愛すること、愛されること。(41)
エドワードにとって明るい日が射すことはない。
それでも日一日時は経ち、朝はやってくる。
それを望まない者がいるとしても……朝日は射して明くる日を生きる。
エドワードを親友であるヒューズが院長をしているセントラル病院に連れて行こうと、ロイはエドワードの寝室の扉を開けようとした。
すると伸ばした右手からドアノブが離れた。
開かれた扉からエドワードが現れ、ロイの顔は見るからに慌て上擦った声を上げた。
「エド!? 起きても大丈夫なのかね?」
正絹で仕立てられた着物を綺麗に着付けたエドワードの姿に唖然とした。昨晩はあんなに弱りきっていた身体だ。今朝も起き上がれるかどうか難しいだろうと思っていた。
それなのに一見したところでは、整然と立っているのだ。
「…うん、何とか。心配掛けてごめんな…」
はにかんだ声色だが、元気はなかった。ロイは視線を少し逸らす彼の顔を心配そうに覗き込んだ。
「しかし――まだ熱もあるだろう」
よくよく観察してみれば顔色は蒼白く、胸元を苦しそうに押さえて俯いていた。金色の髪は綺麗に梳かれていたが、いつものように後頭部で結われてはない。横顔を隠すように下ろされていた。その所為で余計やつれたように見えた。
着ていた着物はロイが用意した数多くの豪華な品々の中でも一番大人しい色柄の着物を選別して着ていた。ロイはひっそりと眉を顰めた。
彼らしくない色柄はエドワードの鈍色の心を無言で表しているようで悲しかったからだ。
「…ぁ、大丈夫だよ。少しだるいだけだからさ」
「体調が悪いというのに盛装しなくても良いのだよ。私は寝巻き姿の君を抱えて行くつもりだったのだよ。私の計画が崩れてしまったよ」
少しおどけるように言って、エドワードの反応を窺った。すると少しばかり恥ずかしそうにエドワードが笑う。
「エッ、そんなことしたら怒られるよ」
気を良くしてロイはエドワードの肩をそっと抱いて廊下を彼の歩調に合わせて歩き出した。肩に触れると少し身体が揺れたが、昨晩のように拒絶されることはなかった。
痛めた左脚の所為で彼の歩調は酷くゆっくりだ。完治したと聞いていたが、やはりリハビリが必要らしい。
それをロイが気に病んでいると、エドワードはぽつりと零した。
「うん、無理にでも痛めた脚や腕を使った方が良いって言われたけどね。なかなか外に出れなくて…ね。それに部屋から出ると、みんなに迷惑が掛かるから」
そういうエドワードの顔は切なそうに下腹の前に合わせた両手を見ていた。否、腹の中に宿っていた赤子を見ていたのだろう。
そんな憂い気な表情を見れば、自然とロイの鼻の奥がツンッと痛んだ。
それと同時に仮にも病人であるエドワードに厳しく指導をしているアームストロング夫人が憎らしくて堪らない。彼女の支持に従って体調が悪いにも関わらず、綺麗にというか几帳面に着物を着付けているのだろう。
その所為で身体を締め付けられ、辛そうに小さな息を小刻みに吐く彼の姿が不憫でならなかった。
本来ならば大手を振って屋敷を練り歩いて良い立場にあるのにと。
「エドワード、夫人のいうことは無視して良いのだよ。私が後で厳しく言って聞かせるから。君はこの屋敷で自由に過ごしていてかまわない。私の妻は君一人だということは揺るぎないことだ…」
エドワードはふいにロイの顔を見上げ、開きかけた唇をギュッと一文字に閉じて、また俯いた。
「――ロイ、ごめんな」
瞳を下ろしたまま、エドワードは静かに口を開いた。しかし、その言葉が本意ではないことはロイも気づいていた。
君の孤独と共に生きることは出来ないのだろうか。
今のエドワードは、孤独な魂が四面を硝子に囲まれた部屋でぽつりと佇んでいるようだ。外からその姿が見えるけれども、こちらの世界に呼んでやれない。
屋敷の廊下を歩き進むと、幾人かの使用人達と顔を合わすことは必然だ。ロイは至って普段通りに振舞っている。
しかし、エドワードはロイに抱かれた肩を小さく窄めて俯いたまま、黙って会釈していた。
憐れで堪らない。
「もっと整然としていて良いのだよ」
と、俯いた顔を優しく覗き込んでも彼は瞳を背けた。
こればかりは急いでも仕方がないと、ため息を漏らしつつ階段を下りるエドワードを支えながら玄関フロアーに歩んでいく。
螺旋を刻む壮麗で長い階段。赤い絨毯に化粧された床に木目を生かし、鮮麗されたモチーフを刻んだ光沢のある手摺。
その手摺に左手を添えて、エドワードはゆっくりと一歩ずつ脚を下ろして行く。急かすことなくロイはそんなエドワードの腰をしっかり支えていた。密着した身体に熱い想いは徐々に首を擡げるが、何故か彼との間に薄い硝子が一枚。それが二人の間を隔てる物として存在していた。
その存在をロイは薄々気づいていたが、言葉にすることは出来なかった。否、声にしたくなかったのだ。
「ごめん。もっと早く歩けるようにするよ…」
時折、ロイに気兼ねするエドワードの小さな声。そんな彼に笑顔で見守り続けるロイの姿。
だが、そんな微笑ましい光景もフロアーに降り立つと急速に冷めた。
使用人達がまるで珍獣でも見るような目つきでエドワードを見ているのだ。決してそういう訳ではないのだが、今のエドワードには彼らの視線は痛かった。
楽しい時間も此処までと、言わんばかりにアームストロング夫人が厳しく注文をつけてくる。
「旦那様もご一緒に行くことはございませんよ。使用人を付き添いに行かせましょう。そうですわ。運転手のハボックで良いではありませんか?」
そんな無責任なことを平気で夫人は口にした。彼女には彼女なりの考えがあってのことだ。
屋敷の当主と一緒にエドワードを外に出したくないのである。
屋敷中の使用人達はあの日、エドワードの赤裸々な過去に直面した。それを外に広められては困るとアームストロング夫人が厳しく緘口令を出した。彼の素性が元でロイの今後の人生を棒に振るわけにはいかないと、躍起になっているのだ。
当の本人は想定内の出来事であり、気にしてはいない。何時かはスキャンダルが好きな政財界、社交界がその話題でもち切りになることは予想していた。
だが、エドワードの精神面については心を痛めている状態なのだ。
「夫人、君と口論するつもりはない。私は妻の健康を取り戻したいのだ。それを邪魔する者は許さない。さあ、車の用意は出来ているのかね?」
苦々しい面持ちで夫人は玄関の外で待機しているハボックに声を掛けた。
使用人達は頻繁にこの緊張した遣り取りに出くわす。それは使用人だったエドワードがこの屋敷の主人に嫁いでからだ。それでも彼がもっとしっかりしていた頃は触発する間に入って仲を取り持つ場面も見られたが、今はその影もなくひっそりとロイの傍らで艱難に耐え佇んでいる。
それは車内でも変わりなかった。車内はロイと気心の知れたハボックの三人というのに、エドワードは後部座席の片隅でぼんやりと流れる景色を眺めていた。
ハボックが久しぶりに顔を合わせるエドワードに気を使い、冗談を交えて話しかけたが、その反応は鈍くかえってエドワードに気を使わせることになっていた。
「エドワード、もう遠慮することはないから…こちらに」
ロイが彼の肩を引き寄せると、俄かに反応するエドワードの身体。それを不自然に感じながらもロイは強引に弱りきった彼の身体を自分の懐に抱き込んだ。
「――ぁッ、旦那様…大丈夫だから」
弱弱しく小さな声が上がれば、庇護欲が湧いてくる。
「エド…は、かわいいね。ハボックがいるから恥ずかしいのかね」
エドワードが恥らう素振りに反応し、まるで運転中のハボックに魅せ付けるようにエドワードの濡れた口唇を奪いに掛かる。けれどもエドワードには予期せぬこと。
彼の身体は人前であることに戸惑い、そしてその行為事態を拒絶してしまった。結局、ロイは嫌がるエドワードの口唇に触れることは出来ず、失敗に終わる。
昨日から彼の様子にロイは秀麗な眉を少し顰めた。
俯いて謝り続ける彼に無理強いは出来ない。
何を怖がっているのだろうと――。細やかな接吻。それだけなのに――。それ以上は望んでいない。
強いて言えば、彼が傍にいることを望む。
しかし、拒絶する理由を聞くことも出来ずに小さく痩せ細った肩を優しく抱いた。
それは許してくれるようだ。
* * *
セントラル病院の院長室でロイはエドワードの診察が終わるのを心待ちにしていた。
さすが大病院の院長室。座っているソファーも一級品ならば、置かれている家具も一流。
それを実業家としての眼が興味深く、観察していた。
まもなく重厚な扉が静かに開かれ、ヒューズが一人訝しい顔つきで現れた。いつもの彼とは思えない表情にロイは不安を感じる。それにロイの予定ではエドワードも一緒に戻ってくるはずだったのだ。
それが――男、二人渋い顔をつき合わせてソファーに座っているのだ。
「エドワードはどうしたんだ?」
「――ロイ、エドは今眠らせているよ…」
ロイは深刻な眼差しをヒューズに向けた。
「そんなに悪いのか?」
「いや、そういう訳ではない。唯――」
ヒューズはそこまで言って口を濁した。
長い付き合いがある友人であるロイに嘘はつけない。しかし、どう説明して良いものかと考えあぐねていた。
暫くの間、口唇を一文字に結んでいた。ロイも黙ってヒューズの口が開くのを待っているが、気が気でならない。
「ちょっとな……非常事態発生だ。今は薬で眠らせている」
深く腰を下ろしていたロイはソファーから思わず、立ち上がってしまう。それを流れる動作の一つとしてヒューズは見ていた。これしきのことで驚いてもらっても困るのだ。
「……体の外傷は治癒してきている。そうお前も言っていたように、リハビリが必要だけどな……」
座れと云わんばかりのヒューズの視線にロイは一先ず、気を沈めて腰を下ろした。
「そうか…。それはエドワードも言っていた。が、一体どうしたと言うのだ?」
「そうだな。俺も驚いているんだよ。エドが――内診を拒んでな」
ロイの顔が醜く歪んだ。
一体、どんな想像をしたのか疑問を持つが、まるで無抵抗なエドワードの体をヒューズが医療器具を使って弄んだようにロイの瞳はヒューズを敵視していた。そんな想像を膨らませるロイをおどける様にヒューズはかわしたが、その表情は深刻だった。そして、重苦しく口唇を開いた。
「――痛がってな。身体に触れるのも怖がって…。そんな痛みを有する行為ではないはずだ。傍にはグレイシアも付いていた。だけど可愛そうなぐらい泣いて精神的に追い詰められていた」
ロイの顔は一気に青褪めていく。
「――あの出産で後遺症でも残したのか…?」
ロイの頭の中でエドワードの悲痛な叫びが呼応していた。忘れたくても忘れられない強烈な光景が脳裏から離れない。
苦虫を潰したように苦々しさが顔に溢れていた。それを咎めることは誰もしなかった。
「いや――診察の結果、順調に回復して異常はない。性生活も初めて良い――だが……」
一先ずロイはヒューズの言葉に安堵したが、よくよく聞けば重大なことを彼が言っていることに気づいた。
「だが――何なのだ。私は決してエドワードに性的欲求だけを求めている訳ではない。だが、これは男としての性だ。一体、どうしたというのだ?」
ヒューズも一人の男だ。ロイの言っている意味は良くわかったし、実際驚いたのは医者である自分の方である。
浅く座っていた腰を深く座りなおして、ロイの真摯な視線に合わせて話した。本当はひた隠しにすることかも知れないが、友人の瞳がそれを許さない。真実を有りの侭に伝えることにした。
「――性的なことに怯えてな。内診を拒むんだよ。まるで誰かに犯されるような眼をしていた。それでも無理にエドの身体を抉じ開けて、診察している自分が――堪らんな…」
ヒューズが声を詰まらせ、大きな手で顔を覆った。
診察するのに難儀した。そして、一人の男として辛酸を舐めた。
それでも自分の医師としての意見を交えて、親友に重い病状を伝えた。これは病状というのではないかもしれない。精神的な病。
「エドが今迄どんな風に――男達に犯されていたか……少しわかった気がするよ。本当にエドは辛かったんだな。そんな想いが爆発したみたいな感じでな。性的なことを怖がるんだよ」
ロイはヒューズの言葉に偽りがないことを確信した。
だから――エドワードの身体が昨日から僅かばかり振るえ、怯えて――拒絶しているのだと。
ロイは頭を抱えた。
こんな弊害が出るとは想ってもいなかったからだ。
「だからな……ロイ、エドを抱くときは慎重にな。彼の心を解き施すようにゆっくりと時間を掛けてやってくれ…」
余程、エドワードを診察したときに思い知らされたのだろう。ヒューズの飄々とした表情には厳しく寄せられた皺が残されていた。
「ヒューズ、君にも気苦労を掛けて申し訳ない。私は決してエドワードの身体が目的で妻に迎えた訳でも、子供が欲しくて……彼と一緒にいる訳ではない。ゆっくりとそれは解決していくよ」
そう言うとロイは苦笑した。
だが、それがどんなに苦労を強いられるかということは、同じ男であるヒューズは良くわかっている。
苦しく過酷な試練がロイに待っているのだ。それでも願わずにはいられない。どうかエドワードに人並みの幸せを与えてやってくれと――。
どうか人並みの愛をやっと手に入れたロイに救いの手をと――。
そう願わずにはいられなかった。
ヒューズはエドワードの身体を気遣って入院を勧めた。
しかし、それをロイは自分のエゴでやんわりと断り、エドワードの衰弱した身体を抱えてハボックが運転する車の後部座席にいた。
何もかも忘れ、深い眠りに就くエドワードは朧ろげで淡雪が手の体温で溶けていきそうだ。昨晩、一ヶ月ぶりに彼と顔を合わせた時は薄暗くて彼をしっかりと観察できなかった。けれども、ロイの腕に抱いているエドワードの身体は想像以上にやつれ衰えていた。それに、いつも巧みな話術で笑いを誘ってくれるハボックの顔にも余裕がなく、静かに二人を見守っていた。
特別室に行くとエドワードは綺麗に着付けられていた着物を脱がされ、緩く前帯を結んだだけの長襦袢姿で寝かされていた。
明るい陽射しに包まれたその姿を凝視してみれば全体的に痩せ衰えていた。あんなにふっくらとしていた腹部はげっそりと痩せ細り、抉れているようにさえ見える。
二人で近い将来を夢見て、大きくなった腹を撫でていた日々がふとロイの脳内に浮かぶ。
あれから食が細くなったエドワードの腕には栄養を供給するために点滴を施されていた。瀕死の状態だった頃に比べ随分元気を取り戻したように見えたが、痛々しいほどエドワードの身体に傷跡は残されていたのだ。
真っ白な病室に白光した光。そこに包まれたエドワードは希薄で消え入りそうな存在。こんな場所に一人、彼を残していくのは嫌だった。
心身ともに疲れ果てた身体を柔らかい毛布で包み込みロイは抱き上げた。軽い身体に驚きは隠せない。それ以上に彼が抱えている心の痛みと重みを感じた。
「旦那様、エド……奥様の容態はそんなに悪かったんですか?」
行きと帰りでは雲泥の差があった。それを不思議に思わない者はいないだろう。眉を顰めて、バックミラー越しにハボックは声を掛けた。
「――そうなのだよ。無理をしていたようだ。こんな弱った身体で全ての重荷を背負わせてしまった……」
ロイは気を失うように眠っているエドワードに己の額を擦り合わせていた。ハボックは二人の間に入り込める隙がなかった。
* * *
壮麗な作りが施されているロイの寝室。その中央に鎮座しているキングサイズの天蓋付の寝台は繊細な刺繍で彩られ豪華さを増していた。
綺麗にベッドメイキングされ、その白い海原は主を待っているように手招きしているように見えた。
しかし、その片隅で所在無げにベッドの柱を掴んでエドワードは立ち尽くしていた。
ロイと共にヒューズの病院で診察を受けてから、漸く体調が回復してきたエドワードをロイが一緒に寝ようと誘ってきた。
体調を悪くしていたエドワードは暫く隣の寝室を使っていたのだ。
以前は二人で仲良くベッドを共にしていた。それにこの寝室だけはエドワードにとって安心できる場所。聖域とも感じられる場。
この寝室の中での秘め事は流石のアームストロング夫人も口を挟めない。
誰にも邪魔されずに二人だけの時間を過ごしていたものだ。それはエドワードが“愛妾”という立場であったときから変わらない。
それなのに今は――怖かった。
この聖域に自分はいてはならない存在。そう身体が勝手に認識しているようだ。
醜く穢れている自分はこの場には相応しくない。真っ白な海原を血と白濁した欲望で汚してしまう。そんな感覚に陥ってしまっていた。
そして、真っ白なシーツに合わせられたように自分の着ている長襦袢も純白。
エドワードは長襦袢の裾を切なく見つめていた。
すると長く伸びた光が後方から射してきた。
「ん? どうしたのだね。後、少しで終わるから先にベッドで休んでいなさい。また、風邪をぶり返してしまうよ」
穏やかで優しい声音に何故か肩をビクつかせて振り向いた。
「……うん」
覇気のない返答にロイはすぐに戻るよ、と苦笑いして扉を閉めた。
残されたエドワードは暫く白い海原を挑むように見た後、大きく息を吸ってからおずおずとベッドに上がった。
覚悟は出来ている。ロイに抱かれること。
それは嫌じゃない。彼は自分の身体を優しく抱いてくれるだろう。特に赤子をなくし、傷心を抱える身体を気遣って涙が出るほど優しく抱くだろう。
わかっているけれども身体の震えを止めることが出来ない。
エドワードはベッドの中で手足を縮めて丸くなっていた。
耳元であの男、キンブリーが歯を剥き出して囁くんだ。
やっぱりお前は薄汚い淫売の娼婦だ。そうとわかっているくせに旦那に脚をひらくんだ。そして、お前は性欲に溺れて濡れるんだ。
そんな身体に宿る赤子は育つはずがない。お前が殺したようなものだ。
エドワードはその囁きから逃れるように両耳を塞いだ。
続く
無言。
人物設定に追加。アルフォンス様登場。
桜 美由紀 2007/3/29