愛すること、愛されること。(39)












あれからこの寝室はひっそりとしていた。眩しすぎる日の光は繊細に編まれた絹のレースで遮られ、窓は締め切られていた。
病床のエドワードのことを思ってのことだろうが、薄明るい光は物悲しくしてしまう。
外から隔離された空間が自然と出来上がっていた。
パラパラと書類を捲る音とペンを走らせる音だけが、静けさを取り除こうとしていた。
時折心配げに顔を覗き込むロイの姿が何度も見られる。
それをぼんやりと虚ろな視線が姿を瞳に映しただけだった。
何の感情もない硝子玉のような瞳にロイは心を痛めた。
「エドワード、少し身体を起こそうか?」
そう気遣わしげにロイが言うと、何の感情もなく首がカクッと下がる。
エドワードが療養している寝室には極力使用人の出入りを少なくした。
使用人達がエドワードの看病をしようと寝室にやってくるが、彼らの好奇な視線を嫌ってロイ自身が彼の看護をし続けた。
心身ともに憔悴しきったエドワードを誰にも任せることは出来なかった。
それにあの……思い出したくもない惨劇の場。あの場で口元を覆い、蔑んだ眼差しを向けた使用人達に彼の酷く衰弱した身体を診せるのに抵抗があったのだ。
どんなに手厚い看護を受けても今のエドワードはあの時の惨劇が忘れられないのだ。産褥熱に侵された身体が夜更けに何度も魘されていた。
悲しい呻き声にロイはエドワードの熱い身体を抱き起こし、現実の世界へと呼び戻した。が、その現実も彼にとってもっとも辛い場所。
エドワードの心は迷宮にどっぷりと浸かっていた。
唯一、安息の地を与えてくれるはずの胸。そこには――穢れた過去と罪悪感でいっぱいになって、その躊躇いから心からロイの胸で癒しを求めることができない。
それにこんな下賎な身体に純真無垢な赤子の魂を宿すわけにはいかないと、云わんばかりの神からの啓示があった身体。
分相応という言葉がある。自分はその理から掛け離れたことを願ったから、こうして罰を受けているのだ。
霞んだエドワードの思考はちょっとしたことでも陰極に思考を働かせてしまう。
そして、澱んだ思考と倦怠感に包まれている身体は嫌な感覚を思い出される。下肢を流れる生ぬるい血の感触が生々しくて、エドワードは頻繁にぞくりと身体を震わせて辛い吐息を吐いていた。
「……エドワード、まだ熱が高いね。明日、ヒューズが往診に来る予定だが、辛いならば直ぐにでも来させようか」
少しばかり枕を高くしたロイの手がエドワードの頬を覆っていた。
「――いい、大丈夫…」
くすんだ琥珀色の瞳を伏せて、ぼそりと小さな声を出した。
ロイの表情が僅かに微笑んだ。会話を返してくれる。それだけでも救いなのだ。
暫くは口も利けないほど憔悴しきっていた。このまま言葉も話せなくなったらどうしようかと、ロイは苦悩の毎日だったからだ。
キンブリー達の暴行で腫れ上がっていた頬は腫れもひいて青痣を残す程度になっていた。少しずつ外傷は治癒しようとしている。
けれども心に負った怪我は未だにぱっくりと開いて膿んでいた。それでも怪我ならばいつかは治ると信じて、ロイはこの数週間エドワードを見守ってきた。
勿論、会社にも出勤していない。
今回の事件はロイの片腕として働いている部下達しか知らない。
社内では極秘となっている。
あの仕事の鬼と歌われ、社長のスケジュール調整を一手に引き受けている秘書のホークアイでさえ社へ出勤しない社長を咎めようとはしなかった。
ホークアイはエドワードの見舞いを兼ねて、社長に溜まった書類を渡しにやって来る。その彼女も二人を見つめる目は
「――赤ちゃん、いなくなった…」
ぽつりと小さな蚊の鳴くような声。独り言のような呟き。
所在ない瞳が自身の腹辺りを見ていた。それから真っ白な包帯に固定された右腕がゆっくりとぺたりと平坦な腹を目指し、動き始めた。
「エド……もう忘れなさい。最初からいなかったのだよ」
そう告げるロイの顔は苦々しく、まるで自分に言い聞かせているようでもあった。そして、硝子玉の瞳からロイは少し顔を逸らした。あまりの不憫さに正視することが出来ないのだ。
「そんなことない! ちゃんとオレの腹の中で育ってた! ほら今もこうして赤ちゃんがお腹を蹴るんだよ。ほら、触ってよ」
エドワードは澱んだ瞳でロイを見て、骨折して痛むはずの右手がロイの手をやんわりと掴んで、幻想を抱く腹に導こうとしていた。そして、そのくすんだ金瞳には大粒の泪。
「いたんだよ。ちゃんといた――」
「エドワード……落ち着きなさい。興奮すると熱が上がるよ」
突然、気が触れたようにエドワードは喚き出した。それから――興奮するあまり呼吸が侭ならなくなるのだ。そんな彼を胸に抱きしめて、ロイはむせび泣く背を擦り続けた。
現実が受け止められないエドワードはあれから時々こうして過呼吸の発作を起こすのだ。
憐れで見ていられない。
抱きしめる腕に自然と力が入った。ロイは瞳を固く閉じて、ヒューズの腕から渡されたまだ温もりのある小さな小さな赤子を思い起こした。
「エドワード…あぁーちゃんといたよ。男の子だったよ」
えぐえぐと嗚咽を上げながら咽び泣くエドワードは今にも消えそうな淡雪のようだ。その彼をいつまでもこの胸に抱きしめている訳にもいかず、ロイはベッドに寝かして落ち着かせようと必死だ。
「……ひっく、オレ…見てない。ひっく――抱いてないッ! 旦那様の子供…ッ、大切に大切にしてたのに――ご、ごめん…」
彼の心は罪悪感で溢れかえっている。
「エドワード……すまない。すまなかった」
目尻から零れる涙をロイの親指が優しく払う。
エドワードは悲痛のどん底にいる。が、ロイとて苦しんでいるのだ。
彼も我が身を悔いているのだ。
自分の戦略に間違いがあったと…。どうして、彼の傍を離れてしまったのかと。そして――感情を剥き出しにしてしまった大人気ない精神を恨んだ。
悔いても悔いても全ては終わった後だ。
うまく呼吸できないエドワードの胸は激しく上下し、息苦しくて左右に頭を振っていた。その彼のやせ細った両頬をロイは両手で出来るだけ優しく固定した。それから辛そうな瞳を彼に向けながらエドワードの乾いた唇を己の唇で塞いだ。
本来ならば甘い接吻と言いたい所だが、とてもそんな状態ではない。吸い過ぎた酸素を二酸化酸素に変換してやるのだ。
唯、ヒューズが応急処置にと教えたことをロイは実践しているのだ。
そして――エドワードは苦しさにもがきながらぽろりと泪を零し、駄目だとわかっていながらもこの塗炭の苦しみから逃れたくてロイの広い背に腕を伸ばした。
甘えられる立場ではもうないと、言うのに。それでも助けを求めずにはいられない。

この漆黒の世界に少しで良いから、光を与えて――。
オレはその光を探しに行く力が今はないんだ。
ほんの少し――背中を押して導いてくれるだけで良いから…。後は、ちゃんと努力するから。自分が間違った道を歩んだその咎はちゃんと背負うから。

暫くしてからロイは唇を外し、エドワードの容態を確認すると閉められた扉の向こうで待機する使用人に向かって声を上げた。
「ヒューズを呼べ!」
自然と語尾は下がっていた。


*          *          *


「ロイ、いつまでもこんな綱渡りみたいな状態では、な…」
ヒューズは気を失うように昏眠したエドワードの左腕に注射針を挿していた。白魚のような艶かしい腕は痛みを感じてピクリと跳ねた。その痛みを緩和させるようにヒューズは切ない顔で何度も腕を擦っていた。
「………」
ロイの顔も暗く曇っていた。
「やっぱりうちの病院で入院させた方が良いかもな。かなり精神的に参っているよ。その所為だろう――回復が遅い。俺はエドワードの身体が心配だよ。ロイ、少し考えて見てくれないか? それにおまえも海外出張に行かなくちゃいけないんだろう。リザさんが悩んでいたよ」
ヒューズの言っていることは尤もなことだった。
確かにエドワードは精神的に追い込まれている。屋敷の使用人達が善意で彼の看護をしようと顔を見せるが、エドワードの身体がそれを拒否していた。
心ではわかっていても、身体が勝手に反応するのだ。あの蔑んだ瞳が眼から離れない。
だから、今は唯一信用できるロイからエドワードは離れることが出来ない。
「出張の件は――」
と、だからロイは口を濁し、今は強制的な眠りに陥っているエドワードの汗が浮かぶ額を手の甲で拭っていた。
リザからそろそろ社に出社してくれと要望があった。彼女も事情を知っているから強気には言えない。だが、実情は社長がいてこその会社である。如何に優秀な人材を投入していようとも、それを統括するのがロイなのである。ましてや、その社長がいなくてはうまくいく商談もうまくまとまらない場合もある。
ロイもそれは重々わかっていた。短期ならばいざ知らず、こうも日が経てば何らかの支障をきたして来る事も在りうる。
それでもエドワードの体調が気がかりで堪らないのだ。
「ヒューズ、エドを独りにしたくないんだよ。独りにした所為でエドは……あの時の様に…」
それから先の言葉は出なかった。
思い出したくもない光景がロイの眼の裏をフラッシュバックする。それから逃れるようにロイは蒼白い顔色で小さく息を吐いて眠るエドワードの頬を切なく撫でた。
こんな風に自分を責め続けるロイをヒューズは今まで見たことがなかった。
どんな難題も解決し、そして推し進めてきた男だ。彼の辞書に後悔や失敗の文字を見たことがないと、言っても過言ではない。
その彼が今回ばかりは成すすべもなく肩を落としている。
二人の馴れ初めから知るヒューズには信じ難い光景であり、どうにかしてやりたいと思ってしまう。
「ロイ……おまえの気持ちもわかるが――これじゃ、二人ともダメになるぞ。お前は少しの間エドの傍を離れてはどうだ…」
「――それは出来ない。今、エドが頼れるのは私しかいないのだよ」
静かにロイはヒューズを見上げた。
思いつめたロイの黒い瞳は悲壮感が溢れていた。
「……エドはおまえや腹の子供に対しての罪悪感でいっぱいなんだよ」
「それがどうしたと、いうのだ。それを言うならば私の方こそ、エドワードには償い切れない思いでいっぱいだ…」
「だからだよ…」
ヒューズの言っている意味がわからずに、ロイは彼を見上げた。
「少しでも体調を回復させてやろうと思うならば、おまえ少し離れたほうが良いぞ。それで少しばかりエドが新鮮な空気が吸える。二人で同じ傷を舐めあっても、何も進まないんだぞ!」
ヒューズの口から熱心に語られる言葉。ロイは久方ぶりに親友の顔を正面から見た。
そうなのだ。
二人で暗い深海にいる。その二人はその場から動くことができない。沈むことばかりを考えて、深海から空気が吸える陸へ目指そうとしない。
ヒューズの言っていることは理に適っていた。
どちらか一人が突破口を目指して、上がれば良いだけのこと。
苦楽を共に生きてきた二人が少しばかり離れ離れになっても、それまでに築いた絆が強ければ大丈夫なはずだ。
ロイは暫く、考え込んだ末にヒューズに向かってぼそりと口を開いた。
「エドワードの容態が落ち着いたら……考えてみよう」
ロイはそう静かに言って、エドワードの左手を包むように握りしめていた。


それから一週間後。
ロイは海外へ出張することになった。
エドワードの体調は相変わらず、良いとは言えない。劇的な回復は見られないが、それでも目に見える傷は癒えつつあった。
一番酷かった右腕と……心の傷を残して――。
ロイは彼の容態が安定し出した頃合を見計らって優しく言った。
「エドワード、私は数週間海外出張で屋敷を留守にしなければならない」
柔らかなクッションを幾つか背にし、エドワードは身体を起こしていた。ぼんやりとではあるが、窓辺の光を浴びながら美しい庭園を見ているようだ。
そんなエドワードの耳に彼の言葉は入ったようだ。
気だるそうに振り返り、心配げな表情を露にしていた。心では彼に甘えてはいけないとわかっていながらも、身体は勝手にロイの袖口を握っていた。
その手にロイは己の右手を重ね、置いていかれた子犬のような眼をしたエドワードの小さな金色の頭をゆっくりと胸に抱いた。
「大丈夫だよ。仕事を早く終わらせてちゃんと君のところに帰ってくるよ」
「……」
身を固くして、エドワードはロイの胸に抱かれていた。
真綿で包むように抱かれていてもエドワードの心は頑なに安らぎから拒絶していた。
そんなエドワードにロイは躊躇いながらも抱擁し続けた。彼をそうせざる終えない状態に追い込んだのは怒れる感情に身を任せてしまった自分の所為。
「少し、横になろうか。今日は随分身体を起こしていただろう。疲れたろう…」
腕の中でエドワードは身じろぐように小さく頷いた。
「エド、沢山土産を買って来よう。何がいいか? あぁ…そうだ。君が読んだことのない本を選別して購入してこよう」
柔らかな枕に片頬を埋めてエドワードの瞳は心とは反し、縋るような瞳で見上げていた。そんな彼を宥めるようにロイの手は優しく寝乱れた金糸の髪を梳いていた。
優しくされればされるほどエドワードは自責の念を募らせる。それと相反して、無償の愛を自分に与えてくれる男が堪らなく愛しく感じる。
でも――自分にはそんな愛にこの穢れた身体を捧げてはいけないと、自由に動く左手がロイを拒むようにギュッと清潔で真っ白なシーツを握り締めていた。
恨めしく思うのだ。
この真っ白な色が――憎くて堪らない。
心でどんなに願ってもこの白さをエドワードは纏うことが出来ない。
エドワードが一人葛藤する姿を咎めることもなくロイは眉尻を悲しげに下ろして、今は見守るしかなかった。
何をそんなに嘆くのだ。辛いのならば自分を頼ってくれれば良いだけのことと、と何度も諭したが、頑として受け入れようとしない。否、そう強要すればするほどエドワードは殻に閉じこもってしまう。
それがこの数週間で否というほどわかった。だから――こうしてヒューズに勧められて少しばかりエドワードの傍を離れることを決意したのだ。
「エドワード、そうだな。私が出張から帰って来た時は、君が出迎えてくれると嬉しいな」
明るく努めるロイが塞ぎ込んでいるエドワードの長く伸びた前髪を梳きながら、駄目かなと伺いを立ててみた。
あの事件以来口数の少なくなったエドワードだ。返事はないだろうと、思っていた。
が、意外にも鼻に掛かった小さな声音がロイの耳に届いた。
頼りなく金色の頭が下がった。けれども果たしてエドワードにその意志があるかどうかは定かではない。
彼自身、自分をコントロールできないのだ。
混沌とした世界に彼の精神はある。
そのことを充分理解していても願わずにはいられない。あの明るい笑顔をもう一度自分に向けてくれと。
辛そうな吐息を小さく吐いて、長い金糸の睫がゆっくりと下がった。
あ……誰か助けてこの闇の中から――。
目蓋を閉じると泣かなかった赤子の亡霊が現れる。その赤子を血に濡れた腕で抱いていた。沈痛な面持ちでその子を見ていた。
徐に上げられた瞳から感情が見えない冷たい泪が零れていた。そんな夢を見続けた――。




続く

すみません。どん底状態編。


桜 美由紀 2006/3/2