ロイは彼女の言葉などまるで無視。ただ、悲壮な顔つきでエドワードを見つめて必死に看病していた。
彼の頬はこけて、彼の苦悶が見てわかる。


結果を述べるならば――。
その後、エドワードは一週間ほど生死の境を彷徨った。
ヒューズ達が駆け付けて急遽処置を施されたが、エドワードの腹で胎児は死亡していた。そして、その胎児を腹に留めている訳にはいかない。疲弊した身体は胎児を異物と判断し、エドワードの身体を苛める。
エドワードは悲しく辛い出産を余儀なくされた。
産声を上げない出産。
それに加えてエドワードのふたなりという未成熟な身体とキンブリー達によって加えられた暴行。二重苦がエドワードの身体を瀕死の状態に陥らせてしまう。
出産の最中、何度もエドワードは気絶を繰り返していた。外で待機していたロイの耳にも我慢強いはずのエドワードの悲痛な呻き声が引っ切り無しに聴こえていた。
産声を上げずに産まれた子供は男子であった。
その子供を見ることも叶わず、エドワードは意識を手放し昏睡状態となったのだ。
漸く、峠を乗り越えた。そんな状況下で会話は繰り広げられていた。


「旦那様、聞いていらっしゃいますか?」
「……」
眉を寄せてロイを覗き込んだが、またしても無視させる。アームストロング夫人が大きなため息ともに額に手を当て、天井を見上げていた。
彼女のご都合主義の恨み言など聞いていられないロイはひたすらエドワードの容態を気にしていた。少し意識を取り戻しては、泣いて謝る姿は見ていられない。
そんなロイの姿を他所に夫人は現実問題を突きたてた。
「ヒューズ様、お聞きいたしますが。今後、エドワード様が妊娠する可能性はあるのですか?」
傷心の日々を送っている二人を前に話しても良いものかと、ヒューズは夫人を睨み上げながら煩悶した。確かにロイには既に告げている内容であったが、二度も口に出すのは躊躇われる。
ヒューズは首を横に振るだけにした。
唯でさえ、奇跡的な妊娠だったのだから今後はわからない。唯、はっきりしていることはエドワードの身体は妊娠に耐えられない状態と言える。
それなのに非道にも夫人は先を焦るのだ。
「でしたら、旦那様。是非とも今後のことを考えて妾をおとり下さいませ。そして、マスタング家の跡継ぎを一刻も早くお作り下さい」
あまりの言い様にヒューズも呆れてしまう。
「ちょっとこの状況でそんな話はするなよ!」
「ですが…。此の侭では由緒正しいマスタング家の血統が消えるのですよ。エドワード様がご心痛を受けているのは良くわかります。お屋敷も騒がしいでしょうから…ご静養を兼ねて、そうですね。イーストシティの別荘に移られるのはどうでしょう」
当人達をまったく無視した話だ。
「―――」
ロイは腸が煮え返るような思いを必死に抑えてエドワードの苦悶に満ちた頬を撫でていた。
「いや、アームストロング夫人! そういうならばそんな遠いイーストシティは不便だ。なっ、ロイ……俺んところの病院で静養させろ。それだったらいつでもエドとは会える。確かにこの屋敷では、気は休まらんだろう。なっ、ロイ、そうしろ!」
ロイ達の頭上でそんな会話が飛び交っていた。
喧しい話し声がエドワードの重い頭に響いた。薄っすらと虚ろな瞳を開いたと思う。ぼんやりと見知った姿が視界に入った。
朦朧としている頭は会話の内容まではわからない。それでも言い争っているように思える。
そんなことを釈然としない頭で感じながらころっと首を横に向けた。するとロイの広い背中が近くに見えた。何だか、少し見ない間にやつれた様に見えた。それにその背が泣いているように思えた。
ロイは彼らの会話に加わることなく、黙って濡れたタオルを絞っていた。込み上げてくる自分に対する憤りと二人の節度のない会話に対して力強くタオルを絞っていた。
エドワードは茫然としたまま、どうにか左腕を動かして、彷徨うように腹を目指した。
その場所はふわりと円を描いて温かくて、トクトクと胎動を伝えていたはずだったのに、エドワードが触れた腹は冷たく、膨らみがなくなっていた。
目覚めてからはその現実に魘されるようにロイと腹の子に許しを擦れた声で上げていた。
まだ、辛い現実を受け入れ切れないエドワードは小さく嗚咽を漏らしだした。
「……ぅ ぅッ、うッ…」
「エドワード? どうしたのだね。苦しいのか…」
ロイがすぐにエドワードの変調に気づき、ベッドに乗り上げるようにして顔を覗き込むと、焦点の合っていない瞳がぽろぽろと雫を流していた。
返事はない。やはりか細い声で嗚咽を漏らすだけで――。
それでも彼の悲嘆する理由はわかりすぎるほどわかっていた。
ロイの顔が遣り切れなさで歪んでいく。
彼にこんな悲劇的な結果を招いた原因の一つにロイも加わっていると充分わかっていた。
独りにするべきではなかったのだ。
どうして彼の孤独をわかってやれなかったのだろうか。
今更ながら自分の感情を抑え切れなかったことを悔やんで仕方がない。
エドワードの悲しい声音は未だにベッド傍で当人達を抜いて論争をしている二人には聴こえていなかった。
ロイの苛立ちは頂点に達した。
ベッドの中で小さくすすり泣くエドワードを守るようにして、ロイは二人に向かって怒鳴った。
「いい加減にしたまえ! 私は別の女性との間に子を成すつもりはない!」
今迄、黙っていたロイが胸を上下させて怒りを露にしていた。それにも怯まないのはアームストロング夫人である。
「ですが……それではマスタング家は誰が継ぐのですか! 旦那様の代で終わりにする訳にはいきません!」
「落ち着けロイ、そんな声を出したらエドが眼を覚ますぞ!」
自分達のことを棚に上げた、その物言いに益々ロイは憤怒した。そして、今度こそはエドワードを守るという意志の表れなのか、それとも極度の独占欲が彼をそうさせたのか。
ヒューズの静止を強引に振り切って、ベッドの中で空っぽの腹を抱えて小さく蹲るエドワードの身体を力強い両腕で抱き上げた。
「だ、旦那様……何をなされますか?」
二人を敵視するようにエドワードの身体を抱き上げたまま、颯爽と窓際へ進んで怜悧な視線を彼らに向けて振り返った。
「エドワードはどこにもやらん! 私の妻はエドワード唯一人だ。この屋敷で静養させる。妾などはいらん! わかったか!」
窓から射す逆光が眩しかった。しかし、そこには断然たる意志を貫くロイがいた。
エドワードが淫売と言われようと、卑猥な言葉で巧みに罵られようとロイには関係がなかった。
彼を愛していることに違いはないのだ。
何もかも知った上で彼を自分の妻に迎えたのだ。
その姿にヒューズは忘れかけていたものを思い出すような懐かしい瞳になった。
「……すまん。ロイ、勝手にお前達のことを――今はそれどころではないのにな。本当に申し訳ない。興奮させて悪かったよ。気を静めてくれ。エドワードをベッドに寝かそう」
「ヒューズ、わかれば良い」
そう言ってヒューズから瞳を逸らしたが、アームストロング夫人に向けられた視線は怜悧なものだった。
「夫人、二度は言わんぞ! わかったな」
彼の命令は絶対だ。
確かにこの状況下ではこれ以上反論しても仕方がないと、夫人もわかっていた。
「わかりました。一先ずはエドワード様の体調回復に尽力を尽くしましょう」
そんな遣り取りをエドワードは不安定に揺れるロイの胸の中でぼんやりと聴いていた。
唯、聴いていただけだった。
苦しかった――息が出来なかった。
大切にロイと育んできた命を自分の過去が殺した。

光がない。
希望がない。
夢がなくなった。

オレはロイに対して後ろめたさでいっぱいになって彼から逃げた。
そして――現実から逃げた。

あの暗い過去を引き摺るようにしてオレは居た堪れなさで、潰されそうになりながらこの屋敷に留まった。否、此処から逃げ出せなかった。




続く

すみません。
平に平にご了承下さいませ。とうとう、その時がやってきました。残酷なお話で申し訳ありません。
これから暫く暗いです。その為、なかなか話が進みません。

桜 美由紀 2006/2/17