不変の真理  Unchanging Truths  第二幕


夕刻から雨脚は酷くなっていた。
酷くなる雨の所為でエドワードの取り戻した肉体の結合部は痛みを生んでいた。
リビングに顔を出したエドワードは軋む右肩に視線を向け、その箇所を擦っていた。彼の腕には黒いロングコートが握られていた。
ゆったりと書籍を読みながら珈琲を飲んでいたアルフォンスは徐に顔を上げた。
『どこか行くの?』
『あぁ、そうだけど? どうしてそんなこと聞くんだ』
尖ったアルフォンスの言い方にエドワードは少しばかり顔を歪めた。
『こんな大雨の日に行かなくても良いじゃない』
アルフォンスの瞳は冷ややかに、エドワードの行動を阻止していた。返答がなくとも素行は知れていると、言わんばかりの回答にエドワードは苦笑いする。
『……う、うん。まぁ〜な、でも借りてた物返さなくちゃ』
誰に返しに行くのか、言わないエドワードの態度にアルフォンスの顔は訝しくなる。
正直に言えば良いのにと、アルフォンスの胸中で悪態を突いていた。けれども声に出してしまった。
『そんなのいつでも良いじゃないか!』
素っ気なく言い返すと、聞きたくない言葉がエドワードの口からするりと出てきて、アルフォンスは絶句した。
『そういう訳にもいかないんだよ。約束してたからさッ』
“約束”という言葉にアルフォンスの中で何かが切れた音がしたからだ。
アルフォンスは激しく音を立て、椅子から立ち上がりエドワードの前に立ちはだかった。生身の身体を取り戻した当初はエドワードよりも身長も体格も劣っていた。
けれども日が経つにしたがって、アルフォンスは生来の成長を取り戻し始めた。
エドワードの前には憤然とした青年が彼を見下ろしていた。
『行くな!』
自分より華奢な両肩をアルフォンスは強く掴んだ。
彼の瞳には青い焔が燃えていた。抑えきれない激情の火柱は消火出来ない。
『痛いぞ、アル? 何、怒ってんだよ? ちょっと行ってくるだけさ。すぐ戻ってくるよ』
真摯な顔つきのアルフォンスにエドワードは訳もわからず眉を下げる。
『ダメだ! 大佐のところには行かせない!』
“大佐”という名にエドワードは咄嗟に眼を逸らし、それを取り繕うように茶化した声を上げた。
『何ッ、寝言いってんだよ。もう兄ちゃん怒るぞ』
ロイ・マスタングという名を否定しない兄。
ぶるりと激情が脊髄を巡回していくのがわかる。
アルフォンスが胸に溜めていた灼熱の想いが爆発した。
破滅への序章とわかっていても――声に出してしまった。
そうすることで何かが、変わるのだろうか。
否、それも後の祭りだ。
声色を恐ろしく低めて、アルフォンスは禁句を発してしまった。
『大佐に抱かれるんだろう』
エドワードの身体が一瞬にして強張り、思わずアルフォンスを凝視してしまう。
『?』
『大佐としてるんだろう!』
『違う!!』
エドワードの強い否定がアルフォンスには肯定の意味に変わる。彼の狂気が面妖に現れる。
『―――……ッ』
『放せよ。アル、おまえ変だぞ!』
『ダメだ!』
『約束してんだ! 退けよ。アル、頼むから…ッ』
エドワードの懇願はアルフォンスが引いていたギリギリの境界線を越えさせてしまった。
『ど、どうして……なんだよッ』
歪んだ顔に悔し泪が浮かんでいた。

だけど懇願する兄さんの瞳に僕は映っていなかった。
それが腹立たしくて。
こんなに傍に――近くにいるのに、生身の身体で触れられるのに――。
一番近くにいて、一番遠い人。
その人を僕は暴力という名で抑圧した。

『ウッ……っ』
気づけば右拳が容赦ない力でエドワードの頬を殴っていた。
倒れ込んだ身体に乗り上げて、襟首を掴んで更に殴り掛かった。
エドワードは殴られながら、茫然とアルフォンスが零す涙の行方を魅入っていた。
本当は抵抗できたはずだ。
それなのに――出来なかった。否、しなかった。
抑えきれないアルフォンスの欲情が流れ込んできて、どうすることも出来なかった。
受け止められない癖に……。矛盾する想いがエドワードを支配していた。


怯えて揺らめく琥珀の瞳に自分は映し出されていない。

そうなのだ。僕に組み敷かれながらも兄さんはあの男を感じていた。
あの男がいつも邪魔をする。
全てはあの男の所為だ。
あの男が僕から兄さんを奪ったんだ。

そんな歪んだ憤懣も重なってアルフォンスは声を張り上げた。
『兄さん、なんでなんだよッ――』
蒼い閃光と共に雷鳴が轟いた。
切れた口端から流れる鮮明な赤。
両腕はしっかりと掴まれて、床に貼り付け状態。
抵抗しないエドワードの口唇にアルフォンスは戦慄く自分の乾いた口唇を重ねた。
生身の身体で初めて兄さんに接吻した。
鉄の味が先行した。それからゆっくりと熱を、温かいと感じた――。
触れたかった人の肉に触れた感触で全てが満たされようとしていた。

アルフォンスの情欲に駆られた端整な顔が、近づいてきてもエドワードは顔を背けることは出来なかった。
エドワードはその背後に映る幻影を見つめていた。
まったく違った色合いを持つ男が覆い被さってくる姿を潤んだ瞳は映し出していた。
救いを求める自分はとても厚かましくて――浅ましい生き物だ。
重ねられた口唇からはこんな時も鋼鉄の味がしていた。
堕ちていく感覚に陶酔している自分に吐き気を感じた。


*          *          *


アパートを出たエドワードだったが、扉を後ろ手で閉めた後、ずるずると身体が落ちていく。
「クッ、痛っ――……」
重ねた拳に額を擦りあて、顔を歪めて堪えていた涙を零した。
扉の厚みを隔てて、アルフォンスは兄の背に手を伸ばすように崩れ落ちた。
「にいさん…」
扉一枚の鋼板がとても厚い障壁となっていた。

禁域は薄い扉の向こうにあった。
ほんの少し押しただけで開いてしまう。そして、あちら側の世界にすんなりと身を落とすことが出来る。魔性の如き聖域。
この扉が永遠に開かれないことを祈りたかった。
そうすれば――この想いをぶつけ合うこともないだろうに……。

気づけば、扉をノックする自分がいた。
躊躇いを感じながらも縋るようにこの部屋へと足を運んでいた。
気づいた後で叩いた右手を押さえ込んでいた。
人の気配を敏感に感じる己の身体能力にこのときばかりは嫌気がさした。
此処へ来るべき人間ではないと、わかっていた。
けれども――行く手のない自分は茨の路を自分で選んでいたのかもしれない。
小さな音を立て開いた扉に動揺しつつも、その隙間から現れた顔に些か安堵した。
不機嫌な声音が当たり前のように上から降ってきた。
「鋼の、?」
「ぁ、あ……ごめん。遅くなった――」
今の自分がどんな顔色をしているかなど、見る余裕もなかった。着の身着のまま、この場へ逃れるように来たのだから。
腫れぼったい顔のまま上を向くと、眉根に深い皺を刻んだマスタングの視線が痛い。
「遅い……」
機嫌の悪い低音は今のエドワードを酷く卑屈にさせた。
「わ、わりぃ…」
眉間に皺を寄せ、明らかに徹夜をしたらしいクマのはった目がすごんできた。
幾分後ずさりして、用件だけ述べて帰ろうと踵を返そうとしたエドワードの腕は強く掴まれた。
「ぁ、!?」
「中に入れ」
見慣れない背中が視界を覆っていた。
振り切って逃げたい。
けれども――強く握られている腕は熱くて痛い。
思わず、その暑さに昨晩の出来事が走馬灯のように駆け巡ってきて、引きずられる身体と相反して気持ちは逃亡していた。
「クッ――…」
無意識に噛みしめた口唇から鉄の味がした。
気を抜けば、充血した瞳から涙が潤みそうになる。悟られないように、エドワードの視線は床を眺めていた。




桜 美由紀 2008 3/22