約束は秘密のうちに結ばれた。
                        The promise was concluded in secret.


■□■エピソード□■□



扉の隙間から細く長い光がホテルの廊下に伸びていた。
僕はそこで立ち止まっていた。


大佐から半ば押し切られるように僕は別の部屋を取り、そこで待機していた。
大佐は具合が悪い兄さんを抱えて医者に連れて行ってくれた。僕がどんなに説得しても、頑として首を立てに振らなかった兄さんだったが、何故か大佐の言うことはすんなりと受け入れたようだ。
長い時間を僕はまんじりと待っていた。待つことは慣れてはいるが、病状が重いように見えた兄さんを心配して待つのは、鋼鎧を持つ強靭な身体でも容易なことではなかった。
もう日も暮れた遅い時間に漸く大佐と兄さんは帰って来た。
兄さんは大佐の胸の中でぐったりと抱かれていた。顔色は悪く、薄っすらと汗を額に滲ませていた。だらりと落ちた左腕が病状の深刻さを物語っていた。
ピリピリとした大佐の表情は出掛ける前と変わっていない。否、もっと醜悪になっているように思えた。
その所為か、僕は何だか二人の間に割って入ることが出来なかった。
大佐から病状について僕は説明を受け、素直に頷いていた。質問をする余地は与えてもらえなかった。その場の空気がそうさせていたから。
ベッドの中で唸り声を上げている兄さんの看護でさえ、忙しい大佐が直々にするというのだ。司令室でのんびりと仕事をして、ホークアイ中尉に怒られている大佐とはまるで別人のようで、僕は面食らった。
そして、悲しいことに僕の出る幕はなかった――。
何となく最近の二人の間柄を遠目で見ていた僕は口を出せなくなっていたのも事実だ。
唯、兄さんから笑顔を奪わないのであればそれで良い。誰も責めない。相手が大佐であってもそうだ。そう思って、僕はこの場を大佐に委ねた。


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そして――僕は今此処で立ち止まっていた。
僕は扉の隙間から「いけない!」と、わかっていながらも見ていた。鋼鉄が擦れて鳴る音を出来るだけ消音にして、大きな身体を小さくして狭い隙間からその世界を覗いた。
はっきりと声までは聴こえないが、眠りから目覚めた兄さんが大佐の背に縋って泣いているようだ。他人に、否僕にさえ見せない姿だ。
悲しい泣き声がシクシクと聴こえる。全ての悲しみをその小さな身体で背負っているような、そんな啜り泣き。
それを大佐がしっかりと抱きしめていた。
僕はその姿に釘付けになった。大きく広い背中が兄さんの身体を覆っている姿はまるで恋人達の優しい抱擁に見えたんだ。
額にそっと触れるだけの優しい接吻から始まり――。
お互いを抱きしめる両腕。
銀色に輝く互い違いの両腕が伝えられない想いを此処ぞとばかりに主張していた。それに応えるように何も言わず蒼色に包まれた軍服の逞しい腕がグッと力強く抱き返していた。
言葉はないけれども二人の想いは蚊帳の外である僕にも痛いほど伝わってきた。
それから二人は見つめ合い、濡れた口唇を躊躇うように軽く口づけた。それからゆっくりと絡めるように接吻した。それは映画の濃厚なキスシーンを見るように綺麗で眼を離すことが出来なかった。
もし僕に肉体があったならば、僕は迷わず勃起していただろう。
もし僕に肉体があったならば、涙を流していただろう。
その訳はわからずとも。その意味をはっきりと言葉に表すことが出来なくとも僕はその場で涙を流していた。
人間の本能がそうさせるんだ。そして、そんな感情を持てることに僕は幸せを感じる。
僕の肉体はまだそこにあると――。手を差し伸べれば、そこにあると――。
それを感じさせてくれる兄さんと傍に寄り添う男に感謝した。
僕は此処にはない肉体を戦慄かせながら、そんな恋人達の密かな逢瀬を見て感嘆していた。
兄さんの身に何が起こったかは、聴けなかった。
だけどもう……良かった――。兄さんには彼がいた。そして、僕には兄さんがいた。
それだけだ。僕は静かにその場を立ち去った。


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パタパタとアメストリス国の国旗が風に揺られていた。見渡す限りの蒼穹の空。此処はこの国、全てを見渡せるそんな雰囲気を出していた。街の小さな路地裏まで見通せるそんな威圧的な場所。
此処は中央司令部の屋上。その一角でリンは胡坐をかいて空を見上げていた。
その精神が今、リンが支配しているかは定かではないが、それでも一つの身体に二つの精神が宿っている身体が見ている空の色は変わらないだろう。
蒼穹の空を見上げている彼は、ある男を待っていた。
背後から軍足の音がした。リンは振り向かず、横目でその男が横に並ぶのを見ていた。
「呼び出してすまなかったな」
傍にいるリンに視線を合わせることなく、ロイは空に向かって口を開いた。背筋を伸ばした姿は人柱候補で、大総統に人質を取られている身だと思えないほど壮麗であった。相手が人造人間であろうが我が道を貫き通すと姿勢で示すような態度だが。
威厳ある姿勢を崩さない彼が少しだけ、やさぐれたようにズボンのポケットに両手を入れていた。彼にとって両手を中に入れることがどれだけの意味を示しているか、横にいるリンはわかっていた。
戦意喪失。戦う意志がない事を示している。
そんな彼の態度を見て、リンは切れ長の瞳を更に細めて口を開いた。
「何だ…話とハ?」
シン国訛りの返答にロイは少し笑ったが、すぐに表情を戻した。峻厳な顔つきはまっすぐ正面にそびえる風景を睨むように見ていた。
「――あの事件の時に宿した命が――流れた」
「――!!」
主語のないぶっきらぼうな会話だが、それだけでリンは瞬時に理解してしまった。
それまで、視界にロイを入れてなかったリンがその言葉を聞いて、すぐさま顔を彼に向けて上げた。その表情は困惑を隠しきれない。
年端のいかない素のままの顔。
シン国の皇子の顔ではない。強欲と云う名に身を焦がした彼の表情でもない。
唯、エドワードを影から見守り、そして――彼を将来、シン国に連れて行こうと企てている男の顔ではなかった。
無垢な子供の顔がそこにあった。
表情も豹変して、彼から声は出てこなかった。文字通り言葉を失うほど愕然としているのだ。そんな辺りはエドワードと同年代の青年の域を超えてないと見える。
ロイはそんな彼の胸の内を組んで、澄み渡る蒼穹の空とセントラルの街並みを見ながらゆっくりと口を開いた。
「今はいつもの宿で休養している。私は――」
それからの言葉を彼に告げる為に、ロイは此処に来たのだ。
彼との年の差は離れている。子供と大人ほどの差がある。それでも、ロイの目の前いる男は一代国家を背に背負う覚悟を持ってこの新天地にやって来て男だ。
そして、その為に「強欲」という人造人間と身体を共有するという大業を成しているのだ。
同じ年頃のエドワードと目的は違っても目指す世界は広い。そして、背負うモノも重い。
それを充分わかっていたから、ロイはこの男に対等に話をするのだ。
エドワードと対等に肩を並べる者にはそれ相応の礼儀を見せるのが紳士という者だ。
「私の気持ちを伝えたよ。もう――気持ちを抑えることは出来なかった……」
ロイの瞳は空前の蒼穹を見ていた。決して、目の前に広がった蒼空に瞳を逸らすことはなかった。彼が告白したことに嘘偽りはないのだ。
けれども、呆れたように少し笑っていた。それは感情を抑えることが出来なかった自分に自嘲しているから…。
齢、三十というのに年端のいかない少年のような彼に我が身を捧げたのだから。
リンは黙って薄く笑っている男の顔を睨むように見ていた。はっきり言って先を越されたという思いが彼の中に燻ってはいたが、それでも彼が自嘲気味に笑う表情に少しばかり安堵する自分がいた。
確かに言葉か交わしていないが、あの時既に自分の中で勝敗は決まっていた。
それでも「強欲」と云う名に於いて、彼を想う気持ちを辞めようとはしなかった。挑み続けていた。
身体は颯爽と立っている男の胸倉を衝動に駆られて、掴みたい気持ちを抑えた。
そして、一呼吸間を空けた。
精神の整理をさせる時間ぐらい与えてくれても良いだろうと、リンは思っていた。如何に重責を科せられた身の上でも、この感情だけはリンも御することは出来なかった。
始めてこの身を「強欲」に飲み込まれても良いと思うほど、無鉄砲で強い欲望を持った感情なのだから。それに一石二鳥と思いはしたが、それ以上の想いがなければ「強欲」と共存できるはずもなかった。
振り絞れる理性を総動員した。
「――それで…エドは何テ…」
端的にリンは口を開いた。すると男も短く言葉を返してきた。お互い顔を合わせることなく言葉だけが蒼穹の空を駆けていた。
「何も…。――言わないよ」
この場に想いを駆けている三人。互いの想いを口に出せない四面楚歌。言葉は唯、空を舞うのだ。それでも互いの想いは短い言葉だけでそれぞに想いは伝わっていた。
どうするこも出来ない矛盾点。
だからこそ、リンは言えたのかも知れない。彼らの後を追う身なのだから。敵わないと想っているから尚のこと強気に出ることも出来るのだ。
「ならば――俺にも勝敗はあるかもナ…」
その生意気な声にロイは驚き、にやりと笑みが浮かんでいる彼に振り返った。ロイの眼前にはさすが我が宿敵という面立ちの男がいた。
あのバラック小屋で始めて、手を握り合った時から彼に驚異を感じていた。そう密かにエドワードを思慕する者としての直感だ。
ロイの胸に熱いモノがドクドクと流れる。それは競争心というものだ。敵はこうでなければいけない。ロイは挑んでくる男に強い眼差しを送った。
そして――挑戦する男の瞳も鋭くロイを見ていた。
譲れない想いがある。それは――エドワードを愛するという密かな想いだ。それを彼に押し付けてはならない。選ぶのは彼。エドワードなのだ。
それでも先に矢を放ったのはロイなのだ。そして、後を追う者はリン・ヤオ。二人の戦いはエドワードの知らぬところで火花を散らしていた。






9年間、お疲れ様でした。 荒川先生。
最高の大団円でした。一生続く思っていたものにもやはり完結があるんですね。

わかっていても――終わりはくるけど・・・二人の旅は続くんだと・・・。それで何とか胸いっぱいの気持ちを押さえ込んでます。
本当に『鋼』に逢えて良かった。
そんな訳でひじょーーーーに久しぶりですが、蔵の中から一遍。完結させます。
桜 美由紀 2010/6/11