愛すること、愛されること。(40)












「旦那様、お帰りなさいませ。お疲れになられたでしょう。海外でのお取引は如何でしたか? ご報告では、さぞ良い成果を上げられたと伺っております」
執事のファルマンは普段通りに長旅から帰国した主人の外套をまずは受け取り、それから後方で渋い顔つきで待機しているハボックからカバンを受け取っていた。
けれども帰って来た早々、女中頭であるアームストロング夫人は捲くし立てるようにロイに話し掛けていた。その彼女の機嫌は良いように見えたが、薄っぺらな微笑が屋敷内の内情を表しているようにも見えた。
「そうですわ。旦那様がお留守の間にレイブン子爵のパーティーの招待状が来ていましたので、出席のお返事を出しておきました」
にこやかに主人が留守をしていた間の諸事を夫人は伝えていた。
だが、その会話の中に一言もエドワードの名は上がらなかった。そのことに逸早く不満を感じているロイの顔つきは酷薄になっていく。
久しぶりに帰って来た屋敷の玄関。ロイは少しばかりの期待を胸に抱いていた。
それは期待してはならないものだった。それでも願わずにはいられない。
エドワードの笑顔。
扉を開けてみればその姿はない。それは当たり前のことだろう。まだ、体調は完全に回復していないはずだ。
そう思って熱く高鳴る胸を沈めた。
それでも帰国すれば彼の容態や様子が克明にわかると思っていたのに、誰一人彼のことを口にしない。名前すら出さないのだ。
「エドワードはどうしている…」
夫人の話題を制するようにロイが病床の妻を心配して、声を出すとにわかに活気付いていたこの場がしんと静まり返った。
まるで触れられたくない話題を振られたような、そんな陰湿な空気が一瞬にしてこの場を包み込んだ。
「―――」
それまで鼻を高くして口を開いていた夫人の唇が途端に塞がり、すぐにその顔は無愛想に変わっていく。そんな彼女の苛立つ顔に愚痴の一つでも零したくなる。それを抑える代わりに自然と振る舞いは荒々しくなっていると、恐々と使用人の一人が周囲を気遣いながらもロイに話し掛けてきた。
「あ、あの……昨日より体調を崩されまして臥せっておられます。あ、でも――ちゃんと旦那様がご帰国されることを伝えましたら微笑んでおられましたから」
彼女は隣で威厳正しく背を伸ばしている女中頭に気兼ねしながら使用人の一人がコソコソとロイに話した。一瞬、ロイの眉間に深く皺が寄ったが、それでも意を決してエドワードの話題を振った彼女の勇気は誉められるものがある。
この場の空気で屋敷内の内情がわかる。
恐らく、自分のいないところで鬼の形相に代わりつつある夫人からこの使用人は小言を言われるに違いない。
だから態とロイは夫人やその他の使用人達がいる前で彼女に優しく声を掛けた。
「すまないね。良く話してくれたね。感謝するよ。これからもエドに気を配ってやってくれたまえ」
「あ、はい! 旦那様…」
頬を真っ赤に染め上げて、硬直した使用人はこの場で一躍有名人的な存在に変わった。
今迄、めったに使用人と口を利くことがなかったロイがこうしてねぎらいの言葉を掛けるということは稀な事だ。
暫く屋敷を留守にしている間にエドワードが屋敷で煙たい存在になっている。
恐らくそう仕向けられているのだろう。その張本人は未だに顎をツンと上げている夫人の所為だろう。それとやはりエドワードの過去が赤裸々になったことによって、今迄慕っていた者達も距離を置くようになったのだろう。こればかりは仕方がないと言ってしまえばそれまでだが。
それでも改善できる点はあるのだ。
ツカツカと階段を昇ろうとすると、その後ろで声が上がった。
「旦那様、まずは長旅のお疲れを癒すために…」
そこまで言いかけた夫人は言葉をなくした。数段上から彼女は睥睨された。
「それより先にエドワードを見舞う。何故、体調が悪いことを連絡してこなかったのだ。あれほど毎日連絡は欠かさずよこすようにと伝えていたはずだ!」
グッと一度息を飲んで夫人は言い返した。この屋敷でこうも主人と対等に物を言えるのは彼女ぐらいなのだ。
「そう言われましても…。こうもすぐに体調を崩されますとこちらもどう対処して良いかわかりません! もしや仮病ではございませんか? 最近、多いのですよ。何かと気分が悪いと言われましてね。部屋からもお出になられませんしね。まあーその方が来客者等に姿を見られて説明を求められなくて良い場合もありますがね」
食って掛かった言い方とエドワードを蔑ろにしたことに酷く腹を立てたロイは大声を上げた。また大人気ないと言われても仕方がない。しかし、こればかりははっきりさせておく必要があるのだ。この場に集まっている使用人達にも言い聞かせるためには好都合な展開である。ロイは怒号しつつも、巧みに策略を練っていたのだ。
「うるさい! 君とこれ以上論議しても仕方がないことだ。これだけは言っておくぞ! 絶対にエドワードを先程みたいに無下に扱うことは許さんからな! エドワードは私の妻だ。この事を肝に銘じていろ」
「――」
こめかみに青筋を立てて、睨み上げている夫人にロイは追い討ちを掛けるように一喝した。
「夫人、返事はないのかね!」
標的にされた夫人はこれ以上食い下がる訳にもいかず、深々と頭を下げた。
「かしこまりました」
彼女さえ平定してしまえば、自ずと後は従ってくるのだ。他の使用人達も忽ち頭を下げて、主人の命令に従い始めた。


*          *          *


「――入るよ…」
そう一言断りをいうと、ロイは扉を開けて中に進んだ。寝室はほの明るい橙色に染め上げていた。その色彩は自然と眠りを誘う色。
ロイはその穏やかな色に誘われて、かの探し人も穏やかに眠っていることを祈った。けれども閑散としている室内は生き物の気配が感じられない。
小さな寝息の一つも聞こえてこない。不安がロイの脳裏を駆け巡った。
するとベッド脇に立ち竦んで頭を深々と下げている使用人がいた。人の存在に気づき幾分か安堵するが、目の前にいるこの子には見覚えが充分あった。エドワードが仲良くしていた使用人のロゼだ。
そうあの日――。顔を思い出すのさえ憚る。
エドワードとこの使用人ロゼは一緒に外出し、悲劇に見舞われたのだ。あの男――忌まわしきキンブリーと遭遇してしまった。
ロゼを視界に入れるとどうして、と言う言葉が溢れかえってくる。
だが、既に終わったことだ。それに、彼女に非はない。唯の逆恨みだと言われても仕方がない。だけどこの憤りをどこにぶつけて良いのかわからない。
けれども病床のエドワードの傍らで深憂な面持ちで彼女は付き添っていた。
恐らくそれを望んだのはエドワードだろう。
人の出入りを拒んだのは彼だ。その彼がこうして寝室に入れていると、いうことは彼女に対しての凝りはないのだろう。それとも彼女意外に助けを求める者が屋敷にはいないと言うことなのだろうか。ロイは膨れ上がった想いをどうにか沈めて震える彼女に声を掛けた。
「そう緊張せずとも良い」
傍らで眠っている者を気遣った声音は静かだ。
「旦那様……本当に申し訳ございませんでした」
下げていた頭を更に下げて彼女は謝罪の声を上げた。久方ぶりにロゼは屋敷の主人と顔を合わせた。
あの事件以来、彼女は謹慎を余儀なくされていた。それは女中頭の強い要望からだ。
勿論、使用人達の意見も合致していた。
これ以上、屋敷の主人の機嫌を損ねられては困るというものだ。
しかし、その謹慎もロイが海外へ出張した後に解かれた。
「エドが君を頼ったのだろう…」
目を細めて、柔らかな枕に片頬を埋めて眠っているエドワードをロイは目を細めて見つめていた。乱れた金髪が顔に掛かって、彼の表情はよく見えない。
「はい…。奥様にはあまりあるご好意を頂き本当に心苦しく思っております。――私の所為なのに、それなのに私をお傍に置いてくれるなんて…」
声を詰まらせてロゼは答えた。
ロイ自身、彼女を責める気持ちはとうに消えてしまっていた。唯、今はエドワードに笑って欲しいという思いだけ。その為にならば、どんな手でも使うだろう。
「そうか……エドが傍にいてくれというのならば、君はそれに従ってくれたまえ。今更、悔やんでも…失った命は戻っては来ない」
ハッと下げていた頭を上げたロゼの瞳からは大粒の涙がボロボロと零れていた。それから戻ってこない過去から決裂するように、彼女は真っ白な前掛けを両手でギュッと掴んで顔を上げた。
「はい。奥様と旦那様にこれから懸命に尽くすつもりです」
「頼むよ…。今のエドには数少ない味方だからね。それより様子はどうなのだね」
ロゼは手の平で涙を拭った。
「えぇ……ヒューズ様からも体調は良くなっていると、言われているのですが。奥様の気持ちとは裏腹に身体が時々こうして悲鳴を上げるように発熱されるのです。ご自分でもそれを悩んでいるみたいで。それでもエドは――あ、奥様は頑張ろうと必死なんです」
「そうか。よく話してくれたね。今日のところは部屋に戻りなさい。後は、私が看よう」
力の入りすぎている肩をロイは軽く叩いて、にっこりと微笑んで見せた。するとロゼは惚けたようにロイを暫く見つめていた。それから我に返り、俄かに手を振って焦り出した。
「いけません。旦那様は長旅でお疲れでしょうから。それにアームストロング夫人に怒られます」
「いや、かまわんよ。それよりエドと今日は一緒にいたのだよ。約一ヶ月振りだからね。察してくれたまえ」
先程まで自分に注がれていた優しい瞳はいつの間にかエドワードに受けられていた。その眼差しには限りなく深い愛情を感じられる。ロゼを見ていた眼差しとは雲泥の差があった。
ロゼは丁寧に頭を下げて寝室を後にした。


ロイの手が恐々とエドワードの乱れた前髪を梳いた。
そこからは真っ白な顔が現れた。
それが虚しくて堪らない。
あの日が起きるまでは、彼の仏頂面が笑っていた。それなのにその欠片も今は見つからない。痩せ細った頬と身体がロイの眼前に現れていた。
此処でもやはり肩を落とすしかなかった。
それでも諦めることは出来ない。友人の勧めで少しばかり距離を置いてみることにしたが、彼が心配でならないのは変わらない。
彼の眠りを妨げないように静かに見つめていると、その気配に気づいたのであろう迷える子羊が覚醒し出した。
身じろぐ彼に思わず、伸ばしていた手を引いてしまう。だが、躊躇いながらも熱っぽい頬に手を添えるとゆっくりと金糸の睫に覆われた目蓋がゆるりと開いた。
何度か瞬きを繰り返して頬に触れる温かい手に己の左手を重ねると、眠たげな声がロイの耳に届いた。
「――旦那様…? ロイ!?」
まだ使用人という立場から昇格しきれないエドワードはこうしてロイのことを旦那様と言って彼に叱られた癖は治っていない。
それでも自分の名を呼んでくれたことに感銘を受けて、苦慮して下げていた眉は優しげに下がった。
「あーそうだよ。只今、エドワード……遅くなってすまない」
「うん…」
ロイの声が彼の耳に届いたのだろう寝起きで鼻に掛かった声音が返ってきて、ロイは破顔したが、不安は頭から離れることはなかった。
「具合はどうだね? 使用人達が心配していたよ」
彼の体調を酷く心配していた。それより以前にエドワードが素直に唇と心を開いてくれるのか問題だった。けれどもロイの杞憂に過ぎなかった。
エドワードは熱で潤んだ瞳を彼から少し逸らしながらも唇を開き始めた。
「……怪我は……ほとんど治ってきたけど…」
ゆっくりと躊躇いがちなエドワードの声がロイの耳に浸透してくる。
「けど? どうしたのだね。ゆっくりで良いから話してみて」
上目遣いにエドワードの瞳が上がって、少し多目に空気を肺に取り入れてエドワードは続けた。
「ずっと身体の調子が良くないんだ。どうしてかな? オレ、少しは頑張ってるのに身体が言うことを聞いてくれない」
くすんと、身体をベッドの中で丸めた。
そんな微笑ましい仕草に気を良くしたロイは久方ぶりに合うエドワードの身体を抱きしめた。
単に抱きしめただけだ。
鎧のように纏ったシーツを優しい手つきで剥いだ。真っ白な長襦袢に身を包んだ身体で手足を縮めた姿がロイの前に現れる。
橙色の明かりに照らされて金糸の髪が鈍い色で光っていた。白が際立つエドワードの身体を絹糸のような髪はゆるく文字を書くよう流れていた。
笑顔を絶やさず、身を固くしているエドワードの脇に手を差し込んで抱き起こし、胸に抱いて長い金糸の横髪を梳いた。すると少し熱で湿っぽい首筋と耳尻が現れ、ロイはその陶磁器のように白い肌に口付けた。
唯それだけなのに――。
彼の身体は落雷が全身に流れたように跳ね上がったのだ。
エドワードは突然、両腕を伸ばしてロイの胸から逃げ出そうと足掻き出した。
「エドワード!? どうしたのだね?」
「ヤダッ!! 放して。――こんな穢れた身体に触れないでくれ。アンタまで汚れてしまうから、お願いだから――」
金糸の髪を左右に振り乱して、エドワードは懇願した。
あまりの変わりようにロイも戸惑ってしまうが、発熱しているエドワードの抵抗は長くは続かなかった。
決して性的行為を強請って彼に触れたのではない。それなのにエドワードの身体はそう反応し、拒絶した。
荒々しい息を吐く彼の瞳には涙が浮かべられて、ロイの顔を辛そうに見上げていた。その苦渋に満ちた頬をロイは躊躇いながら触れてみると、エドワードは少しばかりたじろぎながらも受け入れた。
ロイはほっとした。
「エド、何もしないから眠りなさい。明日、一緒にヒューズの所に行こう。まだ、診せていないのだろう」
こくりと頭は素直に下げられ、たどたどしく唇が開いた。
「……頻繁に寝込むから――悪くて」
ロイは少しばかり笑顔を取り戻した。
「そんなことに気を使う必要はないよ。まだ、体調が回復していないのだよ。ゆっくり治していこう。それで良いから」
エドワードは襟元を隠すように掴んでいた手に力を込めた。おずおずと濡れた視線をロイに向け、呼吸を整えるために大きく息を吸い込んで吐いた。
「うん…。あ、あのーさっきはごめん」
「?」
先程、暴れたことを気にしているようだ。
こう素直に謝ってくるところを見ると、単に虫の居所が悪かったのだろう。そうロイは思っていた。

しかし――これが後々まで引き摺ってくることになろうとは……。
心の傷と言うものはなかなか根深く、新たな精神的外傷を産み出す。

現実から逃げ出すためにエドワードは何かを犠牲にした。
決してそれを彼が望んだのではない。
それでも痛嘆なエドワードにそっと悪魔が近づき囁いたのだ。
汝が愛されることは許されない――汚らわしく忌むべき淫猥な身体がその証。恥ずべき身体に愛は必要ない。
エドワードは両耳を塞ぎ、何度も髪を振り乱して苦悶した。その囁きは徐々に大きくなり、傷心を抱くエドワードの傷口に深く塗り込められた。
けれども煩悶を繰り返すエドワードは切願した。
今はとても独りでいることが出来ない。自分には不釣合いな豪邸から出て行くことも侭ならない身体だ。
せめてこんな自分に愛することを教えてくれたあの人の傍にいさせて欲しい。
ほんの少しの間だけでも、一生分の幸せをくれたから。夢と希望をくれたから――。

傍にいることを許して……。
その代わり自分の忌むべきふたなりの身体、恥辱の限りを尽くす身体を拒絶する。
だから許して。





続く

これまた別の問題が発生です。
暫く、こんなくらーいお話が続きますが…付き合ってね。

桜 美由紀 2007/3/16