愛すること、愛されること。(47)
広々と緑に溢れた庭園。
専属の庭師が丹念に手入れを繰り返してきた場所は自然をモチーフにされていた。
触れすぎず、それでいて綺麗に剪定された木々や植物。
絨毯のように柔らかい役目をしているのは芝生。その芝生にも丹念に人の手が加えられていた。
木々が午後の陽射しを程よい程度に遮った場所に真っ白なテラスは建てられていた。丹念に切り込みを入れられた木材が幾何学模様を描き、建てられた建築物は海外様式を多く取り入れ豪華さを増していた。
が、その反面静かな装いも忘れてはいない。
傍には水のせせらぎが奏でられ、水面に映る太陽がキラキラと反射していた。
心地よい風が肌に触れて開放的な環境が此処にはあった。
真っ白なテラスの中央に幾つかテーブルが用意され、それを囲むように椅子も配置されていた。
屋外で客人を接待する際にこの場所は良く使用され、訪れる客人の誰もが絶賛していく場所の一つでもあった。
ゆっくりと真っ白な壇上に上がり、用意されたベンチにロイは彼を下ろそうとしたが。
そこで彼は周囲で待機していた使用人に指示を出した。
「君、エドの為に柔らかいクッションを用意してくれたまえ。弱った身体で固い椅子に座らせるのは可哀想だ」
「えっ!? そんな気を遣わなくても良いよ。大丈夫だから…っ」
ロイに抱かれたまま此処まで連れ出されたエドワードは頬を赤らめて擦れた声を上げた。
遠慮したけれども心底身体はクタクタの状態。
正直こうして起きているのも辛い。
それでも無理しているのは、すれ違った時間を取り戻そうとするロイの気持ちに応える為。
人の厚意を素直に味わうことが出来ることが堪らなく新鮮だった。
卑屈な自分が今まで嫌だったから。
開かれた扉をゆっくりと前へと進んで行こうとしていた。
「辛くはないかね?」
柔らかなクッションが背中と尻に引かれた。
「うん、チョッとだけ…。それよりすっごく外の空気が気持ち良い……」
日がな一日、薄暗い書庫に閉じこもっていたエドワードだ。
久しぶりに清々しい陽気を浴びて眩しそうに空を見上げた。
こんなに世界は美しかったと――。
生白い左手を翳していたが、その琥珀の瞳は輝いていた。
テーブルの上には様々な料理が並べられていた。
それはどれも食が細くなったエドワードを気遣ったものばかりだ。
気持ちのこもった料理にエドワードは感嘆の声を上げた。
「美味しい……久しぶりだよ」
にこりと微笑んでエドワードは色取り取りの食材を少しずつ口に運んでいる。
そんな姿をロイは嬉しそうに料理を食べながら目を細めて見つめていた。こんな時間を共有することが出来るとは夢にも思っていなかった。
これから少しずつこんな穏やかな時間を過ごす機会を増やして行こうと…。
けれども張り切りすぎる彼の性格もロイは知っている。
「食べられるだけで良いよ。無理に食べて気分が悪くなってはいけない。ゆっくりで良いからね。それに食べ物は逃げたりしないよ」
エドワードが無理に笑顔を作っているのがバレたらしい。
確かにこの環境でのランチは心を湧かせた。それでも一端食が細くなってしまったエドワードの胃には納めきれない量であった。
エドワードは少し自嘲気味に笑い返して、持っていたホークを下ろした。
「うん、ご馳走様。オレ、お腹一杯になっちゃったよ」
「そうか…。少しずつ食べていく量を増やしていこうな」
「うん」
ロイは徐に立ち上がり、エドワードの横に座って彼の背を優しく撫で始めた。少しばかり食べ過ぎて胸焼けがして涙目になっていたからだ。
「大丈夫かね?」
「ケホッ、ちょっと食べ過ぎちゃったかな…」
咽る胸元を少し肌蹴させて大きく息を吸い込んだ。
ゆっくりと時間を掛けて食した物が血となり肉となっていく。
すると今度は満腹感に襲われる。エドワードの身体は急速に眠りを求め始めた。その身体はロイの身体に自然と寄り掛かっていた。こんなこと先日までは出来なかった。
エドワードの瞳が眠そうにとろんと潤み出している。
それをロイがクスッと笑って、彼の身体にそっとガウンを羽織らせた。
「エド、今度犬でも飼おうか?」
眠りそうな意識を必死に耐えてロイの声に耳を貸した。
「犬?」
長い金髪がそよ風に揺れていた。ロイは邪魔にならないように彼の耳に一房掛ける。
「そうだよ。君の気晴らしに良いと思ってね。――亡くした子供の代わりとはいかないが、可愛がってくれないかな…」
恐らくこの言葉を吐き出すのに多大な勇気が必要だっただろう。
だけど避けては通れぬ道である。
現実を受け入れなくてはならない。それはロイも――況してやエドワードもである。
徐に俯いたエドワードはロイの大きな手をギュッと握った。
「――うん。そうだね。女中頭から逃げる良い口実かもしれないな」
機転の利いた彼の返事にロイはにこやかに笑った。
「まぁ、その為に考えたことでもある」
「ロイ……ッ」
ロイの胸に額を押し付けていて彼の表情を伺うことは出来ない。けれどもその声が鼻に掛かっていることから、悲しみを耐えていることが容易にわかった。
グッと小刻みに震える背中を抱き寄せて軽く叩いてみる。
「ん? どうしたのだね…」
「オレの産んだ赤ちゃんのお墓ある?」
確かにあの子は産まれた。産声を上げずともこの世に生を受けた。それを噛みしめるようにしてエドワードは口にした。
「あるよ」
ロイは瞳を下げて静かに口を開いた。
するとエドワードは不意にロイの胸から顔を上げた。
彼の顔は泣きながら笑っていた。
それをロイにしっかりと見せてはっきりと告げたのだ。
「ちゃんとお別れ言わなくちゃな。ロイ、今度連れて行ってくれよ」
「わかった。エドワード、一緒に行こう。あの子も喜ぶはずだ」
ロイは瞑目し、エドワードの小刻みに震える身体をきつく抱きしめた。
その背にしがみ付く様に両腕が縋りついてきた。両腕の力は悲しみに暮れたものではない。
苦渋から解き放たれ、新たな一歩を踏み出すための力。
乗り越えられる――そう初めて二人は思えた。
* * *
「此処だ! この屋敷がロイ・マスタング邸。絶対に兄さんがいるはずだ」
アルフォンスはマスタング邸の広大な門の前に立っていた。
盛大に催されたキング・ブラットレイ邸での社交パーティーに出席して以来。
アルフォンスの兄に対する想いは日増しに強くなっていた。
その思いの強さは直接ロイに会って、兄の身柄を返してもらおうと思うまでになっていたのだ。
弟の浅はかな思慕。
この強大な富と権力を併せ持つロイ・マスタングから兄を争奪する事など出来る筈がない。
それでも――アルフォンスは何かせずにはいられなかったのだ。
アルフォンスの頭にはロイにかどわかされ、屋敷に連れて来られた兄の姿が目に浮かんでいた。
下賎の出自を疎まれ、周囲から手酷い仕打ちにあっているに違いない。
売春宿でのことを蔑まれ、夫に性奴隷的扱いを受けて被虐的な涙を流す兄の悲しい後姿。
そんな哀れな兄の姿ばかりがアルフォンスの夢に出てくるのだ。
門扉を開く彼の手に力が込められた。
精肉業界で有名であるカーティス家の名をアルフォンスは存分に利用した。
すると使用人達はすんなりとアルフォンスを客間に案内した。
養父母達の偉大さに感謝せずにはいられない。そして――こんな時、家柄が己の全てを語るという事実に悲しく思った。
「兄さんは……辛い目にあっているだろうな…」
膝頭に置いていた両手に力が入る。
広大かつ絢爛豪華な客間に一人待たされているアルフォンスは居心地が悪かった。
我が家の装飾も贅を尽くした一級品ばかりだが、それとは比べ物にならない位このマスタング邸の素晴らしさに度肝を抜かされた。
待たされている時間をアルフォンスは瞳を輝かせて様々なものに魅入っていた。
尚のこと兄をこの場から解放しなければならないという想いは強くなる。
「こんな所から兄さんを早く助け出さなくちゃ。お義父さんとお義母さんならきっと兄さんのことも歓迎してくれるはずだ…」
やはりこの突拍子のない行動はアルフォンスの独断のようだ。
漸く、客間の扉が開くとそこから一人の女性がやって来た。
アルフォンスは徐に立ち上がり、女性と挨拶を交わした。
「私、このマスタング家の諸事を任されております。アームストロングと申します。これはこれはカーティス家のご子息様。お噂はかねがね聞いております」
アルフォンスの来訪を夫人は快く歓迎していた。
「始めましてアームストロング夫人…」
面映い顔つきで夫人と対峙する。
彼は夫人に気づかれないように扉の方を見やったが、どうやら肝心の当主は此処へ来る様子はないようだ。
そうだろう。
まだ家督も継いでいない年端もいかない少年と会談する言われはないだろう。
代理人で充分だということだ。
当主からおざなりな扱いを受ける客人だが、夫人の機嫌は良かった。
何故ならアルフォンスの社交界での噂は良いものばかり。
子宝に恵まれなかったカーティス夫妻が数年前養子を迎えた。
その子は容姿端麗にして神童であると社交界でもっぱらの噂なのだ。
カーティス家と精肉業界を背負って立つ青年として将来を有望視され、素晴らしい後継者を儲けた夫妻は素晴らしい眼力の持ち主だと一目おかれていた。
その彼が当主を訪ねて来たのだ。
何の用向きかわからずとも商売的に重要なパイプラインを引くには絶好の機会である。
一方的に夫人はアルフォンスを誉めちぎっていた。
「そんなに誉められても…たまたま僕は勉学が好きなだけですよ。それに養父母がとても良くしてくれますしね。僕の知識などマスタング氏に及びもしませんよ」
良家のお坊ちゃまは口も上手である。
「まぁ…そのようにご謙遜なさらずとも良いではありませんか」
気難しいと有名なアームストロング夫人の口元が微かに笑っていた。
好印象である。
夫人次第で当主との取次ぎが決まるという噂があった。
この機に乗じてアルフォンスは本題に入ることにした。
「ところでマスタング氏はご在宅では? 会社の方にご連絡させて頂いたのですが…。お屋敷の方にいらっしゃると聞きましたが」
すると夫人は少し声を詰まらせた。
「少々所用で遅れております。貴方様の御来訪を喜んでおりました。お急ぎでしたら私がご用件を伝えておきますが…」
どうやら当主は此処に来そうにないようだ。
アルフォンスは夫人の口ぶりでそれを悟った。それを言及してもこの夫人は口を割らないだろう。
それは覚悟の上。目的は別の所にあるのだ。
「そうですか。ならば奥様にお会いしたいのですが…。義母より預かってきたものがありまして、直接お渡ししたいのです」
と、初めてマスタング家の女主人の存在をちらつかせた。
すると忽ち夫人の顔つきが峻厳なものに変わった。
それまで和やかだった室内の空気が刺すような冷たい物に変化した。
「申し訳ございません。只今外出しておりまして。私が代わって御預かり致します」
まるで女主人の存在自体を疎ましく思っているようだ。
それは夫人の冷たい言葉の端口に出ていた。
どうやらこの屋敷の中では女主人の名は好ましく思われていないようだ。
手の平を返したような夫人の態度でそれは良くわかった。
「あの……エドワード様はどちらかご旅行でも行かれているのですか?」
更に夫人の機嫌は悪くなっていく。そうとわかっていて態とエドワードの名を出した。
これは計略の一つ。
「えぇぇ、そんなところです」
歯切れの悪い返答と強張っていく顔つき。
奥様と呼ばず、アルフォンスは“エドワード”と固有名詞を出したのだ。
けれどもこれに対して夫人は否定しなかった。
と、いうことはやはりこの屋敷に自分の兄は囲われていると断言できる。
それだけの情報が得られただけでも充分の成果があったと言えるだろう。
だが、案の定――夫人からはすっかり嫌われた。
その後、アルフォンスは夫人にうまく言いくるめられて退出を余儀なくされた。
重厚な音は屋敷から排除された手厳しい音調。
マスタング邸の玄関はアルフォンスを招かれざる客と判断して固く閉じられた。
広大な屋敷の外にぽつりと追い出されたアルフォンスだった。
しかし、アルフォンスは圧倒的圧力を無言で発するマスタング邸の外観を睨み上げた。
「絶対に兄さんはこの屋敷のどこかにいる! 一目だけでも兄さんの姿を…っ」
苦虫を噛んだ顔つきでアルフォンスは左右を見渡した。
幸いにも玄関先から門扉までの道のりに使用人はいないようだ。
アルフォンスはマスタング家の広大な庭園をこっそり探索することにした。
きょろきょろと辺りを確認してこっそりと高い垣根の下を掻い潜ると、それまで観たことがない庭園が視界に広がった。
だが、素晴らしいと絶賛される庭園を悠長に眺める暇はない。彼の目的はただ一つ。
その庭先から屋敷の窓辺をくまなく見上げることだ。
万に一つでも窓辺に映る兄の姿が見たかったのだ。
そう無事な姿を確認したかった。
* * *
「旦那様、アームストロング夫人がお呼びでございます」
微睡む子供をあやす様にエドワードを抱きしめているロイの元に、声を潜めて執事のファルマンがロイの耳元に用件を伝えにやって来た。
いつもならば眉間に皺を寄せてしまうところだが、ロイの表情は穏やかだった。
うつらうつらと瞼が下がるエドワードの安らかな面立ちが刺々しい感情を癒してくれるのだ。
「エド……もう寝室に戻るかね?」
眠りを妨げないように耳元で囁いてみると。
「んッ――もうちょっと此処にいる。此処、風がすっごく気持ち良いから……」
眠気眼を擦ってエドワードは閉じようとする瞼を押し上げようと必死だ。
無理に疲弊困憊する身体を起こしていたが、今にも横に倒れそうだ。そんなふわふわと揺れているエドワードを見ているとロイの口元に笑みが浮かんでくる。
それは傍に付き添っていたファルマンも一緒であった。
「旦那様、私が奥様のお傍におります。その間に用事をお済まし下さいませ」
ロイは揺れる身体を抱きとめてそっとエドワードの身体をベンチに寝かせつけた。柔らかなクッションを先程まで枕代わりにしていたロイの胸の代わりに敷いた。
一応身体が痛まないようにと最善の配慮をしたつもりだ。
「すまんが…私が戻ってくるまで傍に付いてやってくれ…」
にこやかに微笑んで後ろ髪を引かれる思いで背中を向けたかと思うと、くるりと振り返って厳しい形相をファルマンに見せた。
「――何かあったらすぐに私を呼んでくれたまえ」
念を押した鋭利な態度はすぐに柔らかな物腰に変わったが、エドワードを二度と危ない目に合わせたくない想いが強く出ていた。
「かしこまりました」
ロイはエドワードが仮初の枕の状態を無意識に確かめている姿を見つめながら、屋敷の室内に入って行った。
開放的な空間に漂う風がエドワードを優しく撫でていた。
そよ風はエドワードに悪戯を仕掛けていく。ふわりと舞う金糸の髪を揺り動かし、柔らかそうな頬を擽っていくのだ。
エドワードは瞼を瞬かせてゆっくりと琥珀色の瞳を現した。
「――んっ…」
片手を突き、重い身体を起こした。
ほんの束の間の睡眠でエドワードの疲弊した身体が回復するわけはない。
それ以上に中途半端な眠りはエドワードの体調を左右してしまう。
ぐらつく視界に目眩を感じると、同時に胃から込み上げてくるものが。
胸元を押さえ、右腕を突いて瞑目していると執事のファルマンがまごつく姿が目に入った。
「奥様!? ご気分が悪いのでしょう?」
心配を掛けまいと笑顔を作って見るが、どうやら余計に心配されたようだ。
「……うん、ちょっと気持ち悪いだけだよ。食べ過ぎちゃったみたいだ――」
暫く、おろおろしていたファルマンだったが、エドワードの背を優しく撫で始めた。
どうやらエドワードの身体に触れることに躊躇いを感じていたようだ。
ファルマンはエドワードが主人以外の男に身体を触れられることを拒否するのではと思っていたのだ。
あれほどの惨劇に見舞われたのだ。
トラウマになっても仕方がない。
けれども杞憂に過ぎなかったようだ。優しい腕には悪意は感じない。
エドワードはファルマンの癒しの腕に身体を任せていた。
「冷たいお水をお持ちしましょうか」
心配げに顔を覗き込んでくるファルマンには申し訳ないが、笑いが出てしまう。
滅多に拝むことが出来ない顔つきを見るのは本当に何ヶ月ぶりだろうと――。
緩やかに時が流れ始めていることに実感が湧いてきた。
エドワードは素直に頷いた。
「うん…」
パタパタと走っていく後姿を虚ろな瞳でぼんやりと眺めていた。
そして――抜けるような青空を見上げて大きな吐息を一つ。
「マジでちゃんと食べれるようにしよう。こんなんじゃダメだよな」
自嘲気味に笑って背中をベンチに預けた。その拍子にロイのガウンがするりと芝生に落ちてしまった。
「あっ、落ちちゃったよ。折角、ロイが掛けてくれたのに。ヨイショ…と」
なかなか思うように動かない身体でやっとのことで拾い上げた。
それから――何気に正面を見た。
さらりと視界を妨げるように金髪の長い前髪が下りてきた。その髪を耳に掛けて視野を広げた。
そこには懐かしい顔。
小麦色の髪。
琥珀色のアーモンドのような瞳。
その顔は母親の面影が今も残っていて……。
会いたくても会ってはいけない。
それがお互いの為だと信じていた。
拾い上げていたガウンがするりとエドワードの手から落ちていく。
続く
アルフォンス様、登場!
さあさあーどうなるっ。
てか…その後「愛、愛 50話」まで○秘の場所で更新しているのですが、続きがぁーーー!
どうしましょう。只今スランプ中。
桜 美由紀 2007/8/1