不変の真理 〜Unchanging Truths〜 第六幕
狭い空間では嘘はつけない。
全てがなかったことにされていたと、想っていたけれど――。
やはり変化はあった。あの一夜が施した後遺症はちゃんと存在していた。
そして――その意味を僕は日毎、刻々と知らされる。
初めは全てが夢の出来事のようだった。
普段と変わりない朝が始まって夕暮れと共に就寝する。そんな生活の中で僕だけが、ぷかぷかと浮いていた。
「兄さん、ご飯出来たよ」
と、食器を差し出せば極普通に仏頂面を含んだ笑顔が返ってきた。
どうして兄さんは笑っていられるのだろうか。あの禁忌の夜はその程度のこと?
僕には兄さんが理解出来なかった。
そして――治まらない微熱が僕の身体を駆け巡っていた。
「サンキュー、アル?」
あの日から僕は兄さんに触れていない。
本当は触れたくて堪らない。
目の前にその対象がいるのに……蛇の生殺し状態だ。
どろどろと熱くて穢れた性欲は溜まっていくばかりで吐き出す術をいつも考えていた。
「アッ、――んぅ、そこに置いて……」
「OK!」
兄さんの軽快な声に僕はしこりを感じる。
テーブルにセッティングされた食事を二人で囲んで食べる。
アルフォンスが鋼鉄の鎧に魂を宿していた頃、エドワードはこの時間がとても嫌いだった。
後ろめたくて堪らなかった。
一人だけ食事をする。その行為事態がまるで神への懺悔だった。
けれどもアルフォンスが生身の身体に戻ってからは、楽しい時を二人過ごしていた。
それは母親が生きていた頃を思い出す情景だ。
母子揃って食卓を囲んで今日起きた出来事を競うように母親に話し、時よりそれで喧嘩にもなる。
現在はその母親は他界していないが、兄弟二人で錬金術の話題に花を咲かせている。
仲良く――傍から見れば、そう言える。
けれどもその均衡は既に崩れていた。
キッチンで食器を洗っているエドワードの後姿をアルフォンスは眺めていた。
どこかぼんやりしているのはアルフォンスだけではない。あの日からエドワードも物思いに耽ることが多くなっていた。
エドワードの背中をアルフォンスは柱に身体を預けて、物憂いげに見ていた。
以前だったら、じゃれる様にその背中に抱きついたことだろう。
そうすると決まって。
『ベタベタするなよ!』
と、エドワードに叱られていた。
それでもアルフォンスはにやりと笑って、両腕でほっそりとした両肩を抱いた。
兄に触れたかったから――愛しい人の熱を感じたかった。
それから長い金髪を一つに束ねた真っ白な項に頬をすり寄せる。エドワードは眼で威嚇するけれども、まだ手は出してこない。
それを良いことに脇腹から右手を進入させシャツを手繰り寄せる。
するとくすぐったいのだろう。クスクスと笑う声音。
『やめろよ。アル〜』
と、弾んだ声音がアルフォンスの耳元で転がる。
ぺろりと口唇を舐めて、アルフォンスの手は淫らに動き出した。ぷっくりと尖った乳首に到達すると、そこを集中して撫で回した。ちらりと相手の様子を伺いながら口唇は項から傷跡が生々しい右鎖骨へと滑ってくる。上気した声色が漏れ出し、エドワード自身の耳にまでその喘ぎ声が届いた瞬間、その行為は終わりを告げる。
エドワードは実弟に弄ばれていることに気づき憤慨し始めるのだ。
『いい加減に離せよ! アル!』
頬を色っぽく染めたエドワードの姿はとても艶っぽい。
そして、実弟の愛撫に反応してしまったのだろう。紅色に色づいた鎖骨辺りを手で隠し、肌蹴られた胸元のシャツを鷲掴みにしていた。
『あ、はははっ――』
無邪気にアルフォンスは笑って見せたが、本当はそれ所ではない。
自分の股間は熱くなっていた。
それを誤魔化してわざといつも笑っていた。
エドワードは気づいていたのだろうか。
今では――そんな過去どうでも良くなった。
禁忌を犯した後だから……。一線を越えてしまっていた。
『この野郎! 笑ってんじゃねぇーぞ!』
バチバチと乾いた音を鳴らしてエドワードはアルフォンスの頭を平手で叩いた。アルフォンスは笑いながら叩かれていた。
本当は――その続きをしたかった。
いつもそう想っていた。だけど――寸での所で自制が働いていたのだと思う。血をわけた実の兄であるということ。
もう……触れることは叶わないだろう。
アルフォンスは柱に預けていた背を起こし、キッチンから離れようとした。
すると彼を引き止めるように音は運良く奏でられた。水流の音と食器の重なり合う音。それに重なり合ってエドワードの驚いた声色。
「アッ!?」
その声を追うようにカシャンと弾けた音。
アルフォンスが振り返ると、床に硝子のコップが落ちて豪快に割れていた。
エドワードはぼんやりとその破片を眺めていた。
「に、兄さん?」
エドワードの身体がビクッと身震いした。
アルフォンスの存在に気づいてなかったのか、異常なぐらいエドワードの身体は跳ね上がった。警戒するようにエドワードはゆっくりと振り向いた。
そして、その傷ついた表情でアルフォンスは突き落とされる。
隙を見せてしまったエドワードは直ぐに、その表情を隠した。
「ご、ごめん。驚かせちゃった?」
咄嗟にアルフォンスは謝ってしまった。何も悪いことはしていない。
けれどもエドワードの心の中を覗いてしまった様な気がしたからだ。
「――エッ、あれ割っちゃた……」
エドワードは砕けた硝子の破片を茫然とした様子で見下ろしていた。アルフォンスは緊張を溶かすようにため息をそっとついた。
「いいよ。いいよ。僕が拾うから」
硝子の破片を拾おうと、エドワードの足元に膝をついた。
「あ、俺が片付けるよッ」
漠然としていたエドワードが漸く、自分の成すべきことを理解したようだ。
慌てた様子で破片を屈んで拾い始めると、エドワードの結い上げていた金髪がさらりと肩から落ちて来た。
その様を目の端でしっかり見ていたアルフォンスは頬をほんのり高揚させた。
些細なことでもアルフォンスにとって見れば色も香もある情景なのだ。
そんな想いを馳せてはならないと、わかっているのに本能的に感じてしまう。その証拠にじっとりと首筋が熱を持ち湿っていた。それを悟られないように必死になると、余計に身体が熱を孕んだ。
静かに二人はガラスを拾い上げた。傍から見たらそう見えるはずだ。
バツが悪いのか、エドワードは少しばかり口唇を尖らせていた。アルフォンスは場を和ませるようにクスッと笑ってみた。
けれどもこんな時に限って思わぬ出来事は発生するのだ。
「あ、痛ッ…切っちまった」
ガラスの破片は鋭利な刃物。互いを傷つけあう刃物が此処に存在している。
「大丈夫、兄さん?」
咄嗟にアルフォンスはエドワードの傷ついた左手を握った。
ガラスの破片は鋭くエドワードの指を傷つけていた。皮膚を一直線に切った傷は痕もわからない。それなのに鮮血の量は多い。
赤い紅色。
ぽたりと指先を伝っていく。
同じ遺伝子を組み込んだ兄弟の血液。同じ血がアルフォンスの中にも流れている。
握りしめた手をアルフォンスはじっと見つめていた。
触れてはいけないと、わかっていても咄嗟に触れてしまっていた。
アルフォンスが正気に戻った時にはエドワードは凍りつき驚愕の表情を露にしていた。
触れ合った手は忽ち払われた。
エドワードは鮮血で汚れる手を握り合わせ、小刻みに震えていた。今にも悲鳴が上がりそうな口唇を必死に噛みしめている。
アルフォンスは事実を突きつけられ愕然とする。
エドワードの琥珀色の瞳はぎくりと見開き、アルフォンスを瞳孔に入れた。それからすぐに後ろめたさから瞳を逸らした。
「――ッ、あ…わりぃぃ」
「……」
自分の身を守るように身体を縮めたエドワードは明らかに怯えている。
震えていた。
怖がっていた。
僕を恐れていた。
アルフォンスの身体から一気に血流が下がる。エドワードの怯えた身体は確かに震えていた。それでも体面を取り繕うようにエドワードは必死に顔を上げてきた。
健気な様が手に取るようにわかる。そして、傷ついた瞳は恐怖と闘っている。
見ていられなくなった。
それが――畜生にも劣る行為を迫った自分の所為だとわかっているからだ。
茫然と怯える兄を凝視していた。
後悔という名をアルフォンスは軽々しく言えない。
「――平気だからッ…」
歯の根が重ならない口唇でエドワードは必死に応えた。
そんなエドワードを見てアルフォンス自身が傷ついて瞳を逸らした。
愛しい人が自分を見ているのに、瞳を合わす事が出来ない矛盾に心は掻き乱れた。
アルフォンスはどんな顔をして兄を見て良いのかわからない。
とても滑稽だろうと思う。
「ごめん。ごめんなさい。兄さん――」
アルフォンスは幼子のように頭を下げた。
グッと握りしめた拳が痛い。
眼前で捕らえられた子羊のように怯えるエドワードにとって、アルフォンスは兄弟なのだ。
それ以上でもそれ以下でもない。
怯える魂がそう言っていた。
それがわかっているだけに辛い。
触れたい。あの人の熱を感じたい。
だって――ずっと傍にいて僕を愛してくれた人だから。
僕が愛した人だから。
「ごめん……」
アルフォンスはキッチンの扉を閉めた。
振り返ることなく、この場から逃げ出した。
アルフォンスが謝るたびにエドワードの胸は引き千切られそうだった。
どうすることも出来ない矛盾。
自分に背を向けるアルフォンスに手を差し伸べることも出来なかった。自分の尊厳を守ることで精一杯だった。
それでも――アルフォンスの想いが濁流のように押し寄せてくる。
痛い――狂おしい。
どうしたら良いのか。互いに想う事は一緒で。
「――ァルッ…くっそ、どうして」
如何なる理由があるにしろ――犯した罪の重さに日々苛まれる。
捻じ曲がった想いを重ね逢わすことは不可能。
上辺だけを取り繕うことは可能だ。けれども歪は容易に現れる。
こうして――。
背を見せるアルフォンスの姿を目で追いながら、エドワードは身を固くする。
決して手を差し伸べてはならない。だから頑なに身を縮める。
この世の摂理を恨むようにアルフォンスは激しく部屋を飛び出した。
行くあてはない。
それでも――傍にいたい。
桜 美由紀 2008 3/22