不変の真理  Unchanging Truths  第八幕


ひやりと風が頬を撫でた。
薄っすらとアルフォンスが目蓋を押し上げると、やはり馴染んだ光景に出くわす。
嵐の日から仮初の平穏は続いていた。
時々、二人の距離を認識させる為に神様が悪戯を仕掛けてくるが……。甘い誘惑にまだ屈服してはいなかった。
だが、アルフォンスのひたむきな情熱は一度爆発してしまった。それからと言うもの、その熱を抑制することは出来なかった。
今も窓辺で夜空を見上げるエドワードを抱きしめたいと思っている。
あの日からエドワードが物思いにふけている姿をよく見かける。何度か、その背に。しな垂れた彼に声を掛けようとしたが、失敗した。
身体全身で僕の存在を拒絶していたからだ。
ほんのちょっと触れ合っただけで、酷く傷ついた表情をした兄を見せ付けられた。
仕方がないことだ。
その身体を陵辱した。実の兄を。同性である兄を。
それでも渇望は抑えられなくて、この想いがとぐろを巻いている。
いっそのこと僕は兄の傍から離れるべきなのだろうかと。
でも――踏み止まっている。

エドワードとの繋がりがなくなるのは、アルフォンスにとって死んだも同然だ。
しかし、清澄な夜空を見上げ涙するエドワードを見ていて、己の非道な想いと行為に嫌悪を抱いた。
身体に触れることも叶わない相手を想って、エドワードの眼を盗んで自慰行為に耽る自分。
こんな自分はエドワードの傍にいる資格もないと。
消えてしまいたい。


もし消えたとしても兄さんは悲しまないだろう。


アルフォンスのベッドの下には革製の大きなトランクが一つ用意されていた。
大切な物は何一つ入っていない。
彼にとって一番大切なものは此処に置いて行くのだから――。
それでもこれさえあれば、当面の生活は凌げる。いつでもこのアパートから出て行ける。
此処まで準備をしているのに踏ん切りがつかない。情けなさが込み上げてくる。
仮想世界をアルフォンスはズルズルと漂流している。

「アル、今日の予定は?」
まるであのときの過ちが嘘のようだ。笑顔を交えてエドワードは声を掛けてくる。
そうなると、目の前の現実にどっぷりと浸かりたくなる。
「エッ……あの」
声が上擦る。
「ん?」
エドワードは首を傾けた。
「図書館に行こうかな。それからッ――」
出掛ける予定もないのに、無理やり予定を詰め込んでいる。
本当は片時も離れたくない。
狭い空間で顔を合わせていれば、永遠にエドワードと一緒にいられる。そんな錯覚さえ覚える。そんな束縛はエドワードにとって疎ましいものだろう。
後ろめたさを隠し持ちながらアルフォンスは微かに苦笑いした。その心を読んだのか、エドワードの視線は切なく下がる。
そして――エドワードの周囲だけ時間が止まった。
決断する時間が欲しかった。ほんの少しだけ、後悔をさせて欲しかった。
遣り切れなさに長い髪はさらりと垂れてくる。
「ど、どうしたの? 兄さん」
そんなエドワードを心配してアルフォンスは顔を覗き込んだが、やがてエドワードは前髪を掻き上げながら何ごともなかったように顔を上げた。
「何もねぇーよ」
すました口調で応えるが、からからに喉は渇いていた。勿論、にこりとアルフォンスに見せた笑顔は作り笑いだ。
けれどもエドワードは覚悟を秘めていた。
身体も心も凍らせようと――。
「ホント?」
気遣うアルフォンスをエドワードはするりとかわして、彼に背を向ける。顔を合わせると、決意が鈍ってしまう。心とは裏腹に表情は臆していた。
「あぁ、アルッ――なぁ…おまえ、早めに帰って来いよ。俺がうまいメシ作ってやるからさ」
一度口火を切ってしまえば、後は滑るように口は開く。仮初の微笑を伴って。
そんな彼の決意に気づくはずもなく、アルフォンスは軽口を叩くエドワードに戸惑ってしまう。
早く帰って来いと。
あの日から互いの行動は干渉しないようにしていた。特にアルフォンスはエドワードの行動に口を挟むことは出来なくなった。
それなのにエドワードからの束縛?
一体、どういう心の変化なのだろうと、アルフォンスは瞠目した。
それともこんなギスギスした生活に終止符が打たれるのだろうか。アルフォンスは胸に刺すような痛みを感じながら考えを巡らせていた。
とは言ってもアルフォンスにとって有利になることは何一つなかった。
それぐらいの覚悟を持って兄の身体を、総てを愛したのだから。でも――それは単に衝動に駆られただけかもしれない。
そんなことはないと頭を振った。
エドワードの心配そうな声がアルフォンスを正気に戻らせる。
「アル? 無理そうか?」
はにかんだような顔で覗き込まれると、アルフォンスの胸は跳ねた。
ああ、やはり僕は兄さんを愛しいと想う。
衝動に駆られたのではない。本能を抑制することは叶わないのだ。
「うん、わかったよ」
面映い気持ちで返事をした。
紛い物の世界がアルフォンスに幻想を抱かせる。
擬似同棲生活。
その中は恋しい人を触れることは出来ないけれど、同じ空気を吸うことが出来る世界。
しかし――扉を閉じると外の世界。
一抹の不安を抱えつつアルフォンスは出掛けた。
もしかしたら自分が用意しているトランクの出番かもしれないと。


夕刻より天候は荒れた。
確か、あの晩もこんな天気だったと記憶している。
エドワードは雨脚が強まってきた暗雲を見上げていた。窓を叩きつける激しい風は誰かが異を唱えているようにも聴こえて。
エドワードは本能的に両耳を塞いだ。
身体も心も凍らせるんだと、必死に言い聞かせていた。
アルフォンスはずぶ濡れ状態でアパートに帰って来た。

「わ、笑わなくてもいいじゃないか!」
冷たい雨に熱を奪われていてもアルフォンスは赤面していた。
「悪かったなッ……ククッ」
迎えたエドワードは濡れ鼠のようなアルフォンスを見て、声を殺して笑っていた。
以前ならば腹を抱えて笑い飛ばされていたが、エドワードの雰囲気は酷く大人びていた。
物静かで落ち着いた感じだ。しかし、それとは別の雰囲気が際立っていた。物憂げな彼の動作一つ一つに大人の色香を感じる。それらは無意識に万人を惹きつけていた。
それも全ては――あの日を境にして。


アルフォンスの杞憂に過ぎなかったのか、夕食の時間は普段通りに終わった。
エドワードの気まぐれだったのか。
アルフォンスに少しばかり余裕が出て来ていた。
「先にシャワー浴びれば良かったのにさ」
ポイポイと投げ渡される着替えをうまい具合にアルフォンスは受け取った。エドワードの様子は普段と変わらない。粗雑な動きをするくせに優しさが沢山詰まっていた。
だから――こんな軽口まで出てしまう。
「確かにね。でも――兄さんが作った晩御飯を先に食べたかったんだよ」
自然と愛情が込められた穏やかな笑みをエドワードに向けると、酷似した金色の瞳とぶつかった。その一瞬で思い出したくない過去が鮮明に現れる。
エドワードの瞳は自虐的に逸らされ、アルフォンスから逃げるように背を向ける。
気づいた時はいつも手遅れなのだ。
バスルームに向かうアルフォンスには、エドワードがどんな表情をしているか見なくてもわかった。
切ない表情で金瞳を泳がせているのだろう。
口を突いて出た些細なアルフォンスの言葉がエドワードを悩ませ、怯えさせてしまう。
わかっていてもこの想いは捌け口がなくて困っている。そう想うと屈折した想いが、もっと捻り曲がる。
最後に――抱きしめたい。
ぎゅっと抱きしめたい。僕が消える前に兄さんの身体を抱きしめたいと。








桜 美由紀 2008 5/22