月の子






  〜 Moon Child 〜
 act.20



















エドワードは真っ白な世界に一人ぽつんと立っていた。いつ意識が浮上したかも定かではないが、ぐるりと辺りを眺めた。
――何もない。音もない。真っ白な無の世界。そして、無限の世界が彼を包み込んでいた。
ふっと意識を虚無感から戻すと一つの門が現れた。気がつくと存在していたのだ。ぼんやり門を下から見上げていくとその威圧的な全貌が視界に入ってきた。
セフィロトのさかさまの樹。見覚えがあった。否、忘れるはすがないこの場所。
真理の門。真理の扉の中にエドワードは存在していた。何かを確かめるように両手の平を見つめていた。何も奪われていないことにほっと安堵の息を吐いた。


『バカだな! また、来たのかよ。鋼の錬金術師』


突如としてエドワードの聴覚に直接その声が聴こえてきた。いきなりのことでエドワードは思い切り飛び跳ねてしまった。


『わぁッ!? 何だよ。驚かせるなよ!』


エドワードの眼前でふよふよと真理が浮遊している。つくづく思うのだが、コイツの登場の仕方はいつも行き成りだ。もっと心臓に良い出現の方法を覚えろよと悪態をつくが、そんな悠長に構えている場合ではない。エドワードの身の内では切迫した事態が燻っていた。


『おい、オレは帰りたいんだ! 元の世界に帰してくれよ!』


例の如く真理は口の端をにやりと吊り上げていた。エドワードはこんな所でコイツと問答をしている場合ではないのだ。
そう、オレはあの温かな場所に帰りたい。ロイとあの子が待っている場所に帰らなくてはならない。


『オイオイ、何言ってんだよ!?』
『頼むから。まだ、遣り残したことがあるんだよ! 自分が産んだ赤ちゃんも抱いてないし、色々遣ることだってあるんだ。
――それにロイの所に帰りたいんだ』


相変わらずふよふよと上下に身体の向きを変えながら、真理は人を馬鹿にしたような動きをしている。その真理が一際、厭らしくにやりと笑いながら言うのだ。


『だから、それを言われてもなぁー』
『通行料…代価がいるのなら払うから。頼むからロイの所へ返してくれ』


真理はクルクルと出現する空間を変えながらエドワードに接近してきた。一気にエドワードの眼前に現れたかと思うと彼の額に、指を突き刺してふざけた様に口を開いた。


『代価も通行料も意味がないね。おまえは此処に辿り着いてないもんねぇ〜』
『エッ!? どういう意味だ…』


真理はまだ理解出来ていないエドワードをバカにしたように笑って、話を続けた。


『どうもこうもないさ! 此処はおまえの世界ではない。そして、この空間は真理の世界の中ではない。帰りたければ、自分で帰れ!』
『!?…』


エドワードは辺りを右顧左眄するが、一面の無限世界であることに変わりはなかった。


『鈍いねぇ〜。ほら、呼んでるゼェ〜』


そう言われると声が聴こえる。それは聞き覚えのある懐かしいロイの声だ。オレの名前を呼んでいる。その声の発声場所はこの限りない無限のどこか。この世界から出るためには扉を開けるしか、エドワードは術を知らない。そして、その通行料として代価を持っていかれるはずだが
――


『まだ、わかんねぇのか! 呼んでる所に行けよ。今度はちゃんと両脚があるだろうが! それもオレから奪い返したモノがよ』


エドワードは茫然としていたが、真理の言うとおりに一先ず駆け出した。この真っ白な無限の世界を闇雲に声がする方向に向かって走り続けた。息が切れる一体どのぐらい走り続けただろうか時間も定かではない場所。止ることなく掛けて抜けていくと…。



―――忽然と抜けた。



『エッ!?』


ストンと抜けるような浮遊感と共にそこから光が輝いていた。
門のレリーフの前では片膝を立てて、座っている真理。その表情はいつものように悪戯っぽく笑っている。真理は抜け落ちていくエドワードの背に向かって言った。


『迷ってくるなよ! 鋼の錬金術師』
―――にやり。


*        *        *


いつしか夜明けていた。時間の感覚が狂ってしまっているが、朝焼けの光が室内を煌めかせることで朝がやって来たことを知った。ロイはエドワードの蒼白な顔を見ながらそっと囁くように声を掛ける。


「エド、何だね。この日記は恥ずかしいではないか。アルフォンスが読んでしまったよ。エド、君に話したいことが沢山あるのだよ。だから…早く起きてくれ。
――頼むから」


エドワードを見下ろしているロイの瞳からぽたりと涙の雫がゆっくり降下していく。その雫は彼の真っ白な頬に落ちて弾かれる。蜂蜜色の髪に指を一本一本絡めて優しく梳いて、昨日の朝と同じように呼び掛ける。


――エド、ほら朝だよ。起きて…」


昨日と違うのは呼び掛ける声が鼻に掛かった涙声ということ。エドワードの頬に雫は落ちては波紋を広げるように散った。
ピクリと頬が反応して蜂蜜色の睫がプルプルと震え始めた。些細な反応をロイは見逃さず彼の身体に覆い被さるように見つめた。


「エドワード…!?」


重い瞼がゆっくりと押し上げられ、そこから虚ろな蜂蜜色の瞳が現れた。瞳は黒曜石の瞳を視界に映して何度か瞬きを繰り返した。口唇が薄く開かれてゆっくりと言葉を紡ごうとしていた。傍に寄らねば聞き取れないほどの小さな声だが、その声はロイに向けられているようだ。


「……ロイ、何で、泣いてん、だよっ…」


エドワードの細く白い腕がゆっくりと持ち上がり、ロイの頬に流れる涙を拭い取ろうと動いた。その弱々しい手をしっかりロイは掴まえて自分の頬に触れさせる。お互いのぬくもりがじんわりと伝わってきた。
生きている実感。愛しい人の体温。


「エド、良かった。目が覚めたのだね!」


長時間の緊張に固まっていた頬肉が緩やかに綻び出して笑顔を形作った。エドワードの蒼白な表情も少しずつ緩和してゆっくりと言葉を返していく。


「…うん、追い返された。
――真理に…」
「!?」


ロイには何のことを言っているのかわからない。それでもエドワードは今この世界に存在しているのだ。それだけで充分だった。ロイは彼の身体を確かめるべく、そっと抱きしめて白い頬に自分の濡れた頬を寄せた。エドワードの瞳から大粒の涙がほろりと零れる。二人の涙は混じり合い飾り気のない真っ白なシーツに吸い込まれていった。
何もかも新たに始まる瞬間。


「エドワード、おかえり。そして、私の子供を産んでくれてありがとう! 愛しているよ。私の生涯を掛けて、君と子供を守ろう。私の宝だ!」
――ただいま。……オレ、ロイの傍にいたかったから帰りたいって叫んだ。ロイのことを愛しているから。あ、赤ちゃん…オレが産んだロイの赤ちゃんは――っ…」


ロイに対しての愛情が堰を切ったように溢れ出して、彼の上擦った声が徐々に興奮していく。それを宥めるようにロイが優しく諭してやるのだ。


「ああ、勿論だよ。私も愛している。エド、子供は男の子だよ。元気にしているよ!」


エドワードの息が上がる。ぽろぽろと真珠の涙が零れて、自分の熱い想いを一生懸命に息を途切れさせながら言うのだ。そして、あの無限の世界で願ったことを彼に懇願した。


「っ…はぁ
――ロイ、赤ちゃん抱きたい…」



*        *        *



「もう、大丈夫だ。よく頑張ったな」


エドワードの脈を測りながら医師の顔にも安堵の色が見え始めた。脈をとった手が彼の頭にそっと乗せられて、大きな皺々の手が気持ちを伝えるように撫でられたのだ。エドワードは目を細めて、医師の抱擁を受け入れ薄っすらと微笑んだ。ベッド脇にはロイとアルフォンスの姿があった。「大丈夫」という言葉に張り詰めていた彼らの緊張感が一気に緩んで、呼吸することを忘れていた胸が上下した。彼らはやっと暗黒の世界から脱したのだ。
辿々しいが、はっきりと意思を持った声が医師の耳に聴こえた。


「ジー様、赤ちゃん…抱きたい」


縋るような瞳で首だけを動かしてエドワードは懇願した。ロイとの愛の結晶をこの腕で確かめたかった。
確かに峠は越したが、絶対安静の身体だ。もし、無理をして病状が悪化したら元の木阿弥となってしまう。医師は眉を顰めてロイに顔を向けて眼で訴える。「どうするかね?」とロイに決断を任せることにしたのだ。
エドワードの願望を叶えてやりたかった。急ぐことではない。体調が回復すれば嫌という程抱けるのだが、エドワードはこの願いを叶える為に必死に戻ってきたのだ。その願いを無視することは出来なかった。


「医師、少しだけでも…」


二人の懇願する瞳には流石の医師も参ってしまう。条件付で許可してやるとエドワードはふわりと嬉しそうな微笑を浮かべた。ロイは彼の頬に優しく口付けて耳元で「良かったな」と囁いていた。
ゆっくりと慎重にエドワードの衰弱した身体をロイは抱き起こした。ロイの逞しい両腕がしっかりと彼の肩を支えて自分の胸に身体を預けさせる。


「大丈夫かい? 辛くはないか…」
――っ、うん…」


やはり衰弱しきった身体は思うように動かない。少し、身体を起こしただけで眩暈と動悸を感じるが、我が子を胸に抱ける喜びには変えられなかった。
アルフォンスが真っ白な産着に包まれた「赤ちゃん」を抱いて彼らの傍にゆっくりと歩いて来る。姿がちらりと見えただけで、エドワードの鼓動が激しく跳ね上がった。にわかに緊張している彼を背後のロイが大きな手で優しく頭を撫で、緊張を解してやる。小声で「エド、身体に障るから落ち着いて…」と言い聞かせた。
ゆっくりと近づいてくる足音と共にエドワードの身体は自然と前のめりになる。それを背後からロイがしっかり支えてやる。眼前に現れた我が子の姿にエドワードは涙をぱらぱらと零した。その涙で視界が揺らめいてうまく見えない。震える口唇が我が子を呼んでいる。


「あ…あ、赤ちゃん…オレが産んだっ、はぁ、赤ちゃん」


アルフォンスが慎重に兄の両腕に「赤ちゃん」を抱かせてやる。


「はい、兄さん。赤ちゃんだよ」


エドワードは両腕の中で息づく小さな命の存在に感極まって、暫く声も出なかった。金色の髪がサラサラと顔から落ちるのをロイが優しい手付きで耳に掛けて、子供の眠りを妨げないように静かに囁いた。


「エド、君と私の子供だよ」


腕の中の赤ん坊は母親に抱かれて心地良さそうに大人しく眠っている。時折、小さな手が何かを掴もうと小さく動いていた。


「……小さくて可愛い。
――温かいよ。オレ達の赤ちゃん。トクトク鼓動が聴こえる…」


驚きと喜びにエドワードの表情は、花の蕾がゆっくりと綻ぶように変化した。瞳から真珠の雫をぽたりと滴らせて、自分の腕で安らかに寝息を立てる我が子に始めての挨拶を交わした。


――はじめまして、赤ちゃん。この世界に誕生してくれてありがとな!」



奇跡が叶った瞬間だ。夢が叶ったこの瞬間を二人は決して忘れないだろう。
願うこと、そして夢を描くことは大切だ。その願いを、夢を叶える為に人は努力をするのだから。



*        *        *



エドワードが危機的状況から脱して一週間が経過した。集中治療室からエドワードは一般病棟に移されていた。ゆっくりとエドワードの身体は回復しているのだ。完璧に快復するには暫く時間が掛かるだろうと言われているが、そんなこと気にもならなかった。家族が増えた喜びに湧いているのだ。その所為か彼の病室からは明るい笑い声が耐えない。


「兄さん、こうやって抱くんだよ」
「アル、おまえ慣れてるよなぁ…」
「当たり前じゃないか。兄さんが眠っている間、僕が赤ちゃんの世話をしていたんだからね」


さも自慢するように胸を張っているアルフォンスにエドワードがクスッと笑う。


「へへ…っ、わりぃーな。アル、助かるよ!」
「いいよ。兄さんが元気になってくれたから…。それだけで充分だよ」


エドワードは赤ちゃんを抱いたまま、アルフォンスに微笑み返した。この笑顔が欲しかったのだ。この微笑を貰えただけでアルフォンスの苦労はすっ飛んでしまう。勿論、それはエドワードから片時も離れないロイも一緒だ。


「そうそう、頭を支えてね。わぁ〜、やっぱり兄さんが抱いていると様になるね!」


思わず我が兄を美しさの余り褒め称えてしまう。エドワードは照れながらアルフォンスに「赤ちゃん」の抱き方を指導されている。暫く、寝たきりだったエドワードには全てに於いて新鮮でチャレンジ精神旺盛なのだ。そして、新米パパはエドワードの体調を考慮しながら赤ん坊に触れさせる。


「ホント、すっごい可愛いな…」


ロイはエドワードの身体を支えるようにベッドに腰掛けていた。もう、アルフォンスは見慣れてしまったのだが、子供が産まれて以来、二人は人目も憚らずべったり寄り添っているのだ。エドワードの身体が本調子でないのを良いことに、お熱い二人である。


「ロイ、赤ちゃんって小さいなぁ…。手の爪とか見てみろよ。小さくて可愛い…」
「本当だな」


にこやかに微笑みながらロイの手が赤ん坊のふわふわな頬を、エドワードにいつも触れるように優しく触れた。


「あぁ、柔らかい肌をしているね。それに男前だ。将来、君の奪い合いになるかもしれんな」


ロイは感悦の余り未来の話をした。それを気恥ずかしそうにエドワードはにっこりロイを見上げた。二人は視線を合わせて、三人の将来を思い描くのだ。
父親と母親に優しく包み込まれて、赤ん坊もその心地良さがわかるのだろう。気持ち良さそうに小さな欠伸を一つした。


「うわ、欠伸したぜ!!」


小さな動作を行なうごとにエドワードは歓喜の声を上げていた。傍に寄り添うロイも穏やかな瞳でじっと愛息の動きを見つめている。
赤ん坊は既にマスタング家のアイドル的存在だ。家族三人、エドワードのベッドから一向に離れないのだ。すうすうとエドワードの腕で寝息を立て始めた愛息をそっと受け取ってベッドに寝かした。


「少し、君も眠りなさい。身体が疲れるよ…」


エドワードもベッドに身を横たえて、傍で眠る愛息に優しい眼差しを向けている。ロイは二人の髪や頭を彼の両手を使って優しく撫で付ける。


「わぁーい、こうしてこの子と向き合って眠るのオレの夢だったんだ」
「エド、静かに…。起きてしまうよ」


ちょっと興奮気味のエドワードにロイは小さな声で話すのだ。エドワードもはっとして口元を手で抑え、視線を斜めに上げてにっこり笑う。記念に残しておきたいと思うぐらい素敵な笑顔を彼は沢山見せてくれている。既に彼やアルフォンスに隠れて、二人の寝姿を撮影している。その写真は司令部のロイ・マスタング准将のデスクにしっかりお披露目されていた。
それから間もなくして、気持ち良さそうな寝息が規則正しく聴こえてきた。エドワードは身体を少し丸くして横向きに眠っていた。とても穏やかな寝顔にロイは頬杖を突いて見ていた。
病室を見舞っている時はこうして日がな一日飽きもせず、見つめているのだ。
ふと、気づけばエドワードと愛息は同じ格好で向き合って眠っていた。


「やはり血を分けた親子だな。寝姿まで似ているとは…」


喉を鳴らして込み上げてくる笑いを抑えていた。ロイは至福の喜びを感じていた。これもエドワードが傍にいてこそ味わえるものだ。
ロイは愛情を込めて、二人におやすみのキスをした。



*        *        *



病室の扉を静かにノックする音が聴こえた。子供に掛かり切りの二人を気遣ってアルフォンスが扉を開けると、そこにはホークアイ大尉とハボック中尉の姿があった。少し、ばかり気を遣った低めの声で挨拶される。


「よッ、調子はどうだ? 無事に赤ん坊が産まれたそうじゃねぇか…」


エドワードが声の主に向かって、にっこりと微笑んだ。その笑みは光り輝く天使の微笑みのようだ。以前に比べて、輝きを増しているように思えた。 


「うん、心配掛けて悪かったな」
「エドワード君、おめでとう。ホント、一時はどうなるかと心配したわ」


ホークアイが心から嬉しそうな笑顔を見せてきた。そんな彼らにエドワードは頭を掻いて照れ笑いしていた。
こうしてこの世界に戻ってきた嬉しさを彼も実感していた。ロイの笑顔だけではなく、みんなの笑顔に再び会えた。否、会いたかったのだ。あの無限の世界でも彼らの顔はフラッシュバックして現れていた。
そして、今を生きるこの世界は輝かしい陽射しと歓喜で溢れかえっていた。
アルフォンスに「ほら、見舞いの品だ!」とズカズカと遠慮なく病室に入って、色んな品物をハボックは渡し始めた。


「うわぁー、こんなに沢山! 凄いやぁー、良かったね。兄さん…」
「ホントだ! みんなにお礼言わなくちゃな」


気にするなとハボックは片目を瞑った。
そこで信じられない光景に出くわしたハボックは目を疑った。ロイが赤ちゃんを抱いている姿が瞳に飛び込んできた。思わず目を何度も瞬かせて口をあんぐりと開けてしまったが、彼は小悪魔のようにキラリと瞳を輝かせた。上官を冷やかす絶好のチャンスだ。


「うわぁ!? 准将、その姿似合わねぇー。手元が覚束ないすよ」
「うるさい! ハボック、寄るな。うちの子が目を覚ますではないか…。今、眠ったのだぞ」
「まあまあ、そんなこと言わずに、俺の方が子供のあやし方とかうまいすよ。もったいぶらずに見せて下さいよ。どっちに似ているのかなぁー」
「貴様には渡さん! うちの可愛い息子に触れるな」


身長を生かして、上から覗き込んでくるハボックを阻止しようとロイは愛息を覆い被さるように抱いていた。既に親バカ振りが発揮されている。


「ロイ、見舞いに来てくれたんだ。中尉に抱かせてやれよ。ルカもみんなに抱かれると嬉しがるぞ…」


母親の言葉には逆らえないらしい。ロイは渋い顔でハボックに赤ちゃんを慎重に渡した。渡して腕に抱かせるまでロイは執拗に子供の抱き方を指導していた。まだ、自分の方が慣れていないくせに、それがわかっているエドワードとアルフォンスは笑いを堪えていた。


「あら、名前は決まったの?」


子供の奪い合いをする男連中を差し置いて、ベッドの傍に置かれた椅子に座ってエドワードを見舞っていた。


「うん! ルカっていうんだ。ロイが名前をつけてくれた。男の子だよ」
「まあ、そうなの。良い響きだこと。エドワード君、本当に良く頑張ったわね」


彼女の言葉には重みが感じられた。エドワードが妊娠してから影ながら支えてくれた人の一人だ。彼女は彼の身体を労わるように右手を優しく包み込んでいた。その優しさがじんわりとエドワードの右手から胸へと伝わって、彼の琥珀色の瞳に涙のフレームを作らせた。


――大尉、ありがとう。本当にルカに逢えて良かったぁー。そして、みんなにもまた、逢えて良かったよ…」


手の甲で涙を拭う彼の小さな金色の頭を彼女は胸に抱きとめた。ロイはむせび泣くエドワードに一瞬慌てたが、心情を察してホークアイの胸を借りることにした。唯、彼はエドワードの震える背中を優しく擦っていた。こんな涙ならば、涕涙させて良いのだ。それは感涙の涙だから。



*        *        *



アルフォンスはホークアイと見舞いの品を開けながら瞳を輝かせていた。贈り物の多くが赤ちゃん用品なのである。自分は赤ちゃんの世話担当だと勝手に決めているアルフォンスは目新しい用品を吟味している。
もう叔父バカが炸裂しているのだ。親バカと言えば、未だハボックと衝突していた。
病室内てんやわんやで騒がしい。しかし、小さな赤子はぐっすり眠っている。将来大物になりそうな予感だ。


「ところでエドワード君、ルカ君はどっちに似ているのかしら?」


ホークアイが衝突中の二人から上手く赤ちゃんを譲り受けて、腕の中ですやすやと眠っている赤ちゃんとエドワードの顔を見合わせた。


「う〜ん、どっちだろう。髪はオレ似かな。顔立ちは何となくロイに似てるみたい。毎日、色んな表情をして変わるんだよ。見ていて、すっげぇー楽しい。瞳の色は琥珀色だったよ。今は眠ってるからわかんないけどね」


エドワードはルカのふよふよの頬を指先で触れていた。むず痒そうに顔を歪ませるそんな表情でさえ微笑ましいのだ。


「そうねぇー。どちらに似ても、とっても愛らしい赤ちゃんだこと…」


他人に褒められると殊更嬉しくて堪らない。リクライニングしたベッドで彼は満面の笑みを浮かべて我が子を見ていた。


「へへ…ッ、ありがとう! 大尉…」


その後もあちらこちらと赤ん坊はみんなに抱っこされて、やっと父親のロイの腕に戻ってきた。エドワードはベッドに横たわって楽しそうに見ていた。「おっ、おまえは人気者で良かったな」とロイに抱かれた愛息の小さな手を彼の人差し指の腹で優しく触れた。



*        *        *



「ほぎゃー、ほぎゃー」


今迄、大人しく抱かれていた赤ん坊が始めて泣き出した。ロイは一生懸命に胸の中で泣いている愛息をあやし始めた。新米パパが奮闘するけれども、ルカはなかなか泣き止まない。困り果てた彼の眉は垂れ下がってしまい、あのロイ・マスタング准将とは到底思えない変貌振りだ。終いには、まごついているロイにハボックがにじりよって来てこう言うのだ。


「准将、俺があやしましょうか。絶対、俺の方が上手いですって!」


大家族で育ったハボックには歳の離れた兄弟の面倒を良く見ていたものだ。その腕を此処で見せつけようと躍起になっているのだが、そんな彼も生後間もない赤子は手に余るようだ。大の大人二人が総出でルカをあやしていた。


「煙草臭い、おまえに抱かせてやったからだ! それでむずかっているのだ!」


ロイの苦しい言い訳にみんなが思わず噴出してしまう。


「そんなことないですよぉ…」


ベビーシッター失格の通告を勝手に出されてハボックは項垂れていた。ロイは愛息を抱いて大きな手でポンポンとあやし、揺らしながらうろうろと歩き回っていた。クスクスッと鈴の音のような声がロイの耳に届いた。振り向けば、エドワードが身体をベッドからゆっくり起こしながらロイを手招きしていた。


「この子、お腹が減って泣いてるんだよ」
「そうなのか?」


ロイは確かめるようにルカを見下ろし、じっくり観察したがわからない。愛息の泣き声が何を訴えているのか新米パパには判別が出来ないのだ。


「兄さん、わかるの?」


今のところ赤子と一番長く接して、世話をしているアルフォンスでさえわからないのだ。


「やっぱり母親だからかしら…」


ホークアイも不思議そうな顔をしていた。


「う、うん。何となく…。それに胸が張ってきたんだぁ…」


胸がという言葉を他人のいる前で出してしまったことに羞恥心を感じて、エドワードの頬は一瞬にして薔薇色に変わった。しかし、恥じることはないのだ。母親ならば極普通のことだ。
両性体という稀有な身体を持って生まれたエドワードも子供を出産してから、少しずつ気持ちを切り替えているようだ。その表れでもある会話にロイは微笑ましく思っていた。
ロイは俯いたエドワードの顎をそっと上に向かせて視線を合わせて微笑んだ。


「それでは、頼んでも良いかね?」


やはり母親には叶わないとばかりに、ロイはエドワードの腕に泣き叫ぶ息子を抱かせた。エドワードはやわらかく笑って、泣いているルカの頬に自分の頬をくっ付けた。


「へへっ、やっとオレの所に返ってきたぁー。よしよし、お腹が空いたんだろう」


エドワードは白いパジャマの前ボタンを幾つか外して、スルリと左肩をシャツから抜いた。白く滑らかな肌と乳房が惜し気もなく露になる。
その場にいた男どもからゴクリと生唾を飲み込む音が聴こえそうな代物だ。只今、注目の的となっているが、エドワードはそんな視線を浴びても嫌な気はしなかった。
何故なら母親なのだ。一児の母親なのだ。両性体という垣根が取り払われる瞬間でもある。
エドワードが慣れない手つきでルカに母乳を与えてやると、ぐずっていた声がピタリと止った。エドワードの胸に大人しく顔を埋めて、乳房に吸い付いて乳を飲み始めた。小さな手を何やら動かしながら母乳を求める姿は目に入れても痛くないものだ。
エドワードは慈愛に満ちた麗しい表情でルカを一心不乱に見つめていた。この小さな生命が必死に母乳を吸っている姿は母性本能を擽らせるのだ。
勿論、それを感じるのはエドワードだけではない。
蜂蜜色の長い髪を緩く肩口で一つに結って、膨よかとは言わないが形の良い滑らかな白い胸を露にして赤ん坊に授乳する姿は聖母マリアのように穏やかな微笑をしていた。この場にいた全ての人の心を和ませて、そして虜にしてしまった。


「うわぁー、可愛い…」


病室内の誰しもが思わず感嘆の声を上げてしまう。絵から飛び出してきた聖母マリアに彼らは暫し時を忘れて魅入っていた。


「何だか、兄さんが母さんに見えるよ…」


アルフォンスはベッドに頬杖を突いて、昔を懐かしむような瞳で兄の姿を見つめていた。エドワードの容貌に様々な想いがそれぞれに飛来する。彼の姿にはそんな魔法が掛けられているようだ。
ロイは授乳中もエドワードから片時も離れずベッドの端に腰を下し、彼の肩を優しく抱き寄せて愛しい人の頭を撫でながら、我が子を見つめる姿はとても微笑ましい光景だ。
しかし、ロイはハボックには容赦しなかった。
彼が指に口を咥えて、茫然と頬を上気させてエドワードを魅入っているものだから、別の意味でロイはムカついた。
愛息に授乳するという神聖な行為でエドワードの大切な胸を披露してやったが、どうやらハボックは勘違いしているようだ。半分はロイの焼餅のようだが、その後ハボックは鉄拳を食らったのは言うまでもない。



*        *        *



赤ん坊は穏やかに眠っている。
あの満月の夜にエドワードのお腹に奇跡的に宿った「月の子」
今は満腹になって、エドワードの胸ですやすやと眠り続けている。その姿を、目を細めてロイは見ていた。二人の愛情を一身に受けて、ルカは健やかに成長していく。
そして、赤子は未来へ進む一歩を彼らと共に踏み出すのだ。














あとがき

お待たせしました。「月の子 act.20」完結!かれこれ本編完結迄一年掛かりました。
と、言いたいところですが…エピソードをまだ更新してません/汗。あれぇー当初の予定では
エピソードを全て更新してから本編を進めようと思ったけど…こんなこともあるのさ/笑。
無事にエドワードも生還しました。そして、念願の赤ちゃんを抱くことも出来ました。桜の書きたかったシーンは書けました!感無量です。
長い間、見守り続けてくれたみなさん、有難うございました。

当初のプロットより非常に内容の濃い作品になりました。だから、オフ本がP140なんです。
これもみなさんが「月の子」大好きと吼えてくれたおかげです。
こうしても再録集となりますが、初のオフ本となったのもこのサイトを訪れて、励ましてくれた皆さんのおかげです!本当にありがとうございました。
まだまだ、この二人にはエピソードとして書きたいシーンも実をいうとあります。しかし、時間がない桜です!それでも意欲はありますので、サイトを訪れた際にちょろっと読んでくれると嬉しいです。だってぇーまだエピソードを更新してないもん/笑。
それではどうも有難うございました。



桜 美由紀 2006/7/31











  
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