不変の真理  Unchanging Truths  第一幕


一晩中まんじりともしないまま、闇夜は明けようとしていた。
あれだけ激しく降っていた雨は上がっていた。朝を告げる橙色の光は、カーテンが引かれていない窓から燦然と射し込んで来た。
二人とも眠った気配は感じられなかった。
黙然としたまま、アルフォンスは「兄さん」だった人の背中を腕の隙間から見ていた。
死んだように動かない、うつ伏せた肢体。
金色の長い髪が傷ついた肢体を隠すように覆っていた。
微かに空気が動く気配に気づき、アルフォンスは咄嗟に顔を上げた。
「……ッ」
両腕を気だるくベッドに突いて上体を起こす、エドワードの姿態に声も出なかった。
憔悴した身体が不安定によろめきながら、漸く床に両脚は下ろされた。
白いシャツだけが辛うじて肩に掛かっている薄い身体は情事の名残を刻銘に残していた。
その姿態を眼前に捉えて、咄嗟に顔を背けてしまう。が、アルフォンスの視線は予期せぬ場所に縫い止められていた。
昨晩の出来事が嘘ではないという証。
下肢から流れる自分の残滓と兄の身体を傷つけた血の痕。
――兄弟で交わってしまった。
犯してはならない最大の禁忌。
己の所業に歯軋りし、目を背けてしまいたくなる。それでも、アルフォンスは声を絞り上げるように声を出した。
「にぃ、さん……」
その声が届いたのか、金糸の髪に隠れていたほっそりした撫で肩が敏感に跳ね上がった。
けれどもエドワードの背中は語っていた。
拒絶という文字を。
アルフォンスはかさついた口唇を噛みしめた。何かに縋りつきたい想いを表すように、汚れたシーツを強く掴んだ。そして、蹌踉とした足取りで寝室を出て行く兄だった人を見つめた。声を掛けることも、手を差し伸べることも出来ない。

もう僕に笑顔を見せることはないだろう。
僕の名を呼んでくれることもないだろう。
失った価値の大きさを今更ながら知ってアルフォンスは項垂れた。


*         *         *


白い陶器が陽に辺り光彩を放っていた。
清楚な色とは相違した黄金のアヒル脚がバスタブを絢爛に魅せる。艶っぽいその内装は大人一人をしまうのにちょうど良い大きさ。
そんな場所がエドワードの逃げ場となっていた。
両腕で膝を抱え込み、身体を小さく曲げてしまえば独自の世界に浸ることが出来る。
そして――全てを無にすることが出来るかもと幻想を抱かせる。
頭上からは激しく流水が流れ落ちていた。
その降下する水滴が現実の世界に戻そうとするけれども醒めて欲しくなかった。
迸る水滴と一緒に固く瞑った瞳から滲み出る泪。頬を這う泪はしょっぱい味がする。それでやっと自分が泣いていることに気づく。
冷たい雫は身体を敏感に震え上がらせて、強引に抽入させられた汚濁が下肢の緩んだ口から押し出されていた。
白濁した精子と体液に身震いしながら、再び禁忌を犯した自分に恐怖を感じる。
ほんの数刻前の記憶が鮮明に身体を這いずり回る。
アルフォンスの切ない顔と愛欲に溺れた顔。エドワードは小刻みに戦慄く身体を両腕で掻き抱いた。
正直――怯えた。
そして、アルフォンスの欲情した雄が容赦なくエドワードの身体に捻じ込まれた瞬間。
世界が破壊された。
「あぁぁぁ――もう勘弁してくれよ…ッ」
奥歯を噛みしめた声音が押し出される。戦慄く身体を己の両腕で掻き抱いた。
この身体を支配した腕が弟の生身の腕でなく、他人の腕ならば良かったのに――。
蒼い軍服が颯爽と似合う黒髪の男ならばどんなに救われただろうか。
理想と現実の乖離。
なんて人間の心とは弱いものだろう。
だから――過ちは繰り返されるのだ。
更なる悔恨を抱く自分に悪態を突きたくなる。
それでも――僅かばかりの救済が欲しかった。
何となく……こうなることは予想していた。
互いの肉体を取り戻してから、それは謙虚に現れていた。
アルフォンスが触れてくる肌が――熱くて逃げ出したいと何度も感じた。
単なる戯れだと、心の隅っこにある良心がそれらを抑えていた。
だけど――触れ合った肉体は本能的に共鳴して弟の心の奥を覗いてしまう。
そして、とうとうどろどろと渦巻いていた灼熱の溶岩が噴出し、襲い掛かって来た。
「……ふッ、自業自得なのかッ――救われねーな」
押し殺した嗚咽の所為で孤独な背中は辛そうに震えていた。
俺はこの瞬間から色めく世界を失った。全てがモノトーンの灰色の世界に変わっていた。


ガタガタと隣室から物音が聞こえ出した。
一睡もしていない頭は朦朧としていた。
それは――兄さんも一緒だろう。それ以上に兄さんには酷いことをしてしまった。
無抵抗な実の兄を殴って犯したのだ。
罪悪感はしっかり持っていた。けれども昨夜の嵐を思い返せば、心の片隅に悠然たる態度で命令している自分がいた。
そんな腹黒い自分が寝室から出てもそこにいるはずの人は迎え入れてくれないだろう。
それを知っていてもアルフォンスは憔悴した顔で重い扉を開いた。
「――ぁ、」


顔を合わせても何を言って良いのか、わからない。
それなのに迎え入れてくれないと思っていた人はちゃんと此処にいた。
そして、アルフォンスと向き合おうとしていた。

実行犯の癖に小心者。
僕は自分という生き物がとてもちっぽけな器だと、この瞬間嫌と言うほど実感した。

「ぉ、はよ……アル」
声は擦れていた。
けれども彼から名前を呼ばれてアルフォンスは目を見開いた。
一睡もしていないのに夢を見ているようだ。
だけど嘘ではないと――視界に映るモノが嘲笑うかのように訴えてきた。
エドワードの傷ついた頬の痣。
昨夜、無抵抗なエドワードを激情に任せて殴った痕。
と、赤く泣き腫らした瞼。
「に、兄さん…」
躊躇いながらも、兄だった人の名を口にしてしまう自分に唖然となる。
「朝飯――おまえどうする?」
平淡に声を掛けてくるが、普段とはまったく違う態度だ。
嬉しく思うが、その反面どう対応して良いか躊躇ってしまう。意識とは反比例して笑っている手首が恨めしく、そして――えげつない。
「あっ、いらない…」
顔は合わせてくるけれども、互いの酷似した金色の瞳は合わそうとしなかった。
「――そうか。オレ、ちょっと出掛けてくるな……」
少し顔を逸らした拍子に金色の髪は滝のように顔を覆い、肩から背中に流れていった。
アルフォンスはその動きをつぶさに目で追っていた。
奥歯を強く噛みしめた。苦い想いが蘇ってくる。
『どこへ? 誰に逢いに行くの?』
返したい言葉は喉元で詰まっていた。
エドワードの変わりない言葉は実を言うと自分をどん底に突き落としている。
そして――昨晩の嵐の記憶が鮮明に蘇ってくるのだ。

酷いのは『兄さん』も一緒だ。傍に入れば互いを傷つけあう存在。
所謂、諸刃の剣。
そうとわかっていても僕は――兄さんに触れたかった。



桜 美由紀 2008 3/22