不変の真理  Unchanging Truths  第四幕


熱かろうと、冷たかろうと関係がなかった。
肝心な味も無視して兎に角流し入れた。すると意外な言葉が憎まれ口を叩いていた口唇からほのかに漏れた。
「ぁれ、ぇ…? うまい」
声に出すつもりはなかったが、勝手に口が暴走していた。
一驚を喫した口元にエドワードは思わず手をやってしまう。
けれども一連の動作にマスタングは嫌な顔一つせず、にやりと不敵な笑みを見せていた。
「勿論だともこの私が淹れたのだからね!」
彼の自信満々な顔つきにエドワードの強張っていた頬は緩んでいた。
今迄、ずっしりと重い物を抱え込んでいた感情が一変していた。エドワードは驚きつつも眼前で鼻を高くし、得意気に講釈を垂れるマスタングを薄く笑った。
この自信に満ちた瞳に何度となく惹かれた。
懐かしい記憶がエドワードの脳裏に浮かんでは消えて。
蒼い軍服の男と金色の少年。それと鋼鉄の実弟アルフォンス。そんな奇妙な三角関係が始まったのは、随分と昔になる。
そして、一番身近にいた実弟の想いにエドワードが気づき始めたのは……いつ頃からだろう。
暗に俯いた顔で口唇を噛みしめていると、マスタングの手が優しくエドワードの顎を上げさせた。
「エッ!?」
すっかり遠くに意識をやっていたエドワードだ。うまく対処できない。身体は男の行動に成すがままとなる。
あっけなく顎を引き寄せられ、口唇を塞がれた。
熱を持った口唇が生ぬるくかさついた口唇に覆われると、それまで張り詰めていた身体から空気が抜けていく。
昨夜の余韻を残した身体は他人の体温を敏感に感じてしまう。
足の先端、親指の先からじわじわと血流が上昇していく感覚に酔っている。
目を皿のように丸くしていたが、少しばかり視線を泳がせて金色の睫毛を閉じた。
真っ暗な闇が訪れると、鼓動が急に激しくなる。
罪悪感が目覚めた瞬間、自分に嫌悪感を抱いた。
何故――どうして――嫌なのか? この時を願っていたのに。
この場で結論を出すには、難題なことが多くて……うまく思考が纏まらない。
たっぷり時間を掛けて舐め取られた口唇が漸く解放された時には、自分と言う自我を遠くに飛ばしていた。
「鋼の、鋼の?」
遠くで字を呼ばれていた。
それが幻聴のように聴こえる。『兄さん、兄さん』と――耳に馴染んだ声音に変換されてしまうのだ。
先刻まで切なく呼ばれていた声とはまるで正反対で戸惑っている。だけど耳に深く刻まれている激しい暴風雨の中で囁かれた声音は苦しいほど、熱くて――そして痛かった。
両腕が解放されていたら胸を鷲掴みにしていただろう。
絡められた指がそれを許さなかっただけだ。
今は――別の感情が支配していた。
はっきりとわかるのは安堵感と敬慕の念と……あと一つ、愛しさ。
それが最大のネックなのだ。
「た、大佐――ッ」
虚ろな瞳が闇色の瞳を躊躇いながら見上げた。
珍しく年相応に見えるマスタングの顔が憂苦に眉を下げて、エドワードの濡れた頬を撫でていた。
涙を拭われるまで、エドワードは自分が無様に泣いていることに気づきもしなかった。
花が散るように零れた涙の雫はマスタングの無骨な指で弾かれた。
「相当――殴れたな」
戯れた態度でエドワードを迎えていた男が、やっと漏らした底意はエドワードを奈落へと堕とした。
甘い余韻は瞬時に消え失せ、あるのは罪悪感と――……渇欲。
エドワードは咄嗟に細顎を掴んでいた彼の右手を振りほどいた。
濡れそぼった金糸の睫毛は石のように重い。エドワードが零した雫は黒いジーンズを濡らしていた。じわじわと広がっていく泪の海は揺れる心を表していた。
湿った金髪と一緒に首は酷く項垂れていた。真っ白な項がマスタングの視界に妖艶に浮かび上がる。ごくりと、生唾を飲みたくなる光景だ。そんな魅惑に誘われ、マスタングは長い絹糸のような金髪に指を絡め、俯き泪をはたはたと溢す青年の顔を上げさせた。
まだ湿った長い金髪が昨晩この部屋に来れなかった理由をマスタングに教えていた。
若輩者でありながら、着実に功績を上げて出世しているマスタングには強力な武器があった。優秀な頭脳、体技、容姿、仲間、上司――など……。
上げれば切がない。
恵まれた才は時として妬みを買うものだ。それによって幾多の優秀な軍人が消されただろう。マスタングはそれを長けた読心術によって切り抜けてきたのだ。
そのマスタングが溢れる泪を自らの手で拭うことも出来ない青年を前にして、困惑していた。
純粋に流れる雫はとても綺麗だ。触れてはならないものを眼にしたようだ。触れている手が不本意ながらも震えていた。
けれどもその泪の深い意味を知るには――何かが足りない。
何が足りないかと、問われてもその成分はすぐに調合出来る物ではなかった。
エドワードには、ゆっくりと時間を掛けてマスタングの秘めた想いを伝えてきたはずなのに何者かが邪魔をしたと、それだけは直感した。
温めてきた想いが弾かれ、大人気なくもマスタングの表情が醜く引き攣った。
得意とする読心術もこの場ではまったく役に立たない。そして、自尊心という名が穢されたことにマスタングは酷く傷ついた。それを誤魔化すようにエドワードが誰かに奪われる前に自分が強引に掌握すれば良かったと、身勝手な思いを馳せた。
人間の心は都合よく捻じ曲がるものだ。



桜 美由紀 2008 3/22