愛すること、愛されること。(53)












西日が強く刺していたのが嘘のようだ。
この世界のどこに雄大な太陽が隠れてしまうのだろうと、考察してしまう。
今では静かに暗闇と化していた。
喧騒を打ち消すように、マスタング邸に一台の高級車が砂利を踏み鳴らしていた。
それは屋敷の当主の帰宅を知らせる音である。
いつもより早い帰宅である。恐らく夫人が倒れたとの知らせを受けて、早々に仕事を切り上げたようだ。
バタバタと屋敷内が忙しくなる。当主の出迎えの準備に使用人達は追われ、漸く玄関ホールに整列し終えたところで到着を知らせる鐘の音が鳴った。
バタンと重厚な扉が観音開きに開かれると、当主を先頭にハボックが後ろでカバンを持ち控えていた。
当主であるロイの靴音は急いていた。
「おかえりなさいませ」
使用人達が一斉に頭を下げる。見慣れた光景だ。
しかし、今日はその中でも一際輝く存在が足りない。妻であるエドワードの不在。
知らせはロイの耳に届いていた。
夫人が体調を崩すと当主は不機嫌になる。それはエドワードの所為ではなく、屋敷の対応が気になってのこと。久々のことで、さぞや使用人達も緊張していると思われていた。が、何やら屋敷中の空気がまろやかだった。
ロイだけがピリピリと神経を尖らせていた。
「?」
使用人達は挨拶を済ますと、穏やかに微笑んでいた。その表現しがたい雰囲気が漏れ出していて、ロイは別の意味で不安を掻き立てられていた。
「おかえりなさいませ。旦那様」
この女史ならば、この不気味な空気を説明してくれるはずだと思った。
だが、その当ては呆気なく外れてしまう。
まったくの無関心。感情が読み取れない顔つき。当てにした自分が愚かだったと、深いため息をわざと大きめに漏らした。
いずれ、その理由もわかるだろうと仕方なくロイは断念した。
肝心なことは別にあるのだから。
「――指示通り、ヒューズに診せたのだろうな」
凄味のある低音と甘さを削ぎ落とした容貌でロイは夫人に迫る。
時々、こうして釘を刺しておかないといけない。当家には暦としたマスタング夫人がいるというのに、夫人は未だ認めようとはしない。以前、変わらずエドワードにつっけんどな態度をとるのだから。
「勿論でございます。ヒューズ様の診察を受けられまして寝室にてお休み頂いております」
非の打ち所がない対応に、ロイは満足する。と、同時に大事に至らなかったと感じ安堵する。本来ならば彼女の前で感情を出すことは控えておきたい。が、ロイはほっと安心した顔つきをした。
そして――使用人達の様子がおかしいのは気のせいだと、自分に言い聞かせた。
「エドを見舞おう」
端的に言うと、執事のファルマンに帽子と外套を渡した。
胸に残るしこりはエドワードに会えば総て解消されるのだからと。
ロイは玄関ホールから続く二階へ昇る階段を見上げた。滑り止め代わりに敷かれた赤い絨毯。屋敷の広大さを知らしめるかのように堂々としている幅広い階段。美術的造型を重視して作られたと思われる階段。そして、丹念に磨かれ光沢を放つ螺旋状の手摺。
その階段の上段。
開放的な吹き抜けの二階天井からは豪華絢爛なシャンデリアが飾られていた。
屋敷の中でも中央を位置するこの場所に置かれている家具類は超一流。
その中でもこのシャンデリアは威風堂々と瞬いていた。
しかし、それ以上の煌きを見ることになる。ホールに整列していた使用人達も一瞬にしてその輝きに心を奪われてしまった。
――純白の天使が羽を広げて突如舞い降りてきたのだ。


*          *          *


「奥様、旦那様がお帰りのようですわ」
ベッドで身体を起こしていたエドワードの視線は窓の外。大きな窓から見えるのは、一台の高級車がライトを点けて進んでいる姿。
「――うん」
生返事しか返ってこない。
女中はベッドから身を乗り出すように窓を見ているエドワードに破顔していた。
「あらあら……奥様、そのように慌てずとも旦那様はちゃんといらっしゃいますよ」
純白の正絹生地の長襦袢に身を包み込んで、長い金髪は解かれ綺麗に梳かれていた。けれども、その格好では身体を冷やしてしまう。
大切な身体だ。
使用人はそわそわしているエドワードの薄い肩に羽織をふわりと羽織らせた。
「さぁ、エドワード様。少し横になりましょう。また、ご気分が悪くなりますよ…」
使用人達はエドワードの身体を労わっていたが、どうも当の本人の心は此処にあらずと。
何だか、今にも飛び出してしまいそうな勢いだ。
体調が悪いながらもロイの帰宅を知ると、彼の頬は紅潮していた。ほんわかと微笑んだかと思うと、大切そうに自分の腹辺りを撫でていた。
早く――早く、ロイに知らせたかった。
一緒にこの幸せを感じて欲しかった。
やっとロイに贈り物を渡すことが出来る。一番、欲しかったもの。一番、悦ぶもの。
急いて仕方がない心と身体を沈めるのは至難の業だ。
ついにエドワードはベッドから飛び出してしまった。
女中達の俄かな心配は的中してしまったのだ。
あまりに軽やかにベッドから跳ね降りるので、羽でも生えているようだ。その姿に使用人達はうっとりと夢でも見ている感覚に陥ってしまった。はっと現実に引き戻ると、とんでもない事態に大慌てになる始末。
エドワードは素足のまま寝室の扉をすり抜けてしまっていたのだ。
死活問題である。もし転びでもしたら――身の毛がよだつ。
使用人らは命懸けでエドワードの後を追った。
「お、奥様〜! お待ちください。危のうございますから――」
やんわりと叫ぶ声には訳がある。周囲に……否、女中頭に知れたら一大事である。
「エドワード様、お止めくださいぃぃぃ」
声を潜めつつも、エドワードを無事に捕獲しなくてはならない。
けれどもエドワードは背後から必死の形相で阻止する声に振り向こうともしない。一心不乱にエドワードは駆けていた。
この時ばかりは、不自由な左足がまったく気にならなかった。
軽やかに両脚は跳ね上がっていた。こんなに身体が軽いと感じたことは今までなかった。
ふわりと柔らかな絨毯が素足の脚を受け止め、蹴り上げる。
次の一歩がまた絨毯を弾むように蹴って、逸る気持ちを抑えることは出来なかった。
二階の廊下から一階の玄関フロアーは全体を見下ろせる。
エドワードが探していた人はそこに居た。
勢揃いした使用人達に手厚く迎えられている人は今朝、朝食を共にした人だ。それなのに何だか数週間も逢っていなかったように新鮮に感じる。
その人物は少しばかり機嫌が悪そうで、使用人達が緊張しているのが見て取れたが、今のエドワードにはまったく気にならない。
今まで臥せっていた病人とは思えない、はりのある声音で中央で囲まれている人の名を呼んだ。
「ロイ〜〜」
呼び鈴を思わせる声は凛とロイの耳にすぐに届いた。
声が聴こえる方へ顔を上げると。
「エ、エドワード!?」
あんぐりと目を見開いて、ロイはこの世とは思えない光景に出くわした。
小金色に輝く髪をなびかせ、真っ白な羽を大きく羽ばたかせてロイの下に降りてきた。それはさながら天使のようだ。
するするとエドワードは手摺をつたって軽やかな足取りで階段を降りてきた。身に着けている純白の長襦袢と羽織が天使の羽代わり。
にっこりと口角を上げ、頬を桜色に染めたエドワードの微笑みは極上。
重さを感じない身体は最後の一段を踏み板代わりにして、ロイの胸に羽毛のようにふわりと飛び込んできた。
「――……」
ロイは時を忘れ、天使が舞い降りる姿を陶酔して眺めていた。
周囲もエドワードの奇行に声を失っていた。
あのアームストロング夫人でさえ、対応に遅れたぐらいだ。けれども実際は奇行ではなく、彼の周囲を包む情景に心を奪われていた。
軽やかにロイの首に両腕を絡めて抱きついてきたエドワードは少し、爪先立ち。広い胸に額を擦り当てる姿はとても愛らしく、反射的に抱き返してしまう。使用人達、勿論アームストロング夫人のいるまえでこんな熱い抱擁をするエドワードは見たことがない。
恥かしがりやのエドワードだ。また、その面映い表情が堪らないのだが……。
けれども、ほんわかと顔を上げてきた彼の頬は含羞の色とは違う別の色も入り混じっていた。抱きつくエドワードにロイは真顔で覗き込んだ。
「ど、どうしたのだね? 体調が悪いのではなかったのか?」
不可思議な行動をとるエドワードがかえって心配になるのだ。
しかし、それはロイの杞憂にすぎなかった。
婉然と微笑むエドワードはそのままロイの耳元に濡れた口唇を寄せて囁いた。
「あのな。赤ちゃんが出来たんだ。ロイの赤ちゃん――」
自分の口ではっきりと伝えたかった。
破天荒な行いだとわかっていてもロイに逸早く逢いたくて、周囲を振り切ってきた。
この想いを伝えたい――。
ロイのそばだてた耳尻がざわりと総毛だっていた。
ドキドキと動悸が激しい。
「――……」
暫く、心の整理が必要になった。
本当か、とすぐさま聞き返したいが出来ない。
何しろエドワードが妊娠する確率は稀少だと、医者に宣告されていた。それは本人も知っていたはずだ。
だからこそ――こんな夢物語信じたいが、信じられるはずがなかった。
しかし、その当人の口から飛び出した言葉なのだ。
戸惑いは隠せない。狐に抓まれた状態だ。
そんな困惑した表情でエドワードを見つめていた。否、その表情はエドワードを憐れんでいたのかもしれない。マスタング家の跡取りを産めないことを余程悔やんで、とうとう妄想まで抱くようになったのではと。
エドワードと対照的にロイの胸は一瞬にしてギュッと責め付けられた。
「!? ロイ? どうしたんだよ。嬉しくない?」
嬉しくないはずがない。それが真実ならば――。
しかし、この点に関して臆病になっていたロイは真意を確かめられなくなっていた。
愛しいエドワードを抱きしめるしか出来なかった。
真実ならば――と、何度も反芻した。
「く、苦しいよ。ロイ〜、ちょっとお腹の赤ちゃんもこれじゃ呼吸できないよぉ〜」
エドワードは冗談混じりに笑いかけてくる。
それでも――確信が持てなかった。臆病になった我が身を恨めしい。
すると二階から奇声が聴こえてきた。バタバタと人数を引き連れた足音は騒がしく、二人の逢瀬を邪魔するほどだ。
「お、奥様――!? お止めください。お体に障ります」
「そうですよ。奥様、まだまだ妊娠初期の大切な時期なんですから〜」
ロイの耳がピクリと反応した。
咄嗟にエドワードの顔を見つめなおした。エドワードはにっこりと頷いていた。
それが何を意味するか、察しがつかないほどロイは馬鹿ではない。
この世に神はいたのだ。
エドワードに遅くなったが、贈り物を届けにきたのだ。
ついにロイはこの言葉を出した。言いたくても言えなかったが、今度は言える。
そして、その返事がyesであることも。
「――本当か? エドが、君が――私の子供を妊娠したのか?」
「うん! 本当だよ。医者がね。妊娠二ヶ月だって言った! オレ、今度こそロイの赤ちゃん産むよ」
エドワードの自信に満ちた微笑がロイを歓喜に躍らせる。
「エドワード、よくやった! 本当に君は――ッ……」
欣快に耐えなくてロイの言葉は途中で途切れてしまう。この喜びは言葉で表現するには余りある。ロイは身体で表現し出した。
「ワッ!?」
エドワードの羽毛のように軽い身体を優しく抱き上げると、ロイはくるくると玄関ホールを回り出した。そして、何度も何度もロイはエドワードを褒めまくった。
至福の喜びを二人は長い年月を駆けて味わっていた。
此処まで、辿りつくのに長い時を費やしていた。互いの気持ちは通い合っていても、周囲がそれを許さなかった。それでもと――必死に愛を育んできた。
そうかと思えば、その出来上がった結晶をいとも簡単に破壊された。
それがやっと報われたのだ。
この一瞬が全ての不幸な過去を消し去ってくれた。
それぐらい喜ばしい出来事なのだ。
「エド、大切にしような!」
「うん! オイィ〜ちょっと目が回るよ。わぁ、は、はははぁ〜」
遊園地のメリーゴーランドなみに回転する中での二人の会話。くるくる回転する二人は眩かった。エドワードの笑顔にはキラリと輝くものが混じっていた。
エドワードが初めて妊娠した時は寝耳に水の状態だった。
お屋敷の旦那様と元売春の使用人という立場。誰にも祝福されない子供。ひっそりと一人で隠れて産んで育てようと、想っていた。だけど――母親から愛情はたっぷりと注いでやろうと、そんな覚悟していた。
けれども今度は違う。誰もが待ち侘びていたのだ。
批判されることはない。
もう、後ろ指を差されることもない。
堂々とロイの子供を妊娠したと告げることが出来るのだ。亡くなったあの子の分も愛情を注ごう。それが抱くことも叶わなかった赤子への供養だと。
エドワードは新たな想いを胸に秘めていた。


浮き足立った彼らに漸く叱咤する人物が出てきた。それは勿論アームストロング夫人だ。
パンパンと手の平を合わせて高音を弾かせた。
「お止めくださいませ!!」
彼女が制止する声音は、他とは違う独特の切迫感を出している。その所為か、二階から呼び止めてくる使用人達より、夫人の声に自然と従ってしまう。
それは二人だけではない。
使用人全員の緩んでいた頬骨がピクッ痙攣した。
「エドワード様、ご自分のお体の状態を考えての行動ですか! マスタング家の大切な跡取りを身篭っておられるのですよ。万が一のことがあったらどうするのですか。それに旦那様もです。今が大切な時期なのですよ。お二人して、何たることですか!」
今まで、鳴りを潜めていた夫人が捲くし立てるように苦言を呈してきた。
迂闊にもエドワードの奇行を止めることが出来ず、その上その姿に魅入ってしまったのだ。マスタング家の女中頭として面目が立たないのだ。
説教は延々と続けられた。
以前ならば肩を窄めしゅんとなるエドワードだったが、まったく気にならなかった。
朗らかに頷きながら夫人の話を聞いているのだ。
「アームストロング夫人、貴女の言っていることはよぉーくわかった。エドワード、そろそろ部屋に戻ろうか。話をよく聞かせてくれ」
「うん! あのなッ――」
待ちきれず、エドワードの口は開きかけていた。
夫人がきつい言葉で叱り付けても、するりと二人は交わしていく。これではマスタング家の威厳が損なわれると、夫人は青筋を立てて。
「だ、旦那様まで……ッ、エドワード様をお甘やかしになさって! これでは――キィィィ!!」
まったく反省する様子がない二人に業煮やして、夫人は奇声を上げた。
これこそ前代未聞の珍事である。
周囲からクスクスと笑い声が漏れ出し、ハッと我に返った夫人が使用人達を叱り付けたことは言うまでもない。
二人はといえば、何事もなかったようにツカツカと二階に上がっていた。
その二人は近い将来の希望を語り合っていた。エドワードとまだ見ぬ子供をしっかりとした足取りで抱き上げ、二階に運ぶロイの後ろ姿は雄々しく頼もしいものだった。
アームストロング夫人に怒りの矛先を向けられながらも、使用人達は二人を惚れ惚れと見上げていた。


あの頃、神様はいないと想っていた。
これ以上の地の果てないだろうと想っていた。
これ以上酷いことは起きないだろうと、信じていた。
だけど――どん底だと、想っていた世界はみるみる変わっていった。
この世の中には地の果てはないのかもしれない。
自分が今居る場所が総てなんだ。
果てはない。
光を目指そうとする想いを忘れなければ、此処は果てではない。
ロイが自分にとって光なんだと、オレは確信したよ。
いつまでもオレを照らし続けていてね。




続く


す、すみません。
53話完結とか、嘘。でした。お、終わらなぇーよ。
次こそは…あとちょっと書きたいシーンがあるんですよ。これを書かねば、アームストロング夫人をどうにかせねば。「愛、愛」は終わらないんですね。
公約通り、エドにやっとプレゼントが届きましたよ。もぉー怖いことは起こりません!予定っふふふっ…。

桜 美由紀 2008/1/28