不変の真理 〜Unchanging Truths〜 第五幕
この男も過ちを起こすのだろうか。泪目に濡れた瞳は相手の心を読んでみた。
この穢された身体が欲しいのだ。眼前にいる男は実弟によって穢された身体と心を渇望している。
幼い時分から知る男。この世界で――愛した男。
けれども――相手は男だ。
同性を愛するという行為は禁忌とされている。
けれどもそれは近親相姦と天秤にかけたらどちらが重い罪となるのだろう。
「鋼の、――私は……」
マスタングは哀咽するエドワードの肩をベッドに押した。
書籍や書類が羽音を立てるようにベッドから雪崩を起こす。マスタングの部屋に所狭し、と点在していた書籍類はベッドまで侵略していた。
その場所を何とか片付けて椅子代わりにしていたが、漸く本来の役目を取り戻した。
長い金髪はシーツの上に散り、エドワードの両手はマスタングによって拘束されていた。
エドワードは困惑していた。
「――た、大佐ッ!?」
もう一度、深く口唇が重なってきた。
先程は甘んじて受け入れていたが、今度は逃れようともがいた。
「なぜ、抵抗する」
重苦しい声が降ってきた。
おずおずとエドワードが見上げると、苦しそうな黒い瞳と出会う。と、同時に昨晩の光景が彼の脳裏を霞める。
嵐の晩は甘んじて受け入れた? 抵抗すれば、良かったのに――出来なかった。
この対照的な想いはどこから産まれるのか?
そして――接吻の意味さえわからなくなってきた。
金色の濡れた髪を乱して、エドワードは首を左右に振ることしか出来なかった。
マスタングの瞳にその様がどのように映ったのか、苦々しく顔を彼は顰めることしか出来なかった。互いの表情が酷く残虐すぎてお互いを傷つけあう。
痛すぎる視線から逃げたのはエドワードが先だった。
この身をまた――捧げるのか?
そんな風にも見受けられる彼の弛緩した肢体。
ゆっくりと視線を逸らし、強張りを解いていく様がマスタングには手に取るようにわかった。喜怒哀楽の激しい機関気の強い彼の身をこうも動揺させるとは、余程のことがあったのだろう。
それが堪らなく辛い。
乗り上げていた寝台がギシリと音を鳴らして泣いた。
そして――エドワードの曇った瞳から大粒の泪が零れた。
「――鋼の?」
ぽろりと零れるダイヤの輝きが跡を引く。背けた頬を伝って寝具に染みを作っていく。
マスタングにとって彼の存在は穢れを知らない天使だったはずだ。
しかし、今、彼の眼前にいるのは堕天使。
堕ちてしまえば――この逞しい両腕に悲壮美たっぷりの表情を面に出して、しなやかに抱かれれば良いだけのこと。甘い蜜が垂れるように悪の囁きが心を奪おうとしていた。
簡単なことだった。けれども出来なかった。
これを良心が咎めたと言って良いのかどうかは定かではない。
それでもエドワードは長い沈黙を破って拒絶した。
「……ご、ごめんッ――オレは……ッ」
後が続かない。
どう繕おうとも全ては過去の出来事。
現実が生々しかっただけにエドワードの表情は見るからに助けを求めていた。
それが緊急信号だったのかもしれないが。
「どうした?」
眉根を下げて円らな口唇に耳を傾けるが、先程少し開いた口唇はまた貝のように固く閉じてしまった。
彼への想いは長い年月を駆けて密かに温め続けてきた。漸く此処まで漕ぎ着けたのだ。
地位や名誉、ルックスに群がってくる女達。そんな彼女らに愛情を抱くはずもない。唯、その場の気分で幾多の女達と豪遊し弄んだ。が、何も残らない。何も感じない。単なる快楽を求めるだけの行為。
しかし、エドワードはそんな女達とは別格な存在。マスタング自身が彼を欲しいと…渇望したのだ。
こんな経験は初めてである。彼の高いプライドを何とか抑制しなければならないほどに。
それを昨晩の嵐が長い年月をかけて出来上がった砂の城を見事に破壊した。
だからこそ彼からこの腕に飛び込んでくるのを待っていた。自らこの檻に入ってくるのを待っていたのだ。
そんな高飛車な考えと、抑えがたい感情を惨めにも曝け出して奪ってしまいたいという想いが交差していた。
どこまでも卑怯な大人なんだろうと、腹の底でマスタングは悪態をつく。
どんなに後者を選びたかっただろう。それでも頭の片隅で計略が練られるのだ。
そんな腕でも彼の身体を抱きしめ、癒したかったのは事実。
哀切な顔は面に出さず、グッと彼の両肩を掴んでいた。
その強さだけが、マスタングの想いを素直に表していた。
「痛ッ――っ…」
骨が軋むほどの痛みをエドワードは身体に感じながら、どうすることも出来なかった。
けれども感情は咄嗟に反応した。
このまま、身を預ける訳にはいかないのだ。
そうすればどんなに楽だろう。
わかっていても――ふと気を緩めると錆色の鋼鉄が此方を見ていた。
冷たく、暗い視線。その感情が読み取れない眼が見ていた。
刺すような痛みを胸の鼓動がずっと感じていた。
そして――この言葉が繰り返されるのだ。いつの日かこうなるとわかっていたと。
エドワードは力を振り絞ってマスタングの身体を押し退け、淫猥な香りが残るベッドから抜け出した。
グッとシャツの胸元を押さえ、細かく身体を震わせ壁を背に立ち尽くしていた。
その姿は神への懺悔と一緒。
「エドワード……」
字ではない名前を耳に馴染む低音でゆっくりと呼ばれると、迂闊にも顔を上げてしまう。
心で泣いた。
喜びに泣いた。
この時をどれほど待ち望んでいただろうか。我ながら天邪鬼な性格に呆れもする。
が、全ては最大の禁忌を犯した後の話。
沈黙がこの身を守護するのか。それとも――真実を伝えるべきなのか。
選択肢はそう幾つもないのだ。
長い沈黙が痛い。
昨晩とは打って変わって澄み切った晴天。
健康的に朝の挨拶を交わす、鳥達の囀りだけが強く響いていた。
この日、マスタングは唯の一言も彼を責めることはなかった。寡黙に彼の言葉を待っていた。傍から見れば、物分りの良い男かもしれない。
が――実際はエゴの塊。
聞きたくとも聞けない。己が傷つきたくないのだ。
男女の恋愛などゲームの駆け引きと一緒。
遊びの恋ならば幾らでも嘘をつけた。その所為で相手から捨てられても、一向に構わなかった。
所詮、遊び。真意など一つもない。
嘘と策略に満ちた軍社会で出世した。何一つ真実を告げられない世界。
そんな中、小さな種を見つけた。
長い歳月を駆けて鋼のように強い可憐な大輪の華を咲かせた。その華に恋した。
華の名はエドワード。
エドワードに対する想いだけは本物。初めて――自分から欲しいと、愛しいと想った。
だから拒絶されたくない。
彼に選ばれたいのだ。
漸く、長い沈黙が破られた。
切迫していた空気がほんの少し流れた。
エドワードは顔を隠すように乱れ落ちた前髪を気だるく掻き上げ、切ない顔つきでマスタングと一瞬だけ瞳を合わせた。
けれども直ぐにその憂い気な瞳は逸らされてしまったが、エドワードの覚悟は出来た。
大きく息を吸い込むように口唇は開いた。
「――大佐ッ……ごめん。俺に時間をくれ……」
マスタングは項垂れたエドワードの金髪を掴み上げ、顔を上げさせた。
濡れた飴色の瞳が覗き込んでくる。飴色の泪はさぞや甘いことだろう。直ぐにでも瞳に接吻し、甘い口唇で心を交わしたかった。
だが、エドワードの口唇から無慈悲な言葉が囁かれた。
「――アルと……話してくる…から…」
それで全ての謎が解けた。
薄々感づいていたが、それを自分の都合が良いように言い聞かせてきた。
騙して、騙して――これでは軍社会と一緒だ。
それでも純粋に彼を想っていた。
だからこそ真実に気づいたこの時、マスタングは激昂のあまり身震いした。
けれども嫉妬に駆られ、澱んだ想いをエドワードに知られたくなかった。
大人の美しくも汚れた言い訳を――見せたくない。
エドワードという穢れても純粋な青年に無様な男の性を見せたくない。
激昂の余り黒い瞳に焔が燃やされたが、瞬時に鎮火させた。
後ろめたさから二人は眼を合わせられない。
互いに好都合だったかもしれない。
けれども畜生にも劣る行いを――その秘密を知ったマスタングにも衝撃は走っていた。
人の世の矛盾に我らは迷い込んだのだ。
それでも――マスタングはこう応えるしかなかった。
「……わかった」
と、唯一言告げるのみ。
酷く嗄れた低音がエドワードの耳元で囁かれた。
がくりと身体の力が抜ける寸前をマスタングの腕に助けられた。無言で崩れる身体を男は抱き止めたのだ。
逸る鼓動が互いの耳に届く。
けれども互いに長居は出来ない。
一瞬だけ――互いの心が交差した。透けるように美しい想いが、心に満ちてすぐに離れた。
そして、直ぐに二人は互いを押しやるように背を向けた。
エドワードはその背で哀しい呟きを聴いた。
「私も――愚かな人間の一人だ」
と、切なく後ろ髪を引く声音にエドワードは何度も振り返ろうとしたが。
出来なかった。
「ごめんなさいッ…」
切なく、謝るエドワードの声も消え入りそうだ。
謝罪の意味が重すぎて、それ以上口を開くことはままならない。
エドワードの行き先は扉の向こうで闇を彷徨うアルフォンスの処。
そうとわかっていても、マスタングは止められなかった。アルフォンスの屈折した想いに拍車を掛けたのは自分の存在が関係している。
熟知していた。
確信犯は私なのか――。自分の存在を苦々しく思う。
今は傍観者でいればこの苦しみから解き放たれると、信じるしかない。
桜 美由紀 2008 3/22*