愛すること、愛されること。(52)












「奥様、今日はアルフォンス様がお見えになる日でしたよね?」
少しばかり頬を染め上げている使用人らを見て、エドワードは大きなため息を漏らした。しかし、直ぐにその顔はにっこりと微笑んでいた。
多少ばかり呆れ顔でもあったが――エドワードは笑っていた。
「うん、そうだよ! 貸していた本を持ってくるって言ってたからな」
アルフォンスが屋敷にやって来ることが、わかると女中らはにわかにはしゃぎ始めた。
良家の子息であるアルフォンスは容姿端麗、頭脳明晰。その上人当たりが良く、愛想が良い。
マスタング邸には年若い女中達も多く働いている。その彼女らの心をアルフォンスの存在は一際乱れさせていた。
その彼がある日を境にこのマスタング邸に来訪するようになった。それは実兄であるエドワードに会う為である。
おかげでエドワードにとって居心地の悪い屋敷が少しずつ変化し始めていた。
由緒正しい大豪邸。
そんな屋敷の多くは閉鎖的である。マスタング邸が良い例である。
厳粛主義に基づきアームストロング夫人が徹底的に使用人達を指導していた。
そこに当主であるロイが元使用人だったエドワードを妻へと迎えたことによって、様々な悶着があった。
けれども屋敷に新しい風が吹いていた。変革というものはなかなか難しい。それでも屋敷の雰囲気は以前に比べ好転し、活気に漲っていた。
「アルフォンス様のために、私がテラスにお茶をご用意致しますね」
我こそはと率先して仕事をするのは良いが、少々邪な思いも入っているようだ。喧嘩にならないと良いのだがと、エドワードは彼女達に困り顔で微笑んだ。
エドワードの周囲は一際にぎわっていた。
それは彼から香ってくる気質によるものだろう。屋敷の使用人達を統治する女中頭はエドワードのことを眼の敵にするが、彼らはエドワードを慕っていた。
それもそのはず冷酷無情、人間味のない当主を情ある人間へと変えた人物だ。
エドワードの存在がなかったから、こうしてマスタング家に長期に渡って奉公することは出来なかっただろう。


エドワードには面映い時間である。
それでもこの瞬間――その場所がエドワードの拠り所となっていた。
しかし、そんな時間も長くは続かない。
エドワードの周囲に集まっている使用人達の背後に足音もなく忍び寄る影があった。身長の高さと比例して影は長く伸び、彼らに覆い被さってきた。
「一体、何事ですか! 早く持ち場に戻りなさい」
甲高い怒号が屋敷中に広がる。
この場から逃げたい衝動に駆られている彼らだが、蛇に睨まれた蛙状態。
小さく謝罪する声にアームストロング夫人のギラリと冷たい視線が向けられた。
彼女が使用人達を統括している女中頭。そして、この屋敷の生き字引的存在なのである。
その彼女はエドワードの存在を好ましく思っていない。
娼婦から成り上がった使用人。
その使用人がどんな手を使ったのか、由緒ある名門のマスタング家の女主。
屋敷の名が穢れると、エドワードが表舞台に出ることを忌み嫌っている。目立たないようにマスタング家の御飾り人形として置いてやっている。
そんな存在の彼の周囲に和気藹々と使用人達が溢れていた。
夫人には解せない。
感情を面だって表すことがない彼女のこめかみがピリッと青筋を立てて浮き上がった。
「エドワード様、使用人とこのように談笑されては困ります。身の程を弁えて下さい!」
行動の全てにケチをつけられることを、エドワードは既にわかっている。
それでも自分を慕い、アルフォンスのことを気遣ってくれる使用人達が叱られるのは許せない。自分が言い返せば、その倍の仕打ちが己に返ってくることを知りながらもエドワードは反論せざるを得なかった。
「……今日、アルが来る予定なんだ。オレの身内なのに皆は気を遣ってくれているんだよ。皆を叱るのは止めてください…」
必死な視線を上げて、エドワードは自分を見下ろす冷たい視線に訴えかけた。
が、やはり聞き入れてくれそうにない。
「ならば、まずは私にご相談下さい! カーティス家のご子息様でございますよ。粗相があってはマスタング家の恥でございます。それとアルフォンス様とお呼びなさい。失礼のない敬称でお呼びください!」
夫人は暗にアルフォンスがエドワードの実弟であることを口にしたくないようだ。
「すみません。あっ、皆忙しいのにごめんな…。持ち場に戻ってくれ」
恐らくこれから長い小言が始まることが、わかっているエドワードは肩を窄めて俯いている彼らを逃がすので精一杯だ。
夫人に気兼ねしつつも、彼らはエドワードに小さく会釈して立ち去った。
いつもロイや自分の間に挟まれている彼らに引け目を感じているのはエドワードの方だ。
肩身を狭くしているエドワードを尻目に夫人の容赦ない攻撃が始まった。
「それとエドワード様、アルフォンス様はカーティス家のご子息様でこざいます。お忙しい御身ですよ。気安く当家にお呼びする事はお控えになった方が宜しいかと思います」
顎を上に向けて、つんけんした口調にエドワードもブスッと膨れてしまう。
アルフォンスが血を分けた兄弟というのが、彼女は相当気に食わないらしい。
それがまたエドワードにとって歯がゆいのだ。
「……どうしてッ」
と、反撃の狼煙を上げようとしたが、そこで声が詰まった。
「何ですか?」
「……いえ、いいです。それよりデンの散歩の時間だったから失礼します」
頭が固い夫人にこれ以上反論しても、同道巡りになるだけだ。
エドワードは口を噤んだ。
決して自分をこの屋敷の女主人には認めてくれようとしない。
排除すべき人間には冷たく、そして――過酷な試練をいつも与えてくる。その一因がエドワードにあることを本人も自覚している。
「またでございますか。ちゃんとお時間までに戻って来て貰わねば困ります。本日のスケジュールはわかっていらっしゃいますね」
「はぁ~い、わかってます」
先程まで夫人を憎らしく見据えていた態度は消えていた。
ロイに飼って貰った愛犬の世話にかまけて、夫人の説教から逃げることをエドワードは最近学んだ。
戯けた返事に夫人の機嫌が益々悪くなることぐらい、わかっている。
だが、これぐらいの反抗を見せても良いだろう。
夫人から押し付けられるマスタング家の女主人教育をエドワードはこなしていた。
多少の不得意分野はあるけれども、エドワードの成績は素晴らしいと教師達に絶賛されている。
またそれが夫人には気に食わないのだろうが……。
エドワードの背中に向かってチクチクと小言を述べている夫人を尻目にエドワードはこの場をうまく言い逃れ出て行った。
「はぁ……ッ、疲れる」
と、エドワードは夫人が居ないところで悪態をついていた。
こればかりは仕方がない。己の精神力を信じるしかない。
それより今はロイの支えがあるからこそ、夫人の冷たい仕打ちにも耐えられる。
金糸細工の美麗な草履を鳴らして、エドワードは絨毯に敷き詰められた廊下を小走りで駆けていた。
さっさと気持ちを切り替えなければ、こんな厳格な屋敷にはいられない。
夫人の言うことを鵜呑みにしていたら、身体が幾つあっても足りない。
ロイの傍に居られない。
エドワードは愛犬のデンと庭園で何をして遊ぼうかと、想いを走らせた。
賢い犬だ。エドワードはとても大切に育てていた。
また――デンもエドワードにとても懐いていた。エドワードの気持ちを察する優しいデンに彼も癒されていた。
暗く落ち込んでも仕方がない。
殻に閉じこもることは何も意味をなさい。
それを嫌というほど理解した。それに自分の性分に似合わないことも。
そして――そんな姿をロイは喜ばない。
少しでも元気な姿を彼にも見せていたいと、エドワードは思っていた。
結い纏められた金糸の髪は左右に揺れ、朱色の着物に良く映えていた。
彼はまっすぐ前へと進んでいた。彼の行き先には光が満ち溢れていた。


*          *          *


「兄さん、大変だねぇ」
「そう思うだろう! ホント、オレのこと目の敵にしやがって…」
真っ白に塗られた白樺のテラスは芳しい香りがしていた。
白い世界に映える金髪。その容貌を持つ二人の姿は絵画から抜け出てきたように美しい。
傍で使えている使用人達はうっとりと見つめていた。
「でも……オレがロイの奥さんになったんで全てが狂っちゃったんだ。女中頭の気持ちもすっげぇーわかる」
始めは自分に振り掛かる火の粉を熱く語っていたエドワードだった。
だが、その怒りが一端収まればこうして自分の生い立ちが全ての発端であると冷笑していた。
「兄さん、それでもマスタングさんは良いって言ってくれたんでしょう」
「うん…」
エドワードの足元で大人しく座っているデンを撫でるエドワードの手つきは穏やかで優しい。この場にいない男を愛しがるように艶やかに生える黒毛の額を撫で付けていた。
その顔に悔恨がちらりと見え隠れしている。
アルフォンスには見せたくない一面であるが、ふとした拍子に顔に出てしまう。また、そのことをアルフォンスも気づいていた。
「兄さん、嫌なことは僕にどんどん愚痴って良いよ。それでも――耐えられなかったら…僕のうちに泊まりにくれば良いから」
「エッ!?」
突然の申し出に金色の瞳をぱちくりと見開いたエドワードにアルフォンスはにっこりと余裕の笑みを見せた。
「そう、僕の家のお義父さんとお義母さんがうるさいんだよ。兄さんに合わせろってね」
実際にアルフォンスは両親に煩いぐらい催促されている。
アルフォンスは左目をパチッと閉じた。
子供っぽい仕種だが、それだけでエドワードの心は救われる。
湿っぽい話に発展しまうところをアルフォンスが気を遣ってくれているのだ。
過去を悔い改めるために、アルフォンスと再会したのではない。過去のためではなく、未来のために二人は再びまみえた。
かけがえのない肉親が傍に居てくれるだけでエドワードの生活は180度好転している。
それもこうして談笑している自分達ににこやかに微笑み、手を振って歩んでくるロイがいるからこそだ。
エドワードはロイの視線に気づき晴れた天気のような笑顔で手を振り返した。
「ロイ~~こっちだよ!」
声音は明るく眩い笑顔でエドワードはロイを迎えた。


*          *         *


「社長、お屋敷からお電話でございます」
社長室で書類に目を通していたロイの顔がふいに上がる。
「何事だね?」
眉間に皺を寄せている。
少し怯んでしまうが、秘書の一人は社長の傍に一歩近づき用向きを伝えた。
「奥様が倒れられたそうです」
慎重に言葉を選んだ結果、そう伝えるしかなかった。
ロイの秀眉な片眉が一瞬にして吊り上った。持っていたペンを下ろし、彼女に強面な視線を送れば、気おくれした秘書はしどろもどろになる。
それを見かねたホークアイが割って入ってきた。
「大事にはいたらないそうですが…」
疑わしげな視線をあからさまにロイは彼女達に向けた。
「医者に…ヒューズに診せるように伝えてくれたまえ」
「かしこまりました」
頻繁ではないが、忘れた頃にエドワードは体調を崩すのだ。
以前、わざとのように屋敷から報告がなかったことがあった。
確かに大事に至らない唯の風邪だったが、ロイはその対応に屋敷の使用人達を酷く咎めたのだ。
格式高いマスタング家の女主になるには程遠い素性である。だが、当主が愛した人を邪険に扱われてはならない。
あの事件後、特に――ロイは厳しく使用人達に言いつけていた。
エドワードの体調の変化には些細なことも連絡するように命令を出されていた。
恐らく今回も大事には至らないだろうが、ロイは念を押して医者の手配をさせたのだ。
久方ぶりのことで些かロイの眉間にも皺が刻まれていた。
「どうされたのでしょうか?」
気を取り直して、ペンを握る彼にホークアイがさり気なく気遣いの言葉を掛けると、ロイの重い口唇は開いた。
「ずっと体調は良かったのだけどね。この数日、気分が優れないと言っていたようだからね。夏バテかもしれんな…」
ほっと一息ついた彼女から柔らかい笑みが戻ってきた。
「そうですか…。確かに今年は猛暑のようですからね」
あの屋敷で起きた悲劇から何度季節は変わっただろう。
惨劇に見舞われ、悲嘆していた日々。
それが一転したのはエドワード自身が己と向き合ってからだ。
裸体のエドワードが鏡面にいた。
単純に美しかった。
何も身に着けていないエドワードの容姿は純白の天使のようだった。
羽を捥ぎ取ってでも、籠に入れておきたいとロイは想ったほどだ。
それはたがわぬ夢。
再び、ロイが彼の純粋な心と身体に魅入ってから、その後の二人の絆は強くなった。
言い換えれば、スタート地点に戻ったとも言える。
ふとあの頃を思い出し、ロイは遠い目をしていた。
「社長、それでは早く仕事を終わらせてしまわなくてはいけませんね」
書類を読んでいるはずの男の視線がうわの空だったことに、優秀な秘書は気づいた。ちょっと眼を離すと、さぼり癖が出てしまう上司は曲者だ。
「あ、ぁ……そ、そうだね…」
優秀な秘書にたじろぎながら、ロイは書類に目を通し始めた。


*          *          *


「エドワード様、しっかり昼食は召し上がって下さい!」
厳しい声にエドワードの両肩は跳ね上がる。
アームストロング夫人の態度は普段と変わらない。相変わらず、夫人はエドワードを屋敷の女主人として認めようとしない。
奥様とエドワードのことを呼んだことは只の一度もなかった。
もうそれに対してロイも夫人を咎めることはなかった。
静寂の中に鮮麗された音が耳を掠めていた。その音の出所はアームストロング夫人が持つ、ナイフとフォークから奏でられていた。
精緻なテーブルマナーを守って、夫人は淡々と食事をしていた。
かたやテーブルを挟んで対面しているエドワードと言えば…。
皿に美しく盛られた食材を覗いているばかりで、一向にフォークが口に運ばれていない。
それに胸元を苦しそうに押さえているエドワードの顔色は良いとは言えない。
例年にない暑さがこの数日続いている。エドワードも流石の暑さに体調が優れないのだ。彼だけではない屋敷の使用人達もぐったりしている。
かえって鉄壁の鎧を身に纏っているアームストロング夫人の涼しげな顔に感服してしまう。
大きく長い吐息を吐き出せば、夫人の鋭い眼光が痛いほど伝わってくる。
「全然、手をつけられておられませんね! 全て、食べて頂くまで席を立つことは許しませんよ。食欲がないと、言われても私どもが困ります。こうも頻繁に体調を悪くされますと、私どもが旦那様にしかられますからね」
とげとげと、返ってくる言葉に一々反論しても仕方がないが、エドワードは上目遣いに夫人を見ていた。
その顔は明らかにふて腐れていた。
「オレは健康優良児だ……。この何日かが、暑くてバテてるだけなのにさッ――」
ぼそりと呟くと、非難の瞳がエドワードを刺して来る。
その視線から逃げるようにして、エドワードは席を立った。
「今日は食欲がないから失礼します。それとあんまり暑いから少し、空調の温度を下げてください。そうじゃないと、みんながバテてしまう」
しっかりとした口調で夫人に提言するエドワードは凛としていた。歳月は人を成長させている。
が、夫人は澄ました表情でフォークとナイフを静かに下ろした。
「また昼食を抜かれるのですか? 体調を崩されても知りませんよ!」
またではないと、エドワードは口を尖らせて文句を漏らした。
「オレ、デンの散歩に行って来ますッ――」
エドワードはこの手を使って、よく夫人の小言から逃れるのだ。そして――今回も大切な愛犬をだしに使おうとした。
金色の髪をなびかせて、エドワードは踵を返した。
しかし、その途端エドワードの視界はぐらりと歪んだ。
どちらが天井なのか、床なのかわからない。
手足が急速に冷たくなるのを感じた。それと同時に例えようのない不快感に全身を襲われた。
腹の底からせり上がってくる異物感に口元を押さえ、揺れる大地から両脚が離れていく。
「お、奥様!!」
遠くで自分を案ずる声が聞こえていた。
けれども応えることは出来ない。
ただ、揺れ堕ちる身体と共に悪態をついていた。「あれっ、どしたのかな? もう――最近はこんなことなかったのにぃ、やっぱ夏バテだ……」あくまでも、自分の体調管理に不平を漏らしていた。
エドワード自身、自分の健康が一番であり、そして――ロイや自分を気遣ってくれる人達に笑顔を見せることが務めだとわかっていたからだ。
だからこそ予想外な展開に口唇を噛むしかなかった。
バタバタと屋敷内が騒がしくなってきた。
それを薄れる意識の中で申し訳なく思うエドワードだった。


*          *          *


意識が前触れもなく浮上し出した。
まだ、このまま堕ちていたいと夢見心地に思っていたが……。そんなのん気なことは言っていられない状態だと、覚醒し出した意識が警笛を鳴らしていた。
ぐっと重い双眼を押し開けると、天幕付の華麗なベッドの天井が視界に飛び込んできた。それと同時に思い切り重いため息が口から漏れた。
口惜しくて堪らない。不覚にもあのアームストロング夫人に啖呵を切った直前に倒れてしまったのだから。
格好が悪い。と、同時に周囲の者達に心配を掛けてしまった。
その心境が素直にエドワードの顔に出てしまっている。
けれども、傍にいるらしい使用人達はにこやかに微笑んでいた。
ますますエドワードは小さくなってしまう。
「――あ、ごめん…心配掛けて。ちゃんとご飯食べますッ」
覚醒した意識は溌剌と声を上げたつもりだったが、エドワードに聴こえた声は酷く嗄れて、情けないものだった。
自分の弱弱しい声色で更にしょぼくれてしまう。
「ぁ、もう…ッ、情けない――」
シーツの中に逃げ込みたい。
その口実はないかと、辺りを見渡せば西日が部屋に優しく刺し込んでいた。これまた時間が随分と過ぎていることにショックを受け、エドワードは顔を顰めた。
そして、その陽光を避けるようにゆっくりと腕を上げた。
細く透けるような腕が白い長襦袢の袖からするりと現れる。
綺麗に結い上げた金髪はその痕跡も見つからないほど、さらりと寝台に広がっていた。
これではまるで寝たきりの病人だと、エドワードは我が身を恨めしく感じた。
しかし、エドワードの落ち込んだ表情とは裏腹に使用人達からは笑顔が耐えなかった。否、この場を包み込む空気自体がとても和やかなのだ。
「?」
気持ちの悪いほどの笑みに些かエドワードも訝しい表情になってしまう。
「そうだな。ちゃんとメシは食ったほうが良いぞ! 豆っ子」
父親の風格を思わせる男の一喝した声がエドワードの耳に届いた。
しかし、怒られた内容とは別に最後の単語にピクッと、反応したエドワードはヒューズに向かって膨れた顔を見せた。
「もう! 豆っ子じゃない。ちょっと夏バテしただけだ!」
「おっ、威勢が良いじゃないか。そのぐらいの元気があれば心配ないな」
にやりと口角を上げて、ヒューズは黒い診察カバンを閉じた。
どっかりと椅子に腰を下ろすと、徐に口をへの字に曲げて暫く黙って不機嫌なエドワードを見つめていた。
突然、寡黙になったヒューズに不安を感じ、エドワードは上目遣いに彼を見上げた。
良からぬ病気にでも罹ってしまったのだろうかと。
ほんの短い時間に様々な考えがエドワードの頭を巡っていた。
しかし、ヒューズの口からは病名の一つも出てこない。
その代わりエドワードの小さい頭をヒューズは大きな手を広げて、感慨深げに優しく撫で始めた。
思い切り目尻を下げたヒューズの顔を茫然とエドワードは見上げるしかない。
「? どうしたの? みんな……何か変だ?」
周囲を注意深く観察すると、使用人の誰もがヒューズと同様に目尻を下げている。または、目頭をひっそりと押さえている者もいるのだ。
謎は深まるばかりだ。
エドワードの不安は増してくる。本能的にキュッとシーツを握る手に力がこもる。
不気味な静寂はエドワードを混沌へと誘う。
その不安を消し飛ばすように漸く、ゆっくりとヒューズの口唇が動いた。
「×××××――」
スローモーションのように、口が開いたり閉じたりしている。
声は届いているはずなのに、その言葉の意味がエドワードには理解出来なかった。
「――エッ?」
と、何度も聞き返してしまう。
余りに何度も聞き返すので、終いにはヒューズや使用人達に声を上げて笑われてしまう。
それでもエドワード一人理解に乏しい顔をしている。
ぽっかりとエドワードは濡れた口唇を開いていた。徐々に蒼白かった顔色がほんのりと色をつけ始める。じわじわとエドワードの胸にヒューズの言葉は伝わってきた。
信じ難い事実に大きな金瞳を丸く丸くさせる。
真意を確かめたくて使用人達に視線を向ける。が、誰一人として左右に首を振る者はいなかった。
ヒューズの顔はくしゃりと歪んでいた。
その無粋な顔でもう一度ゆっくりと耳元で囁かれた。
――奇跡――。
もう一度、ヒューズと顔を合わせれば、彼は目頭を押さえて。
はっと気づいた時には父親のような大きく温かい胸にエドワードの小さな頭は包まれていた。
嫌悪感はまったくなかった。かえって、エドワードの方が抱きつきたい想いで一杯だった。
寝室に差し込んでくる西日がまるで天からの贈り物のように、神々しく輝いていた。エドワードはその輝きを見上げながらほろりと涙を溢した。
ちゃんと神様は見てくれていたんだ。ご褒美をくれた――。
ふんわりと蕾が綻びてゆくようにエドワードは微笑んだ。
胸が温かい。大切なものを授かった。
この喜びを共に味わいたい人がいる。





続く


あ、後一話かな? と、思いつつ。ずるずるとこの続きが書けません。
う~ん…リハビリ中。
(只今、拍手に掲載していた暗いぃぃー話を書いています)←拍手からは撤退してますので…あしからず。
これが出来上がれば? もしくは、飽きたら「愛、愛」を書けるのかな?  なんて思っている桜。
あともうちょっとだよ。エドにちゃんとご褒美を上げますよ。

桜 美由紀 2007/1/11