不変の真理  Unchanging Truths  第三幕


強引にもてなされた私室は想像を絶していた。
まずは――自分の居場所を確保するのに四苦八苦した。
マスタングの私室を勝手にイメージしていたエドワードは度肝を抜かされていた。
彼と接見する場所はいつも綺麗に整頓された部屋が多かった。そして、それが当たり前と思っていた。ほこり一つ見つからない清潔な執務室。謀略を好む彼の性格をもろに現した非の打ち所がない執務室だった。
だが、現在エドワードが置かれている場所は考えられないほど荒んでいた。
司令部でのマスタングの威厳が崩れていく。彼を馬車馬のように叱りつけゴミを拾わせ、整頓を言い聞かせている人間の姿が直ぐに思い浮かんだ。
その人物がいないとなると、見る影もなく荒んでいく部屋。その部屋の一角にエドワードは爪先を立てて立っていた。
今見ている此処は一体何なのだ。もしかして――書斎なのだろうか。
書類、文献、ペンに食べ物?…等、デスクだったと思われる場所に所狭しと物体が並べられている。エドワードがじわじわと場所を確保する足元にも、その痕跡は残されていた。
爪先立ちする脚を交互に変えて、ゆっくりとマスタングの後を追っていく。
「ぁ、あの……」
「あーすまんね。色々立て込んでいてね。気にせず、その辺に掛けたまえ」
そう言われ、訝しげに辺りを見回すエドワードの周囲に彼が座る場所はあるのだろうか。
「す、座れねぇーけど…」
エドワードは辺りに散らかった物体を片付けながらやっと自分一人が座れる場所を確保するので精一杯だ。
それに対してマスタングは別段悪びれた様子もなく。散らかった物を手荒く退かし、極当然のようにどっかりと座った。
「普段はこうではないんだよ。君が――その文献を早く持ってこないからねぇ。こうして家捜する羽目になってしまったんだよ」
マスタングの顔は気味が悪いほどにっこりと歪み、エドワードを見下ろしていた。
「ぁ…ホント、ごめん。早く返しに来る予定だったんだ――けど…」
言葉に詰まってしまう。
昨晩の情事が生々しく蘇ってくる。否、あれを情事と呼んで良いのだろうか。
動物と一緒の性交だ。
親兄弟関係なく交わって子孫を残そうとする動物。―――それ以下の人間。
未だに、エドワードの下肢は銜えた事がない積載が支配して呻き、腰を下ろした拍子に疼痛が脊髄を通過し、夢ではないと知らしめられていた。
この穢れてしまった身体の中で燻る微熱が現実を伝える。
そう――それが禁忌を犯した証と。
疼痛をやり過ごそうと、じっとしているエドワードを不思議に思ったのか、マスタングが飄々と声を掛けてきた。
「何か、あったのか?」
ぼさぼさの黒髪の男から繊細さは微塵も見えない。
司令部にいる男とは別人のようだ。無精ひげに何日も眠っていないと思われる渋く刻んだクマがそれを深く物語っていた。
いつもプレスが掛かっている真っ白なシャツは此処には見当たらない。
よれよれの普段着を着こなしている男が疑わしき横目で見ていた。
「エッ…? 何も――」
ギャップの激しさに気の利いた言葉が出て来なかったが、それ以上に疚しい想いがエドワードを支配していた。
しかし、彼の後ろめたさの影に誰が見てもわかるほど琥珀色の瞳は艶やかに潤んでいた。
禁忌の重さと……。実弟が己の身体を望んだこと。総てがエドワードのなげた両肩に圧し掛かっていた。
それなのに――その意味を否定したくて他人を頼っている自分。
エドワードは身の置き場をなくしていた。
此処に現れたときから、エドワードの様子は違っていた。何やらどんよりと重い厚雲を身に纏っていた。
けれども、何も告げない一文字の口唇の所為でマスタングには何が起こったか、否が応でもわかってしまった。
幼いときから彼らの後見人をしてきたマスタングだ。
彼らの意図すべき考えを読み取ることは容易に出来た。
乱れた髪を結いもせずに、誰かに抱かれてきたとばかりの余韻を漂わせている肢体。
美麗な横顔は苦痛に歪み、痛々しくも頬は腫れていた。
何があったのかと、聞くまでもなかった。
そして――その相手を……。
わかっていたのだ。
禁忌を犯した二人。
だからこそ願っていたのかもしれない。あの日から。出遭ったあの日から。
これ以上の禁忌はご法度だと。
それは言わずともわかってくれと――願っていたが、恐れていたことが現実となってしまったのだ。
秘めた想いを他人が抑えようとしても、良い効果は見出せない。かえって、拍車を掛けてしまうことがある。
だからこそ――ひっそりと願っていた。
が、それが裏目に出てしまったのだ。マスタングは己の判断の甘さを恨んだ。
それを決して彼に、彼らに悟られてはならない。
こうなる日を知っていたのだと、口が裂けても言えない。
確信犯が此処にいる。
蒼い焔を密かに燃やす確信犯は激情という感情をぐっと押さえ込んだ。
瞳を合わす事が出来ないから本心を悟られないように、わざと表情を戯けたように崩した。
卑怯な大人はこうして、手に入れたいものを手にしてきた。
心を交わしてきた盟友を恋人へと願った雨嵐の酷い日。
マスタングは警戒していた青年に愛人を寝取られたのだ。
是が日にも独占欲は沸いてくる。
大人気ないと、言われるかもしれないが。それでもこの閉鎖された社会にいる軍人には身体を満たす者が――心を満たしてくれる人が欲しかった。
そして、それは煮え滾る想いを隠して彼を手に入れなれば意味がない。
マスタングの生来の性格が厭らしく蠢いてた。
低く、声音を殺して残酷な話術で彼を追い詰める。
じわじわと――誰にも気づかれないように、彼を手中にするために策略は燃えていたのだ。
けれども結果は。それを公表してしまうと――大人のエゴは戒律を必死に守っていたと、言えるだろう。
「君は、そうやって何もかも自分で背負おうとするのか」
揶揄したとも思える表情にマスタングの思惑は読めない。けれどもその所為でエドワードの固い口は安易に開かれた。
「そんなことはない――もう、そうする必要もないと思っていたッ……けど…」
歯切れの悪い言葉はマスタングに何か聞いてくれと、催促しているように思える。
無精髭を伸ばした顔が急に覗き込んで来た。
「な、なんだよ?」
咄嗟に仰け反ったエドワードの身体は大きな音と埃を舞い上げた。
「うわぁーーー!?」
大きく上体を崩してエドワードは所狭しと、点在する書籍の山に埋もれてしまったのだ。
「ッっ、痛ってぇーな!」
間抜けな転び方をした自分を鼻で笑っているであろう男を無愛想に見上げると、予想を反してマスタングの真顔が一瞬だけそこにはあった。
目にクマを作った険しい顔は軍部で見慣れた飄々とした司令官の顔ではなかった。
エドワードはその刹那に鼓動が高鳴った。
だが、直ぐにその鼓動は鳴らしてはいけないと警笛も鳴っていた。
止まった時間が動き始めると、直ぐにマスタングの顔つきは元に戻っていた。
「ふぅぅん、大変そうだね。で――私に泣きつきに来たのか?」
年の割りに幼い表情が戯れるように近づいてきて、エドワードは面食らってしまう。
自身の疚しさゆえか。はたまた、マスタングの戯れなのか。
計りきれない何かをこの男は持っていた。
眠気眼を擦っているマスタングはエドワードの挙動不審な動きに警戒もせず、揶揄しつつ唐突に立ち上がった。
そして、彼は無聊な態度でこう言うのだ。
「――珈琲でも淹れよう。数多の女性達が競って淹れようとするが、誰一人……淹れた女性はいなかったな」
間延びした彼の声音に感情が読めない。
その所為か、生来のエドワードらしい憎まれ口が叩かれた。
「こんだけ片付いてない部屋なら誰でも淹れられなくてあたりめぇーだ!」
肩で激しく息をしながらマイペースなマスタングを一喝したが、効果はなかった。
「――あぁーそうなんだ?」
惚けた顔で手を合わせたマスタングはにやりと不敵な笑みを漏らして、キッチンらしき場所に身を隠し、珈琲を淹れるために動き始めた。
陶器が重なり合う高音が騒々しく、エドワードは思わず耳を押さえた。
まずはキッチン内の家宅捜索から始まるマスタングの行動にあきれ返ってしまう。
が、ふっと気づけば今まで刺すように痛んでいた胸が和んでいた。
ホッと一息、新鮮な空気が吸えた金魚のようだ。そんな気の抜けたエドワードを柱の影から見つめたマスタングはキッチンの中を更に騒々しく荒らした。

しかし――マスタングの心には奥深いものが隠されていた。
大人の事情という矛盾に挟まれたマスタングは苦笑していた。エドワードに悟られないように。
本当は直ぐにでも抱きしめたかったのだ。
だけど……出来ない。

長い時間を掛けて淹れられた珈琲はさぞやうまいことだろう。エドワードの片頬は引き攣りながら、カップを受け取った。
予想を反して手渡されたカップは温かく、それがささくれた心にしっくりきていたことに嘘はなかった。少しだけ、現実的な感覚が自分の身体を支配していく。
エドワードは胡散臭そうにカップの中身を嫌々流し入れた。



桜 美由紀 2008 3/22