愛すること、愛されること。(48)
アルフォンスの視線は屋敷の窓辺をくまなく見続けていた。
広大な屋敷に窓は幾数もあったが、少しも苦にならなかった。
彼は探しているのだ。
金髪の長い髪が風に吹かれて舞い上がり、慌ててその綺麗な髪を押さえつけて吊り上った金目を丸く開いて無邪気な微笑を幼い僕にいつも向けてくれた人。
その笑顔のおかげでどんな貧困な生活にも耐えることができた。
だから――あの笑顔が失われてないことを祈ろう。
今も燦々と輝いていることを祈ろう。
カーティス家の養子となってそれまでの生活が激変した。
富と栄誉が後継者となるアルフォンスの幼い両肩に圧し掛かってきた。そんな屈強に必ず兄の幻影は現れた。
にっこりと薄紅色に染めた頬肉を隆起させた極上の微笑でアルフォンスを窮地から救った。
僕はこの笑顔と共に過ごしてきた。
そして――その潤んだ口唇からはいつも溌剌とした声が……。
「アル〜」
と、自分の名と澄んだ声音が耳元に届いていた。
どんな貧困でもそれだけで救われていた。それで満足していた。だからこそかの人の幸せを願った。
それなのに――。
僕の目の前にいる人は誰?
アルフォンスは喉を絞り上げて声を出した。
「…に、兄さん?」
* * *
はらりと落ちたガウンを緩慢な動きで拾い上げて、エドワードは顔を上げた。
忘れるはずもない――。
逢いたくて逢ってはならない弟の姿。
別離して数年の時が流れていた。
それでも愛する弟の容姿は忘れるはずもなかった。
琥珀色の瞳を溢れんばかりに広げて、実弟の姿を初めはぼんやりと見ていた。
だが、時が止まったように乾いた双眸がじわりと潤みだし、成長したアルフォンスの姿がエドワードの感涙した瞳に映し出された。
それと同時にエドワードの胸に過去の記憶が走馬灯のように駆け巡った。
湧き上がる想いが去来し、エドワードの胸の鼓動は高鳴った。
小麦色の清澄な記憶。母親との懐かしく温かい穏やかな日々。
それから――まだ幼く未来ある人生を真逆さまに堕ちた。暗く汚濁した記憶。
エドワードはアルフォンスの出現に戸惑い、上擦りそうな声を戦慄く両手で口元を押さえた。
ぶるりと背筋が震え、嫌な汗を掻いた。それは後者のことを想い出してのこと。
思い出したくない記憶ほど、鮮明に記憶されている。
それ以上に己の浅はかな考えが、こうも人生を左右していることに酷く羞恥心を感じた。
もっと――選択肢はなかったのだろうかと。
己の身を他人に売却するという穢れた手段ではなく、明瞭な手立てがあったはずなのだ。
こればかりは悔いても仕方がない。その所為でロイとの間柄にも歪が出来たのだ。
漸く長い月日を隔てて、心の平穏を取り戻そうと一歩前進したばかりなのだ。
けれども何も知らないアルフォンスにまで、その責めを負わせる訳にはいかない。
彼の今が幸せならば――そのままそっとしておくべきだと……。
エドワードの戦慄いた口唇から咄嗟に出た言葉はアルフォンスには信じがたいものだった。
「――し、知らないっ。知らない」
ガタリと大きな音を鳴らして、エドワードは立ち上がった。
が、その身体は昨晩の強姦まがいの行為でふらつき転がった。
足腰がうまく動かないエドワードは只、只その場から逃げ出したい気持ちを逸らせた。
後退さる兄の姿にアルフォンスの幻は消えた。
眼前で震えている人は誰?
資産家のマスタング家には似つかわしくないおざなりな浴衣に身を包んだ彼。
その浴衣は胸元を緩く肌蹴て、肌理細やかな肌が露出していた。それだけならばまだしも、艶かしい薄肌には――粗暴な証が赤裸々に乱れていた。
精彩な兄を想像していたが、その動作は予期していなかったものばかり……。
砕けるように落ちた足腰は立ち上がることが出来ないようだ。
咄嗟のことで肌蹴た浴衣の裾から目を覆わんばかりの傷跡がアルフォンスの凝視した双眸に映し出された。
アルフォンスは奥歯を噛みしめ、とっさに顔を顰めてしまった。
それでも苦笑をどうにか繕って、アルフォンスは戦慄く兄に手を差し伸べた。
再会を喜び合う気持ちはとうに消えていた。
アルフォンスに去来した想いは――兄をこの場から連れ出すこと。
只、一つだった。
非道な生活を強いられている兄を助け出すことで精一杯だった。こんな姿を見たら誰しもがそう思うだろう。
とても裕福で幸せな生活を送っているとは到底思えない兄の変貌振りだ。
「さあ……兄さん、此処から出よう。こんな所にいたらダメだ!」
けれどもエドワードは弱弱しく首を左右に振った。
「し、知らない――お前なんて知らないっ」
否定の声を上げているが、大きな琥珀色の瞳はアルフォンスを映し出して止まない。
立派に成長した弟の姿は輝かしく、誉に思う。
もっとじっくりと見ていたかった。
積年の想いを二人で語りたかった。けれども――それは出来ない。
芝生をギュッと握りしめてエドワードは彼の懐旧な瞳から逃れた。
「どうして!? 兄さん、僕だよ。アルフォンスだよ!」
此処で首を立てに振れば、アルフォンスの輝かしい未来に汚点を残してしまう。
絶対に頷くわけにはいかない。
マスタング邸にこうして出入りを許可されていることで彼の現状がわかるエドワードだ。
否定するしかない。
そんな兄の想いを知る術もなくアルフォンスは仰け反る兄のか弱い腕を引っ張った。
「手を離したまえ!」
鋭利で肉太い声音がその場の空気を一瞬にして変えた。
ある一点しか眼に入ってなかったアルフォンスの両肩が衝撃に震えた。
そうなのだ。自分はこの場にいてはならない人間なのだ。けれども謝罪する気もこの場から離れる気も毛頭なかった。
それは――この薄弱に傷ついた兄の姿を目の前にして尚のこと。
握りしめた腕は華奢な作りで今にも手折れてしまいそうだ。その上、薄っすらと両手首には青痣が見えていた。
アルフォンスの胸には禍々しい想いが行きかい、くるりと静かな動作で声の主に振り返った。
その金目は瞋恚に燃えていた。
片や対極の立場にあるロイの眼光も鋭く、今にも射殺してしまいそうだ。
静かに彼の肩横を通り過ぎていくが、その眼は冷酷に睥睨していた。アルフォンスとて負けずにロイを睨み上げていた。
ロイが政財界でも一二を争う地位にいることを知っての荒行である。
ずるずると身体を引きずり起き上がろうとするエドワードの傍に跪き、ロイは優しく腕を差し伸べる。
アルフォンスに見せたような非道な顔つきは此処にはない。
愁眉な顔で覗き込むロイにエドワードは少しばかり後ろめたい気持ちになる。
彼にも実弟がいることは伝えていなかったからだ。
そして――身体を売る羽目になった理由も話していない。
「すまなかった。一人にして、さぁ……部屋に戻ろう」
その姿を凍えるような鋭利な金目が睨みつけていた。
ロイの肩口からアルフォンスの狂気に駆られた表情がエドワードの背けた瞳に飛び込んでくる。
気が咎められるが、仕方がなかった。
将来あるアルフォンスのことを思えばこそのエドワードの非情な態度だ。
エドワードは濡れた睫毛を閉じて大きな胸に顔を伏せた。
逢いたくても逢えなかったアルフォンスの成長した姿をこれ以上見ていられなかった。言葉に出来ない想いがふとした拍子に零れてしまう。
逢いたかったと――。
グッと口唇を一文字に引いて嗚咽を堪えるだけで精一杯。
ロイの顔つきはエドワードの濡れた瞳の所為で益々面妖なものに変わっていく。彼の薄い肩に思わず力を込めてしまう。
またしても彼を窮地に追いやってしまったのかと思うと、つくづく自分が不甲斐なく感じてしまう。
「引き取ってもらおう!」
怒号が吐き出され、峻厳な顔つきでファルマンがアルフォンスの身体を拘束しようとした。
だが、その強靭な力を物ともせずアルフォンスは振り払った。
仁王立ちになってロイ達の前に君臨し、険しい声を上げた。
「退きません! 僕はその人を連れ戻しに来た。それに――その権限を僕は持っている!」
抱かれているエドワードはか弱く首を横に振った。実弟を傷つけることになる事はわかっていた。けれども小さな悲鳴を上げていた。
それがアルフォンスの為だと信じて……。
「知らない。知らない。オレはそんな人知らない――っ」
此処まで青年を強く否定することにロイは眉を顰め、顔を隠し続けるエドワードを見た。
エドワードの過去は全て背負うと誓っている。昔の顧客の一人が現れたとしても動揺はしない。しかし、それとは違った思惑が隠されているように感じた。
けれども今のエドワードに詰め寄ることは出来ない。それに体調も芳しくない彼をこの場に居合わせるのは賢明ではないとロイは判断した。
「ファルマン、妻を寝室へ!」
顎をしゃくり上げて指示し、慎重にエドワードの戦慄く身体をファルマンの両腕に手渡した。
それを良しとしないアルフォンスは続けて喚き出した。
「こんな屋敷に居たら殺されるよ。早く僕と一緒に此処から出よう!」
必死の叫びはエドワードに嫌というほど伝わっていた。だからこそ両手で耳を塞いだ。
その所為で懐かしい声色を褒める事も出来ない。
こんな不条理な状況を作り出したのは、身体を卑しい男達に売った愚かな過去の自分。
二度と過ちを犯さない為にも頷いてはいけない。アルフォンスには過去の自分を背負うには若すぎる。
――艱難辛苦を乗り越えることは到底出来ない。
それに――しなくて良い。
濡れて重くなった睫毛を伏せ、両耳を閉じてエドワードは寝室へと運ばれて行った。
その背後で「兄さん!」と咆哮が繰り返されていた。
続く
再開!
だけどねぇーそううまくことは運ばないんだよ。
暫く、心の葛藤が続くけど――そろそろ終劇なんだけどね。最後のあがきみたいなもん。
桜 美由紀 2007/8/26