愛すること、愛されること。(51)












「エドワード様、何をそわそわされているのですか。みっともない!」
広い食堂でアームストロング夫人の甲高い声がエドワードを示唆していた。
壁際で待機している給仕の者達も鋭い声が上がるたびに肩がビクッと跳ね上がっていた。
マスタング邸の食堂は豪華なシャンデリアに彩られ、その中央に艶やかに磨かれた長い食卓が設けられている。以前からこの食堂で食事をすることに抵抗があったエドワードなのだが、こればかりは改善されることはなかった。
ロイも困った顔を見せるだけで、どうしようもないとお手上げ状態。
それでもロイが早く帰宅して一緒に食事が出来る日はこの広い食卓も狭く感じるほどなのだが……。
昼食を摂る時間は針の簟状態。
かの人がいなければ、少しは改善されると思う。しかし――それを甘えだと、言われるのが関の山というもの。
重苦しいため息が腹の底から漏れ出していた。
最悪なことに屋敷の諸事を任されている女中頭のアームストロング夫人から監視されている。
当主の留守中は彼女と食事を共にする仕来りがある。
豪邸ともなると家憲が厳しいのは当たり前だが、エドワードには窮屈で仕方がない。
殊更、行儀作法に厳しい彼女と一緒では気が休まることはない。エドワードに対して特別に非情とも思える言動を吐く、彼女とは相伴したくないものだ。
夫人の態度は跡継ぎを成せぬ、エドワードを屋敷のお飾りの人形と評している。
マスタング家のお人形の名に恥じないように徹底して行儀作法を身に付けさせようと躍起になっている。
夫人も屋敷を守る為の苦肉の策をとっているのだ。
屋敷の当主がこのような下賎な者に現を抜かし、後継者は代々続く当家の血縁を残さなくて良いと、ご先祖様に顔向けできないことを飄々と言っているのだ。
ならばと徹底的に当主が選別してきたエドワードを鍛え抜いてやると……それが元でこの屋敷を出て行くのも良し、居残るのも良しと。
夫人は滅多に感情を面に表さない。
鼻を高く上げた冷ややかな顔はエドワードを決して認めることはなかった。
「昼食は全て召し上がってくださいませ。いつものように残されますと、私どもが旦那様に叱られます」
エドワードの食は数ヶ月前の精神的ショックで極端に細くなっていた。
現在は努力して少しずつ量を増やしている状態なのだが……。
それをあれもダメ、これもダメと頭ごなしに言われると、出て来た食欲も失せてくる。
結局、この食卓で食事をしたくない理由の一つに夫人の存在があるのだ。
「はい……。すみません」
口を尖らせて、返答すれば彼女からの容赦ない言葉にエドワードは肩を窄める。
「何ですか! 旦那様の大切な接待の時にもそのような態度をとるおつもりですか? ご自分の立場をわきまえなさい!」
流石のエドワードも夫人の厳しい言葉には反論することも出来ない。
無理をしてでも、与えられた食事を口に運ぶしかない。
いつも以上に夫人が突っかかってくる。
その理由を知っているからこそ、エドワードは大人しく夫人の小言に付き合うしかなかった。
しかし、そんな昼食風景にいつも付き合わされている給仕達は堪らない。
エドワードの体調が普段通りではないことを察している。そして、その理由を知っているからこそ給仕の者達は顔を顰めてしまう。
最近はあまりに酷い扱いを強いられているエドワードに助け舟を出す者さえいる。
勿論、当主であるロイの加護があってのことだ。
「お、奥様は……午後から大切な用事がありますから急いでいらっしゃるのです…よ。さぁーお時間が迫っています。奥様――」
夫人に気兼ねをして大きな声は出せないが、涙目になって食事を頬張るエドワードのスプーンを持つ手を給仕の女中がやんわりと静止してくれた。
それを待っていたのか、エドワードもにっこりと両の口角を上げて薄気味悪いほどの笑みを夫人に向けた。
「すみません。午後から旦那様の大切な用事が入っているから……。明日はちゃんと全部食べるよ。ごめんなさい〜」
と、給仕の者達と示し合わせたようにエドワードは席を立ち上がった。
夫人に対して従順な態度を示し、ぺこりと頭を下げれば夫人からは嘆感の息が吐き出された。
「――仕方がございませんね。旦那様のお申し付けならば……」
言葉とは裏腹に視線は厳しくエドワードに詰め寄っていた。
夫人は峻厳な物言いで彼をこの食堂に縛り付けた。だが、これ以上の叱責は当主の癇に障ることを熟知していた夫人はエドワードをやむなく解放した。
漸く解放されたエドワードから長い息が漏れた。
こっそりと夫人に気づかれないように、給仕達に礼を告げるエドワードの気さくで子供らしい仕草に彼らは癒される。
「ご、ごめんな。――明日はちゃんと残さずに食べるってスカーに伝えておいて」
エドワードが眉根を下げて、この場にいない者に対しても謝罪を告げれば、それを察した柔らかい笑みが返ってくる。
「奥様、良いんですよ。ちゃんとわかっておりますから」
歯がゆそうに、顔を顰めているエドワードの気持ちはしっかりと彼らに伝わっていた。
「いつも礼儀作法のお勉強ばかりではちっともお腹は空きませんからね」
「そ、そうだよな!」
エドワードの気立ての良さから奥様と使用人の関係になってしまったが、使用人達とは友好関係が築かれていた。
それがエドワードにとって強味となっていた。
溺愛されている当主、ロイ以外の味方。
その力を借りて、エドワードは食堂を後にした。
自分の存在を毛嫌っている夫人をこれ以上怒らせる訳にはいかない。
それを知っているエドワードは従順に夫人の言いなりになっているのだ。
だが、夫人から解き放たれればいつものエドワードに戻る。
「なぁ、もう来た? どんな犬が来るんだろう?」
にっこりと大きな琥珀色の瞳で話しかけてくる表情は愛らしい。
着物の裾を持ち上げて今にも駆け出しそうなエドワードを使用人達はクスクスと笑っている。
「奥様、まだでございますよ」
「旦那様が予定していらっしゃる時間にはもうちょっとお時間がありますからね」
「そうなんだぁー」
首を横に曲げ、エドワードは落胆の色を見せていた。
そんな仕草にも彼らはときめきを感じてしまう。
「アームストロング夫人も暫くは何も言って来ませんよ。テラスで読書でも?」
エドワードの瞳が瞬き、にっこりと微笑が返ってくる。
「うん! そうするよ。でも――みんな、忙しいんだろ? オレ、何か手伝おうか?」
「いえいえ、滅相もございません。奥様はお庭を散策でもしていて下さいな」
使用人達が一丸となってエドワードを夫人から守ろうとしている。
その好意を甘んじて受け入れ、エドワードははにかんだ微笑を彼らに向けた。彼の微笑みが使用人達の褒章であるとは、当人は気づいてはいない。
「ありがとう」
素直にこの言葉が出てくる。
閉鎖しがちだったエドワードの心が少しずつ人の温かさに溶け込もうとしていた。
声を弾ませてエドワードは真っ白なテラスに駆けて行った。その背後で使用人達は金色の輝きが残存して、瞳を瞬かせていた。


*          *          *


「なぁ、どんな犬だろうな?」
真っ白なテーブルに肩肘を突いて、想像を働かせているエドワードに傍付の使用人達の笑みが耐えない。
朱色に白銀の糸で細やかに織り込んだ花藤模様の正絹生地の着物は真っ白なテラスに映えていた。金髪の長い髪は風にゆらゆらと揺れ、太陽の光を燦々と浴びてエドワードの姿は異空間から現れたように眩い。
パラパラと本の頁を捲っているエドワードだが、どうやら上の空。
ロイが連れて来る犬のことで頭は一杯だ。
所在無げにブラブラと揺らしている両脚からコロンと草履が転げ落ち、そわそわと周囲を見渡しているエドワードの子供っぽい仕種は愛らしかった。
「まぁまぁ……奥様、そんなにご心配なさらずとも旦那様がちゃんと連れて来られますよ」
「――う〜ん、それはわかるけど、ね。――オレね、昔……」
途中まで口を開いたかと思うと、淡く薄い口唇をきゅっと閉めた。
聞く立場である使用人達は彼に話の続きを勧めようとはしなかった。何故なら彼の陰惨な過去を知っているからだ。
醜聞に流された過去は今となっては、何を――誰の言葉を信じて良いのかわからない。
それに彼の心が壊れる瞬間を見てしまった。
だから――わざわざ傷口に塩を塗るような真似はしない。
そんな彼らの所懐を無視して、昔を懐かしむように目を細めてエドワードは話し出した。
「前ね、近所の幼馴染の女の子が犬を飼ってたんだ。その犬を弟と三人で可愛がっていたんだ。毎日、三人で散歩に出掛けて日が暮れるまでよく遊んだよ……」
使用人達は目を細めて、その話を聞き入った。
初めてエドワードの口から身内の話が出たのだ。
長い間、彼とは同僚として共に屋敷で生活してきたが、エドワードの口から弟がいる話は一度も聞いたことがなかった。
彼は天涯孤独の身の上であると、誰もが思っていたのだ。
寂しい記憶を蒸し返してはいけない。聞いてはいけないと、思っていた。
そして――もう一つ。
忘れることが出来ない暗く陰湿な過去。
それを知っているが故に彼の奥深い心を聞くことは出来なかった。
だが、少しずつ重い鉄の扉はエドワード自身の手で開かれようとしていた。
「そうでございますか。また――仲良く遊べると良いですね」
鼻の奥がツンと痛くなる。そして、ほっそりとした肩を思わず、抱きしめてしまいたい衝動に駆られる。
悟られてはいけないと、無理に笑顔を作ると明るい声音が返ってきた。
「うん! そうだね。オレ、色んなこと教えよう。楽しみだな」
複雑な想いを抱えていた彼らに向かってエドワードは飛びっきりの笑顔を見せた。
その場に居た誰もが想った。この子に幸せを与えてくれと……。
彼のこの笑顔があるだけでこの屋敷に花が咲く。
その花は高価な華ではない。
素朴な黄金色の花。
だが、それだけで使用人達の心は和むのであった。


長閑な時間を過ごしていると、待ちに待った人が来たようだ。
庭園の端から現れた人物に目ざとく気づいた使用人の一人が弾んだ声を上げた。
「あっ、奥様…っ、お出でになられましたよ。ちゃんと子犬をお連れですよ!」
我がことのようにはしゃぐ使用人にエドワードも笑いを隠せない。
「ホント?」
と、金色の声を上げた。
ぱたりと分厚い本を畳むと笑顔でエドワードは手を振る。
「ロイー!!」
するとロイも微苦笑で手を振り返して来た。その後ろ、ロイを背にちらちらと金色の髪が見え隠れしていた。
「ロイ?」
確かロイの友人が子犬を連れてくると言っていたことを思い出した。
少しずつ距離が狭まれてきた。と、同時にロイの背後にいる人物の全貌が明るみになる。
それまで和気藹々と使用人達と談笑していたエドワードだったが、そんな雰囲気は消え失せた。
鈍い音を弾ませて、木製の椅子は倒れた。
立ち尽くすエドワードの視線の先は子犬を抱いた金色の青年を凝視していた。
その青年は数週間前にもこうしてマスタング邸に現れていた。
何故?
どうして――と、いう疑問符がエドワードの頭に浮かび上がる。
懐かしく実弟の名を呼ぶことも出来ずに唯、立ち尽くすしかない。
憐れな自分が忌々しい。
同色の瞳は訴えるように自分に投げ掛けられていた。それが更に辛くて、エドワードは俯いてしまう。
徐々に近づいてくるアルフォンスから逃げることも出来ない。
かといって言葉を掛けることはおろか、瞳を合わす事も出来ない。
愚かな自分の過去が此処ぞとはがりに蘇ってくるのだ。
挙動不審なエドワードの様子に使用人達も不安な声を上げた。
「奥様、如何なさいましたか? ご気分でも悪いのですか?」
俯いた顔を覗き込む使用人の顔は大きく見開いた瞳に映されていなかった。
茫然自失するエドワードは過去という名の迷路に迷い込んでいた。
裏で糸を引いているのが、ロイだとわかっていても――どう振舞って良いのかわからない。
この動揺を抑えることは出来なかった。
「エドワード?」
頭上から温かく名を呼ばれた。
俯いたまま、顔を自ら上げることが出来ない彼のほっそりとした顎を長い指が触れる。
優しい手つきで濡れた顔は上げられた。
「何を泣いているのだね?」
涙ぐむ瞳に映るのはロイの困った顔。それと子犬を抱えた青年の感嘆に歪んだ顔。
言葉に言えない想いを抱えすぎて胸が押し潰されそうだ。
目の前で襟元を鷲掴みするエドワードの姿に流石のロイも苦笑せざるを得ない。
無謀な手段だが、こうするしか手立てはなかったのだ。
こうと決めたら梃子でも動かないエドワードをロイは良く知っているからだ。
「紹介しよう。私の友人のアルフォンスだ。――そして、君の弟のアルフォンスだよ」
一途な想いを面に出しているアルフォンスの背がロイの腕によって寄せられ、エドワードの前に進み歩き、近づく。
けれども、エドワードは一歩後退してしまう。
「――ち、がぅ…」
掠り上げた声をやっとのことで上げたが、ロイの長い人差し指がエドワードの口唇に重なり掻き消された。
「ぅ、うッ…どうしてぇ」
涙で濡れた小顔を両手で優しく包み込み、ロイは額を合わせた。
「アルフォンスは全てを理解しているよ。そして――それを抱えられるだけの器を持っている。安心しなさい」
ゆっくりと前進するアルフォンスからエドワードは逃げ出せない。
その身体はしっかりとロイに守られているからだ。
背後から包み込むようにロイはエドワードを抱きしめていた。
アルフォンスの顔は必死に笑顔を作り出そうとしていた。抱きとめられた身体を震わせている兄の純粋な魂に呼び掛ける様にアルフォンスは両腕を差し伸べた。
「はい、兄さん! ウィンリィと三人で可愛がっていた犬に似てるでしょう。見つけるの苦労したんだから…」
零れそうな涙を見せまいとアルフォンスは俯いてしまった。
この子犬を抱いた手で良いから、兄に触れて欲しかった。
言葉を返してこなくても良いから――ただ、抱きしめて欲しかった。
そんな素朴でいて贅沢な想いをアルフォンスは胸に抱いていた。
それだけで充分だと思っていた。本当に謝らなくてはいけないのは自分なのにと。
それぞれの想いがこの一瞬に交差していた。
交差する感情にほんの少し力を貸しているロイはエドワードの耳元に呪文を唱えた。
「もう……君は過去から解き放たれたんだよ」
呪文はエドワードにゆっくりと浸透して、最後の砦が崩壊し始めた。
前へ前進するためには過去の咎を受け入れ、そして――解放すること。
ぽろりと青々と茂る緑の絨毯に向かって一粒の雫が零れた。
エドワードは徐に呪文を唱える主に顔を見上げた。
「本当に? もう良いのかな?」
「あぁぁ、勿論だとも」
にっこりと微笑を返してやると、エドワードは濡れた金糸の睫毛をゆっくりと閉じた。
それから再び開かれた時には琥珀色の瞳にはアルフォンスの姿がくっきりと映し出されていた。
濡れた睫毛は雫を跳ね上げて屈託のない笑みをアルフォンスに向けた。
「アル、似てないぞ! デンの奴はもうちょっと賢そうな顔をしてた!」
鼻に掛かった声色はアルフォンスの耳に良く届いた。
中性的な金色の声音といつも命令口調の小生意気さは昔と変わっていない。
アルフォンスの胸に幼き日々が去来していた。いつも夢でしか遭えなかった兄がついに声を掛けてくれたのだ。
アルフォンスの身は感悦で溢れかえっていた。
もう誰に憚ることもいらない。アルフォンスは自分の弟だ。
エドワードは子犬を抱いて、その場で戦慄いている愛しいアルフォンスを両腕で抱きしめた。
自分より逞しく成長した背中がやけに羨ましく思えた。だけど――幼い時、抱きしめあった身体に相違はなかった。
月日は経過していても心は変わっていない。
その温かさも――。
「兄さん、ごめんね。辛い想いをずっと背負わせてごめん……」
エドワードの肩口でアルフォンスは咽頭をふるわせた。
むせび泣く子供のように想いを声に出せない。
逞しいと思われた背中はエドワードに抱きとめられた途端、小さなアルフォンスに戻っていた。エドワードの鼻腔に微弱な痛みが走る。
「オレこそ、ごめんな。アル、ごめん」
短い言葉だけれども全ての想いが凝縮されていた。
もう言い訳はいらない。
こうして抱きしめ合えれば、全てが解決するのだ。
言葉はいらない――。
唯、ほんのちょっと背中を押してくれるだけで積年の想いを重ねることが出来る。





続く


新年明けましておめでとうございます!
漸く、更新しました。
「例」の場所には早々に更新していたのですが、続きが書けない病に罹ってしまい…申し訳ございません。
まだ――書いてません<(_ _)>
ですが、自分を追い込む為に更新。
今年こそは、完結を(笑)
と、言う訳で今年もどうぞ宜しくです。って――見捨てられてるかな?
そう悟ったときにはさっぱりサイト閉じますわ。取りあえず、まだサイトはあるぞ!


桜 美由紀 2008/1/3