愛すること、愛されること。(46)












すっきりと目覚めた。
こんな爽やかな気分で目蓋を開けたのは何時ぶりだろう。あの悲劇の日から言い知れない靄が頭に棲みついていた。
取り払おうと努力しても無理だった。
けれども今はすっきり晴れていた。
瞳を開けた先は逞しい胸があって、その胸板にゆっくりと手を這わせた。
その温もりを確かめるように頬を摺り寄せた。
すると頭上から優しげな低音が響いてきた。
「エド? 目が覚めたのかね。気分はどうだね?」
反射的に顔を上げると眉根を情けなく下げた眼差しとかち合って、エドワードは思わずふわりと柔らかく微笑んだ。
「うん、何だか……久しぶりに良く眠れた気がする」
心配げなロイの顔にも笑顔が戻った。
愛しい――この煌いた笑顔が欲しかった。
あれほどの深い溝が出来上がっていたようには想えない感じだ。
身体を求められることに拒絶していたエドワードもその身体を強引に犯してしまったロイも今は互いを慈しんで微笑んでいた。
もう二人の間に見えない壁はなくなっていた。
「本当によく眠っていたね」
裸の薄い肩を大きな手で守るように抱きしめられていた。
乱れた金髪を何度も優しく梳き解かしていて、その動きが気持ちよくてまた眠りの中に引き込まれそうだ。
瞼がゆっくりと閉じそうになるところをこめかみに優しい口付けをされた。
「身体が辛いだろうけど遅い朝食を一緒にしないかね?」
まだ微睡んでいたいところだが、その言葉で現実世界へと呼び戻された。
そう燦々と寝室を照らす太陽の位置は真上にいたのだ。
エドワードは慌てて跳ね起きようとしたが。
「ッ、痛ッ――」
声にならないほどの疼痛が全身に走った。ベッドから身を起こすのは無理そうだ。
エドワードは恨めしそうにロイの顔を見上げた。
その表情は屈託ない笑顔で笑って怒る天真爛漫なエドワードだ。
ロイの凍てついた冷血な心を溶かした彼が此処に戻ってきた。
必然的にロイの表情は何時になく緩和していた。
そんなエドワードは悪戯心に広い背中に回した手で彼を抓っていた。茶目っ気を発揮してくれる彼に益々ロイの心が和んでいく。
「イタッ、すまない…。無理をさせたことちゃんと反省しているよ。でも――少しだけ食事をしてからゆっくりと身体を休めよう」
ロイは眉根を思い切り下げおどけつつも、彼の身体を心底心配していた。
食が細くなってしまったエドワードの身体は痩せ細っていた。そうとわかっているのに強姦まがいな抱き方をしてしまったのだ。
それはばかりは言い尽くせないほどの反省を彼はしていた。
だから少しでも体力を回復させたいと思っている。以前の元気良く長い金髪をなびかせて飛び跳ねるエドワードの姿が懐かしくロイの瞳に映る。
直ぐには無理かもしれないがゆっくりと時間を掛けてすれ違っていた時間を埋めて行こうと、思っていた。
遠慮がちにエドワードに視線を向けていると意外にも前向きな声が返ってきた。
「うん、腹減ったかも…」
食に対しての欲求がこの半年ほどまったくなかった。
まるで生きていることを身体が拒否していたようだ。そんな彼だったが、初めて空腹という感覚を感じた。
凹んだ腹を撫でながらエドワードも不思議そうな顔をしていた。
「良かった! 一緒に食事をしよう。きっと今日のランチはとても美味しいだろう」
食欲という感覚が目覚めたことに戸惑っているエドワードにロイは熱い抱擁を繰り返した。
壊れやすい硝子の置物でも取り扱うように、ロイはゆっくりとエドワードの裸体を起こした。それから身体を労わるように用意した浴衣を羽織らせた。
彼が目覚める前にしっかり欲に濡れた身体は清めていた。
それに――手酷く抱いた天使の身体は想像以上に傷ついていたのだ。
それも含めてロイは丁寧に治療し、彼の身体を優しく抱きしめて眠っていた。
けれども藍染の浴衣を彼に着せ掛けるロイは照れ隠しするように少し顔を彼から背けていた。
「?」
「あの……すまん。目のやり場がないのだよ…」
そう言われ、漸くエドワードも素っ裸の自分の裸身に恥じらいを感じた。
慌てて身繕いしようとするが、疲弊した身体はうまく動いてくれず結局ロイの手を借りる羽目になった。
「あ、ごめん――。でも……この格好でいると女中頭が何ていうか」
ロイが用意した着物は部屋着だ。本当にこの寝室の中でだけ着ているような浴衣。
シンプルな藍色の生地に大柄の藤模様をあしらった浴衣。素肌に直接着ることが出来る上に開放的で風通しが良い。それに帯は簡単に結ぶことができる。
外見的には一般庶民が身に着けるものと変わりはない。けれどもその生地や柄には相当な金額が掛かっていると思われる。
これならば体調が悪い彼にも少しは良いだろうとロイが配慮してのこと。
いつも蒼白い病人みたいな顔をしている癖にしっかり着飾って帯を締めている姿が見ていて可哀想だった。
恐らくアームストロング夫人が厳しく身なりなど指導していたのだろう。
跡継ぎを宿すことが出来ないふたなりの奥方は邪魔でしかない。ならばマスタング家のお飾りとして綺麗に飾らねばならない。この屋敷を代々守ってきた彼女にしてみたらこうする他ないだろう。
それに対して素知らぬ振りをしていた自分が忌々しい。
「ほら身体が疲れているのに豪勢に盛装をする必要はないよ。ちょっと食事をしたらまた眠ると良い。だからこの方が良いよ。あの人が何か言ってきても気にすることはない。それに此処は君の家なのだから自由に振舞って良いのだよ」
金色の睫がロイの想いを知って素直に下がった。
もう片意地を張る必要はなくなっていた。ロイが求めるままに自分は傍にいれば良い。
決して自分を変えることなく――。
「うん、ありがとう」


*          *          *


「下ろせよ! 恥ずかしいから下ろせ!」
ハスキーな声がマスタング家の廊下に響いていた。
「歩けないだろう。大人しく私に抱かれていなさい!」
半強制的に言い放たれているが、それを命令している人物の表情はこの上なくにこやかに笑っていた。
ご満悦なのだ。
「もう…っ、こんなところ女中頭に見られたらすっごく怒られる!」
真っ赤になった顔でエドワードはぽかぽかと大きな背中を叩いていた。
エドワードはロイに半ば担がれるように屋敷の外に連れ出されようとしていたのだ。
そんな彼らの後を、含み笑いを隠せずに追ってきている使用人達。
主人の突然の変わりように始めは面食らっていた。この半年以上こんな光景を見ることはなかったのだ。
二人が仲睦まじく会話をしている姿はおろか二人でいるところを目にすることもなかった。
けれども今日はこうして痴話喧嘩までしているのだ。
私室の扉の前で恐々と使用人達は待機していた。
寝室で主人が夫人を手込めにしているようだと、使用人の一人が情報を伝えていたからだ。
精神的にも身体的にも弱っている夫人を不憫に思っていた。
この半年以上もの憤りを晴らすように夫人を痛ぶった主人の面妖は般若の面になっているに違いないと。
その巻き添えにならないようにお仕えしなければと身を引き締めていたが。
二人一緒に仲良く出てきたのだ。
エドワードは大柄の藤柄の浴衣姿。
元来、略装と言われているものだ。この格好で人に会うのは失礼とされる。けれども美しく染め上げられた藍色と金髪の髪が映えて神々しく清楚な淑女に見えた。
誰もエドワードの服装にケチをつけるものはいなかった。
うっとりと見蕩れていた。
いつもはお飾りの人形のように悲しそうな硝子玉の瞳は燦々と輝き。表情をなくしていた顔はほんのり上気して微笑んでいた。
それだけで重苦しかった屋敷の雰囲気に爽やかな風が再び舞い込んできたのだ。
「だ、旦那様! 庭園のテラスにお食事をご用意して宜しいのですか?」
こらこらと微笑みながらロイは疲弊した身体でじゃれた様に抵抗するエドワードを宥めていた。
こんな仲睦まじい二人を見るのは久しぶりだ。
そのロイの背中に向かって使用人が恐々と声を掛ければ、意外にも明るい声が返ってくる。
「あぁーそうしてくれたまえ。それと料理長にはなるべくエドワードの好物を用意するようにと。エド、君は何が食べたいんだ? 食べたい物を言いなさい。そうじゃないと牛乳が待っているよ! あれは健康に良いのだよ」
気さくな主人の姿に何度か瞬きする。
そして――その穏やかな笑顔にも。
「ヤダ! アンタも知ってて意地悪するんだから。許せねぇー!! 大体、歩けないのもアンタの所為だからな!」
懐かしい怒鳴り声に親しみを感じた。
使用人の誰もがエドワードの軽快な声音に度肝を抜かれた。
しかし、その反面胸にグッとくるものがあった。
あの事件からこの屋敷は暗い暗雲の中にいた。
嵐の日。
断末魔のような悲鳴が屋敷中に響いたあの日。
あれから――女中頭にどんなに嫌われていようとも気さくに使用人達と接し、にこりと笑っていたエドワードから微笑が消えた。
屋敷の旦那様を健気に愛しているエドワードの姿には誰もが癒されていた。その太陽のような微笑が途絶えてしまった。
火を消したように静まり返った屋敷。
当主はいつも機嫌が悪い。少しのミスも許さず即、切り捨てる。
当主の顔色を伺い仕事をする使用人達にとって此処は居心地の悪い屋敷であった。
どんなに迫害されようとも輝きを消さない。あの眩しい笑顔が懐かしい。
そして、自分達の浅はかな感情が彼を悲況に陥れたのも事実。
後悔ばかりが残ってしまう。
だが、漸く一筋の希望の光が照らし出されたのだ。
エドワードに笑顔が再び戻ってきたのだ。
それにつられるように冷血無比な当主にも人としての温かい血が戻ってきたようだ。
当主の朗らかな笑顔を眼にしたのは幾日ぶりだろう。
恐怖に慄いていた使用人達はこの変貌振りに、にわかに活気付いた。
「お、奥様。クリームシチューはどうでしょう? お好きでしょう!」
毎度手付かずで下げられる食器に悲しくなったものだ。けれども今日は食べてくれそうだ。
使用人達も口元を上げて彼らの会話に混ざってきていた。
心底嬉しいのだ。
マスタング家に光が戻ってきたと。
「……うん、シチュー食べる」
その声を聞けばロイが嬉しそうに彼の身体を愛しく抱きしめる。
本当にこんな時を過ごせるとは先日まで思ってもいなかった。
けれども取り戻すことができるのだ。
ロイの脚は軽やかに進んでいた。
が、そんな雰囲気を一掃する人物が待ち構えていた。
「一体、何事です!」
目くじらを立てて金切り声を上げるのはアームストロング夫人。
使用人達は彼女の出現に表情を曇らせ、身を縮め上げた。
助けを求めるように当主を見上げれば、意外にも彼の顔には血気はなかった。けれども抱き上げられているエドワードはギュッと当主の身体を抱きしめ返していた。
「あぁ…エドと一緒に庭園で食事をしようと思ってね」
悠々と応える当主。
いつもは売られた喧嘩は買うぞと、意気込んでいる様子がわかり肝を冷やしていた。
だが、今日はどうしたのやら…。
「どういう風の吹き回しでしょうか?」
「別に……? 貴女もご一緒にどうぞ」
当主の表情には笑みさえ浮かんでいる。逆に夫人の表情が険しいものになってくる。
いつものように夫人は粗探しを始めた。
そんな夫人の視線に周囲の使用人達は萎縮していた。それは――当主も同等だが……。
「お二人ともそのお召し物で外に行かれるのですか?」
エドワードは恐れていたことを指摘され身を縮めていたが、それを強要した当人も何時になくラフなガウン姿だ。
「勿論だよ。それが何か? 我が家だ。どう振舞おうと勝手だと思うがね」
おどけるようにロイは応対していた。
そんな彼を背中に這い蹲っているエドワードは新鮮に思えた。
「しかし――訪問客がございましたら…どうなさるのですか?」
「別に…。今日は誰も来ないよ。さぁー私はお腹が減ったから食事にしたいのだが…?」
食いつきようがなかった。
アームストロング夫人は忌々しく思いながらも当主に言い返すことが出来ない。
完璧に相手は毒気を抜いているのだ。そんな相手に歯を剥き出しにしても意味がない。
それでも自身と御家の対面は保たねばならない。
「わかりました。貴方達、早く旦那様達にお食事の準備をしなさい! 何をしているのですか! 急ぎなさい!」
ロイの口角はにやりと上がった。
それは――エドワードには見えぬ場所で。そして、使用達にもわからぬ場所で。
「さっ、エドワード、もうすぐランチの準備が出来るから庭園へ行こう。今日は天気も良くて外は気持ちが良いだろう」
ロイの弾んだ声にエドワードは張り詰めた緊張感を緩めた。
「うん…」





続く

どうだ!
これでどうだ!と、思いながら書いた編。
しかし――もう一つ問題が。「はい!」アルフォンス様ですね。只今、その辺で格闘中。

桜 美由紀 2007/7/8