愛すること、愛されること。(50)
苦い顔つきで屋敷に戻ると、ファルマンが私室の前で待機していた。
彼もまた重い表情をしていた。
やっと屋敷の奥方が元気を取り戻そうとしている矢先を狙われたのだ。
この屋敷で長いこと執事を任されているファルマンだ。こんな不始末二度と起こしてはならないと、キンブリーの事件で身に染みていたはずなのに……。
ファルマンは居た堪れない様子で主人を従順に待っていた。
彼を包み込む空気でロイは彼の心情を知り、上背が高い身体を小さく折り曲げている彼を気遣ってロイの声色は柔らかかった。
「ファルマン、エドワードの様子は?」
長年、主人に仕えてきた彼には主人の声色だけで全てがわかる。
ファルマンは咄嗟に顔を上げて主人の問いに精一杯答える。
「寝室でお休みになっておられます。少しばかり体調が芳しくないようでして…やはり精神的にダメージを受けられたようです」
直ぐにでも私室に入りたいところをロイは足を止めて、執事の言葉に耳を貸していた。
主人が使用人に気を使うなど、滅多にない。
仕事絡みならまだしも、プライベートではほぼないと言って良いだろう。
しかし例外はある。
それは妻、エドワードが絡むとロイの冷たい仮面は外される。
「そうか…。ヒューズを呼んだのか?」
双方を思いやるような優しい声音にファルマンは主人の心の広さを感じる。
だが――。
「いえ、そこまでは……」
彼の表情は強張っていた。
ちらりとファルマンが視線を横に逸らすと、そこには般若の面を被ったアームストロング夫人の姿。
アルフォンスの突然の来訪と、この騒ぎに夫人の怒りは爆発寸前なのだ。
「ヒューズ様をお呼びする必要はございません。どうせいつもの仮病でございますよ。どうしてこうもトラブルを呼んで来られるのでしょうか。あの方は――」
夫人がエドワードを弄る言い方には常に尖った棘がある。
だからこそ内密にことを済ませたかったのだ。
しかし、切れ者の夫人には敵わなかった。
そして、エドワードの下賎な出自を蒸し返されることになる。
ファルマンは肩を怒らせている夫人と顔を突き合わせている主人の狭間で落ち着きなく視線を交互に泳がせていた。
またもや身も凍るような口論が勃発するかと思うと、逃避したくなる。
冷たい汗を掻きながら主人に視線を移すと、案外落ち着いた面持ちの口から声が上がった。
「うむ…そうだな――」
ロイの歯切れのない声が、逆に夫人が焦燥感を面に出して金切り声が上がる。
「そんな悠長なことを言っている場合ではないのですよ! またしても不法な侵入者が当家に出入りしているのですよ。それもこれもエドワード様の所為ですよ。わかっていらっしゃいますか、旦那様!」
耳を塞ぎたくなる鋭く甲高い声は癇に障る。
それでもロイは余裕たる面持ちで口を噤んでいた。
一人あたふたしているのは執事であるファルマン唯一人。その彼は何とかこの場を取り繕うと息を呑んで主人に進言した。
「だ、旦那様……あの者はどう処置致しましょうか?」
そわそわとファルマンは両手を擦り合わせている。
これで夫人の立腹も少しは加減されるだろうと考慮してのこと。
が、彼の思惑は外れてしまった。
「構わんよ。エドの弟だよ」
緊迫する空気に反して、軽快な主人の低音。
劇的なことが起きても顔色一つ変えない夫人でさえ主人の突拍子のない言葉に一瞬躊躇していた。
「!? 真でございますか、旦那様。そんな……それは大変失礼致しました」
発言の撤回をしようと慌てる執事に対してアームストロング夫人は冷たく嘲笑した。
「旦那様、ともあろう方があのような子供の嘘に付き合っていらっしゃるとは…」
ほんの一瞬怯みはしたが、それを覆い隠そうと反撃する辺り彼女らしい。夫人は次々とエドワードに対する艶聞を並べ始めた。
真意は別として気分の良い話ではない。夫人の口さがない話を切るためにファルマンはタイミングを見計らって口を挟んだ。
「ま、まさか……あの精肉業界トップのカーティス家のご子息様ですよ」
一介の執事の耳にも有名なカーティス家の噂は伝わっていた。
ファルマンの細い眼は大きく見開かれていた。
精肉業界を牛耳るカーティス家。
凄腕の商売気質とカリスマ的存在の病気がちな夫人と寡黙ではあるが、精肉に関しては超一流の腕と技を持つ主人。
その二人によって精肉業界は潤っている。同業者で彼らに楯突く者はまずいない。
そんな――彼らも次の開拓地を模索していると噂されている。
それも彼らの養子であり、精肉業界の今後を背負っていく次世代の為にと噂されている。
その子息がマスタング家で誘拐まがいな行為を働いた挙句、その理由を問えばマスタング夫人の実弟であると言うのだ。
ファルマンの細く長い目がここぞとばかりに見開かれていた。
無意識に夫人の口も一文字に引き結ばれた。そんな夫人をロイは右眉を吊り上げ、蔑むように見下した。
無言の肯定が彼らに与えた影響力は計り知れなかった。
「――ま、まことでございますか? とんだ失礼を致しました。ご了承くださいませ」
顔を顰めながら夫人も深々と頭を下げた。
ロイ・マスタングという男が他人の人情話に耳を傾けるなど断じてない。
主人の言葉をこれ以上疑う余地はなかったのだ。
目に入れても痛くない存在であるエドワードの実弟となれば、それ相応の接客を余儀なくされる。それを今回――誘拐まがいな者として排除しようとしたのだ。
屋敷に雇われるファルマンは身の縮まる思いである。
しかし――ロイの口からは自嘲気味な言葉が吐き出されていた。
「そうだな。私とて同様だよ」
張り詰めた肩の力を抜いてファルマンに薄く笑い返してきた。
血の通った表情を見せる主人に思わず魅入ってしまう。
変わらぬと思われていた人の心。生まれ持った気質。性格。性情。そして――心。
それは――たった一人の人間、愛する人間の存在で変わるということ…。
それを目の当たりにした。
「だからエドはあんなに拒んだんだろうね。彼の、弟の将来のことを考えて…ね」
決して多くを語らないが、ロイの簡潔な言葉でファルマンは全てを察した。
「さようでございましたか……。奥様はやはり心根がお優しい方ですね」
粗雑な態度を見せるエドワードだが、彼の気立てはとても優しく頑強である。
自分を犠牲にしてまで、愛する者を守ろうとする彼の性格は充分過ぎるほどわかっていた。
「数日後、アルフォンスが屋敷を訪ねてきたら丁重にもてなしてやってくれたまえ」
「はい、かしこまりました」
* * *
薄暗い病床を想像していた寝室だったが、意外にも光に溢れていた。
寝室を明るく照らす大きな窓にエドワードは張り付くように立っていた。その背には言葉に表すことが出来なかった思いがつづらに描かれていた。
窓越しに美しい紋様で織られているシルクのレースカーテン。その布地に両手の平を当てて食い入るように庭先を見つめていた。
その先には今は――誰もいない。
それでも数分前、数十分前までは彼の心から離れられない人の姿があったはずなのだ。
逢いたくても逢ってはいけない人。
彼の将来を想うならば尚のこと――。
シルクのレースカーテン。
それがエドワードとアルフォンスの距離を表す様に薄く白い塗膜となって隔たっていた。
心身ともに衰弱しているエドワードは広大なベッドに横臥し、すっぽりと頭から毛布を被っているに違いないとロイは思っていた。
けれども予想外にも彼は実弟の姿を隠れて追っていたのだ。
声に出すことは出来ないけれどもこうして遠くから見つめることは、咎められないだろうと思ってのことだろう。
かの人を探し出す瞳はとても切なげで、その沈んだ背中を思わず抱きしめずにはおれない。
ロイは暫く声を潜めて彼の僅かに震える両肩を見つめていた。
少しでも長く金色の瞳に焼き付けたかった。
アルフォンスの成長した雄姿を……。語らずともエドワードの物悲しい背中がそう物語っていた。
「エドワード……」
背後から彼を驚かさないように近づき声を掛けると、ピクリと両肩が跳ね上がった。
ゆっくりと背後を振り向くエドワードの顔つきは気丈に振舞われていたが……。
それが故に彼が抱えている想いが濁流の如く流れてきてロイの胸がツキンと痛んだ。
「寝ていなくて良かったのかね」
恐らくロイの表情も沈んでいたに違いない。
それでも蒼白な顔色なのに、努めて明るく笑おうとするエドワードの笑みは薄幸の住人。
「……ちょっと驚いただけだよ。それよりゴメン。また屋敷の中を騒がせちゃった」
ぺこりと小さな金色の頭を下げる彼をロイは思わず両腕で包み込んだ。
「何、心配はいらんよ」
ロイは多くを語ろうとはしなかった。
此処で……こんな状態のエドワードにアルフォンスのことを追及しても、彼は絶対に首を縦に振らないだろう。
頑なに実弟の存在を否定するだろう。
幼い時に別離したアルフォンス。
身体は立派な青年に成長していた。けれどもエドワードはアルフォンスの内面的な成長までは計れない。
走馬灯のように蘇ってくる思い出は「兄ちゃん、兄ちゃん」とエドワードの背中を追ってくる小さな小さな子供のままなのだ。
しかし――兄の所懐は嬉しくも外れていた。
兄の陰惨な過去を知っても動じない強靭な精神力をアルフォンスは持ち得ていた。
真摯な同色な金目と向き合ったロイにはわかった。
だが、今は休養が必要な時だ。
心の平穏と身体の回復がエドワードにはもっとも必要とされている。
ゆっくりと時間を掛けて諭していこうと……ロイは思った。
安らげる場所を探して金色の頭はロイの胸で何度も身動きしている。
表情を容易に隠してしまう蜂蜜色の髪を梳き上げれば、疲弊した瞳がおずおずと見つめ上げてきた。
物言いたげに薄っすらと半開きした口唇に男の長い人差し指が優しく触れた。それから口角をニッと少年のように上げて笑ってやると、金色の睫毛を瞬かせてエドワードはゆっくりと瞳を閉じた。多くを語らずともロイが言いたいことがわかったからだ。
「エドワード、少し眠ると良い。今は何も考えずにゆっくりお休み……」
従順に小さな頭は下げられた。
力強い両腕が軽々とエドワードの身体を抱え、ベッドに横たえる。
取り替えられたシーツが頬や身体に触れ、とても心地よく感じられた。今朝まで淫猥な性交が行われていた場所だったが、それが懐かしく思えてしまう。
今では、この場所が聖域のように安らげる場所と変わっていた。
自然に息を吸うと太陽の香りが鼻を掠めていく。燦々と照る太陽の陽射しを寝具は吸い込んでいた。
「――良い香りだ。……懐かしい」
太陽の香り。その匂いがエドワードを童心へと戻していく。
眠たげな声音は独り言のように呟かれ、ロイは破顔して耳をそばだてる。
ゆっくりと掛布を引き上げてやると、丸く身体を折り畳んで居心地の良い場所を探しているエドワードが目に入ってくる。
真っ白な海原に浮遊するエドワードの長い金髪はとても映えていた。
ふっとロイの視界が金色の世界に移入した。
それは――同じ金色の髪を持った幼い子供達の寝姿。身体を九の字に丸めて互いに向き合って眠る姿。
あどけない表情で眠る幼子。そんな二人を栗色の髪を緩やかに肩口で束ねた母親が包み込んでいた。
幻影をロイは目を細めてみていた。
何不自由なく幼少を過ごしてきたロイでさえ、その光景に妬いてしまう。いつまでもこの空気に包まれていたいと思っていたが、突如として現の世界に戻されてしまった。
それはエドワードの口から漏れた名前で。
「…アル」
と、消え入るように吐き出された名前。
穏やかで懐かしい記憶がエドワードの夢に出てきているのだろう。
そう願わずにはいられない。
心身ともに疲弊しているエドワードは暫く目覚める気配はない。深い眠りの中にいるようだ。
ロイは彼の額に掛かる金髪を掻き撫でながら夢を見ているエドワードに声を掛ける。
「今度、アルフォンスに会うときはちゃんと話をするんだよ」
* * *
「エドワード、今日の午後犬がやってくるよ」
「えっ? 本当に犬を飼っても良いのか!」
はしゃぐエドワードの姿が眩かった。
「勿論だとも。私の友人が子犬を連れてくるからね。大切に育ててくれよ」
今朝、ロイが社へ出勤する際に念を押して言ったことだ。
その場にはあのアームストロング夫人も渋い顔つきでいた。主人が犬を飼うと言っていることにもはや反論は出来ない状態にあった。
まあ、それでも此処に至るまでに幾つかの小言があったことは、間違いない。
「私もその時間には屋敷に戻ってくる予定だからね。そうだ……今日は天気も良いから昼食後、テラスで待っていなさい」
「うん、わかった! すっごい楽しみだ。どんな種類の犬?」
と、忙しい時間というにも関わらずエドワードはロイに尋ね返していた。
それだけ嬉しいのだろう。
琥珀色の瞳を輝かせて聞いてくるエドワードはとても愛らしかった。
長い絹糸のような金髪はキリッと頭上で結い上げられ、血色の良い頬を高揚させている。
明るい春を思わせる着物の色と柄はエドワードにとても似合っていた。付け加えるならばその笑顔だけで屋敷の電灯はいらないぐらい明るい。
鈴の音を転がす声音ではしゃぐエドワードに使用人達も口元から漏れる笑みを抑えていたが、堪らず笑い声が上がっていた。
「そうだな。まあー来ての楽しみということで…」
数週間前までは不機嫌極まりない顔で早々に出社していた主人の顔も頬を上げて笑っていた。その彼の腕はしっかりとエドワードの腰に回されている。
忙しい時間だが、それさえも大切にしようとする二人の想いが周囲にも伝わってくる。
あの事件から数週間が既に過ぎていた。
アルフォンスの突然の来訪から徐々にエドワードは健康と明るさを取り戻していた。
それでも一人になるとエドワードは回顧に浸る後姿が見受けられていた。
窓辺から満天の星を見つめる彼の心は遠い日を思い出していた。
生き別れになったアルフォンスのことを思ってのこと。
突如、エドワードの眼前に現れた実弟は既に夢の中の人ではない。
それでも逢いたくて逢えない雲の上の存在。彼の将来のことを案ずれば、自ずと祈ることしか出来ない。
そんな後姿をロイは黙って見守っていた。
二人をちゃんと逢わせて遣らなければならないと――胸中は静かに湧き立っていた。
まっすぐに生きて何が悪い。
それが守ろうとする人の為ならば尚のこと。それが出来るからこそ彼は眩しいのだ。
是が非でも――前を向いて歩こうとするエドワードが堪らなく尊いと想う。
そして――それを受け入れようとする者も同等な存在。
続く
す、すみません。
すんごい時間差を感じている桜です。
更新が色々滞って申し訳ございません。頑張って更新したんだよ!
でぇぇぇ、そろそろ佳境だけど続きが進みません。それでも頑張っている桜です。
気長に待って下さいませ。
最終的に大円談を目指しています。
桜 美由紀 2007/10/18