愛すること、愛されること。(49)












残された二人。
年端もいかない青年と熟知した大人。
絶対的に優位な立場にあるのは、ロイなのだが……アルフォンスの真摯な風格は鬼神にも勝るものだった。
若輩者の青年を此処まで掻き立てるものは何なのだ。
互いの双眸は睨み合っていた。
緊迫した空気が庭園の木々をざわめかせた。
「兄さん? だと……」
眉間に皺を深く刻み、ロイは目の前の青年を凝視した。
「そうだ!! 僕の兄さんだ。それを……満身創痍じゃないか。何て酷いこと」
真なる真実を知らない者にとやかく言われる筋合いはない。ロイの片眉は不愉快に吊り上った。
「聞き捨てならん。確か、君はカーティス家の子息だったね」
奥歯をギリッと噛み、ロイは低い声を苦々しく絞り上げた。
眼前の男の一言で実業家の未来が左右される。
ロイはその圧倒的な権力を持つ賢人の一人だ。
聡いアルフォンスだ。
けれども――。
自分の言動がカーティス家に多大な損害を与えるだろうと、知っていて強大な虎に向かって、アルフォンは歯を剥いた。
許せなかったのだ。
抑えられない想いは爆発してしまった。
「兄さんの身体が目的だったんでしょう。ならばもう充分でしょう。返して下さい! 解放してやって下さい」
卑しい言葉は早口になってしまう。何だか、兄を穢してしまいそうで嫌だったから。
惨めで憐れな生活を強いられていても兄の輝きは失われなかった。そんな兄を愚弄した言い方はしたくない。
我妻と酷似した琥珀色の瞳はロイを向かって必死に懇願していた。
言いたい放題な物言いにロイの気分は最悪だ。何しろ正しいことは何一つないのだから。
それより確かめねばならない。
真摯な瞳の訳を――。
実のところ、エドワードの過去について何一つ知らなかったのだ。
どういう経緯で身体を売ることになったかも……。ロイにはどうでも良いことだった。出遭った時のエドワードを愛してしまったから。幼い娼婦に心が惹かれてしまった。
あの――薄汚い路上で本を読み漁っている彼に惹かれた。
それが始まり。
「私の妻に弟がいるという話は初耳なのだがね。妻の過去をネタに脅してくる者は後を絶たない。今回は、また新しいネタを持ってきたものだ」
ロイの険しい表情から疑いの文字は消えない。
それにもまして嘲笑した物言いは相手の癇に障るものばかりだ。
尻尾を出してみろと、鋭い眼光が見定めている。
「嘘なんかじゃない! 兄さんは……」
アルフォンスの瞳が急に悲壮な色に変わった。
「僕の為に――身体を売ったんだ。僕を養子に出すために…あんな奴らにキンブリーに身体を売らなくちゃいけなかったんだ。自分のことを犠牲にしてまで僕の将来を幼い身で案じてくれたんだ…」
アルフォンスの口からキンブリーの名が飛び出した。
ロイの脳裏に思わず惨劇の日が蘇ってくる。
組んでいた両腕に指が食い込んでいく。ふっと視線を戻せば苦々しく口を開いているアルフォンスの容貌。
背けられた瞳の色はアルフォンス自身を責めていた。
その表情にエドワードの面影が重なる。先日までこんな表情を良く目にして、顔を背けていたものだ。
「――私はエドの身体が目的で妻にした覚えはない」
思わずロイの口から言葉が満ちてきた。
「えッ?」
先程までの尖った声音は消えていた。
「子供も産まれる予定だった」
毒々しい瞳で睨んでいた琥珀色は丸く大きく開いてロイを見上げた。
「? そんな――兄さんの身体は子供が産める身体ではなかったと…」
エドワードの身体が雌雄両性体であることを知っているようだ。
妊娠していたという事実にアルフォンスは驚きを隠せない。
「本当に稀なことでね。私は――」
ロイは声を詰まらせたが、ゆっくりと重い口唇は開いた。
「愛する人が我が子を産んでくれる喜びと後継者に恵まれたことに喜んだよ。何もかもが薔薇色に見えた……」
何故初対面に近い青年に懺悔にも等しい話をしているのだろう。
それでもロイの口は閉じることはなかった。
ぽつりぽつりと言葉は漏れ出していた。
エドワードが実弟の為にと、自分の穢れた素性を恥じて隠そうとしていることにロイは気づいた。
アルフォンスとは縁も縁もない者。それは彼の有望な将来を案じればこその想い。
痛いほどエドワードの気持ちがロイの胸に流れ込んでくる。
だからこそ詫びなければならない気がしたのだ。
「それなのにどうして!?」
上目遣いにアルフォンスがロイに聞き返せば、鋭い眼光は消え失せて瞳をそっと逸らしていた。
真実を彼に告げなければならない。
「――キンブリーを覚えているかね」
こくりと頷いた。
忘れるはずもない。あの男の容貌と危険な匂いだけは幼いアルフォンスにも深く刻まれていた。
爬虫類を思わせる瞳が兄と自分を舐め回すように吟味していた。
嫌らしく二股に別れた舌がちろちろと上唇を舐めていた。
危険な男だと直感した。
それと同時に細く伸びた瞳孔が兄を捕らえていることを幼心に気づいていた。
そして――ほっとしている自分がいたことにも気づいていた。
「奴の所為で死産したのだよ。その所為で此処半年ばかり体調が芳しくない」
伏目がちな黒い瞳は惨劇を思い出して、暗く沈んでいた。
アルフォンスは息を呑んだ。
非人情的な男と名高い彼の落ちた両肩は悲壮感に満ちていた。素っ気ない物言いがことさら情を掻き立てる効果を出していた。
それだけで悲惨な過去の情景が映し出された。
アルフォンスは言葉が見つからなくなってしまった。
初めの勢いはどこへやらアルフォンスは真実を見極めるために声を振り絞った。
「本当のことなんですか…。兄さんの稀少な身体が目的ではないと…」
ロイの悲嘆に暮れた瞳はかっと開かれ、円らな青年の琥珀色とぶつかった。
「勿論だよ。もう……子供を授かることが出来ないだろうと言われた。そんなこと私には関係がなかった。彼が傍にいてくれるだけで良いのだよ」
二人の間柄は社交界では様々な憶測が飛び交っていた。
どれも二人を揶揄した非道な話ばかりだ。
艶かしい肢体と慣れた性技で男を虜にし、財産を乗っ取ろうと企てる悪女。もしくは、男の庇護欲を駆り立て、その肉体を抱けば離し難い絶頂を与えてしまう妖女。
その身体を手に入れるために道楽者のロイが大金を叩いたと……。
本人がその噂を耳にしていたら即名誉棄損で告訴しそうな代物ばかりだ。
しかし、年端の行かないアルフォンスに真実を語るロイの瞳は濁ってはいなかった。
「エドが私の傍で笑っているだけで――どれだけ私は救われているのだろうと」
ロイの固い頬から柔らかな笑みがふっと漏れた。
温かく、穏やかな微笑。眼光厳しい男の表情には似つかわしくない。
瞳が揺れる。
水面に浮かぶように揺らめき、じわりと駆けた想いを露にしたくなくてアルフォンスは俯いた。
真実は違っていたようだ。
確かに兄はこの男に全てを委ねるように抱かれていた。
見たくはなくても怒れる瞳に飛び込んできた勝手な情景。
忘れられなかった。
ぎゅっと――ロイを抱き返す細長い両腕。
安息の地に額と頬を押し付ける姿。
潤んだ蜂蜜色の懐かしい瞳には自分の姿は映し出されていない。
悔しくも、兄を買い取った男の姿が浮かんでいた。
今思えば、どれも強制的に強いられている行為には見えなかった。
ロイの微笑が羨ましく思えた。
僕にあの笑顔を見せて欲しかった。
ぽたりと熱いものが流れていた。ぽつぽつとそれは青々と茂った芝生に吸い込まれていた。
ぐっと握っていた拳の甲で流れ出す根源を押さえつけても、止まらない。
後から後からと流れ出す泪。
幼い子供のようにしゃくり上げてしまう。
「兄さん…っ」
声音を震わせて小さく叫んでも懐かしい鈴音は返ってこない。どうしようなくアルフォンスは立ち尽くしてしまった。
まるで兄と別れた幼い日を思い出す。
ぽつんと夕焼けを見ていた。夕日影を背に弾けんばかりの笑顔があった。琥珀色の髪が眩しくて、瞳を凝らして慣れた面影を茫然と見ていた。
大きな影が背後から僕の幼い右腕をやんわりと掴んで先を促していた。けれども僕の両脚は地に根が生えたように動こうとはしなかった。
幼心に兄との離別を意味していることがわかったのだろう。
離れることを嫌がる僕に向かって尚も兄は笑っていた。
哀しそうに微笑んでいた。
僕と大して変わらない子供が小首を少し横に傾げて切なく笑うんだ。
だから――僕はあの時もこうして兄さんを呼んだ。
どっぷりと暗い夕暮れに包まれていると、悲嘆に震える肩をぽんと叩かれた。
はっと我に返って見上げると、ロイの苦笑した表情。
けれどもアルフォンスは恥ずかしさに赤面し、目元を擦って顔を背けた。
すると形良く整った眉根を下げた顔が近づいた。
「今日のところは帰りたまえ。後日、屋敷に来ると良い……」
声の調子は激昂していた時とは雲泥の差だ。そんな声色などを判別している場合ではない。
重要なことが語られたのだ。
「エッ?」
意外な言葉にロイを見返すと、彼はアルフォンスの肩横を流暢な動作ですり抜けていた。
風が颯爽と流れた。
「エドを説得しよう。彼も君に逢いたいに違いないはずだからな……」
破顔したアルフォンスはくるりと振り返った。
もう彼の大きな背中しか追うことは出来なかったが、あの屈強な男が自分のことをエドワードの弟であると認めてくれたのだ。
アルフォンスの心は歓喜に湧いた。
一つ前進したのである。
兄と抱き合える日は近い――。




続く

もう〜10月ですね。は、早い――日記を書く気力がなく……更新を先にと頑張りましたです。
約一ヶ月ぶりの更新です。
話は佳境。なのに最終話が進まない――。
52話で完結しそうだけどね。

桜 美由紀 2007/9/30