月の子
〜 Moon Child 〜 act.19 後編
いつの間にか深夜を過ぎてしまっていた。日付が変更していた。刻々と時計が時を刻む音がするだけの待合室にロイは唯一人、ソファーに掛けていた。柔らかいソファーだったが、今は冷たく石の様に感じられる。彼は長い時間を此処で張り付いていた。
眺め続けていた床にふっと色彩が加わった。満月が室内を明るく照らしていたのだ。いつから月明りが射し込めていたのか、ロイには定かではなかった。
満月。
そう云えば、エドワードの体内に命が宿ったのは多分こんな満月の夜だっただろうか。
ロイは徐に立ち上がると月が見える場所へと移動した。麗しい朧月が暗闇にぼんやりと霞んで見えた。ロイはその光の中に心を委ねた。
あの晩、月光を浴びながらエドワードと愛し合って、身体を重ねた。そして、奇跡のような願いが叶ったのだ。
どこか遠くで――泣き声が聴こえた。空耳かと思ったが、確かにロイの耳には届いた。産声が微かに響いていた。それも、その泣き声は誰かを呼んでいる。じっとロイはその声に耳を傾けていると、はっきりと自分の名前を呼ぶ声が近くから聴こえた。
「マスタングさん、早く!!」
その声にロイはすぐさま振り返った。
「エドは!?」
第一声はそれだった。ロイの愛する人の名前。そして、切迫した瞳を看護士に鋭く向けた。
「早く、来てください!」
彼女は内容も告げずにロイを急かした。その瞳は切羽詰っていた。ロイは彼女の後を走って追って行った。すると遠くで聴こえていた泣き声が鮮明に聞こえ出した。それはやはり産声だ。その小さな命の叫びが近づいてくる。
まさか……。ロイの胸が早鐘のように鳴り出し、身体はカタカタと戦慄いていた。そして、足は勝手に走り出していた。その先に漸く扉が存在した。彼女がバンッと勢いをつけて開いた。ロイは手を翳して、その光の世界に飛び込んだ。そこには白衣の看護士に抱かれた赤ん坊が泣いていた。
白い産着に包まれたフヤフヤの赤ん坊がロイの目の前にいたのだ。まだ、産まれたばかりで金茶色の産毛が薄っすらと張り付いていた。瞳はまだ閉じられているが、目鼻立ちが通った綺麗な顔をしていた。
愛しい我が子だ。エドワードが産んでくれた我が子だ。
ロイの身体に電流が走った。この時の感動は生涯忘れられないだろう。彼の頬に涙というモノが流れていた。
「はい。男の子ですよ。ちょっと小さ目だけど…元気ですよ」
ロイの腕は強張って震えていた。小さな小さな「赤ちゃん」は慎重に父親の腕に渡された。くしゃくしゃな顔で真っ赤になって泣いている赤ちゃん。看護士に腕を支えられて、恐々とロイは腕に抱いた。
温かい――。
エドワードのお腹に居た時と変わらない温かさにロイは感動した。いつも二人で疲れたロイを癒してくれていた。この温かさは変わらなかった。
ああ――叶わないと想っていた。その願いがこの腕の中にある。奇跡の赤ちゃん。
涙が溢れ落ちた。人前で泣くとは、軍人にあるまじき心の弱さだが、それでもロイは流れる涙を止めることは出来なかった。
ロイは尊き命を腕に抱きながら、この叶わぬ夢を現実にしてくれた愛する人を探した。そのエドワードの姿は此処にはなかった。
「エドワードはどこですか!!」
周囲に彼のことを訊くと一瞬でその場の空気が凍りついた。周囲の人々の顔も一気に曇っている。室内は赤子の鳴き声だけとなった。
「こちらです。早く――」
看護士の一人が静かにロイを手招きした。
分娩室とプレートを貼られた部屋に通された。嫌な予感は底知れなく続いていた。消毒液の匂いが漂う室内に入ってまず、彼の姿を探した。戸惑う室内で彼の視界に飛び込んできた。蜂蜜色の長い金髪。そして、白く細長い手足。
それに誘われるように近づくとエドワードが荒い息を吐き出して、苦痛に眉を寄せて呻いていた。あの琥珀色に輝く瞳は硬く閉じられている。身体のあちらこちらを管に繋がれて、痛々しかった。陶磁器のように美しく滑らかな白い肌は、色を失っていた。額や首筋に張り付く金糸がさらに彼の姿を儚く見せた。まるでこの世の人でないようだ。
ぐるりと周囲を見渡せば、皆心痛な面持ちだ。云わずとも知れる最悪の容態なのだ。
力なく投げ出された手を渾身の力を込めてロイは握り締めた。そして、その手の温かさを確かめる。
「――エド、目を覚ましてくれ…。エドワード――」
ロイは何度も何度も彼の名を呼び続けた。まだ温もりを感じるが、色を失っている彼の頬に手を添える。彼の声が瀕死の彼に届いたのだろうか。薄っすらと瞳が開かれた。
「エド、産まれたんだよ!! 私達の子供が――頼むから私を見てくれ!」
ロイの悲痛な叫びが、やっと届いたようだ。朧な焦点がロイに向けられた。それから、荒い息を吐きながら、聞き取れないほどの小さな声でロイに囁いた。それを一言一句聞き漏らさないように耳をそばたてる。
「――っはぁ…ロイ、産まれた? 赤ちゃんは――」
「ああ、男の子だよ。ほら…」
看護士に抱いてもらっていた赤ん坊を彼に見えるように位置を移動させた。
「見えるかね…。私達の子供だよ! エド、よく頑張ったね」
朧な視線だけをそちらに向けた。確かに我が子の姿がエドワードの瞳に映った。
「…赤ちゃん――泣いてるね…」
「君に抱いて欲しいのだよ」
ロイの顔を見て、こくりと微かに首が揺れた。息をするのもやっとのエドワードは、それでも言葉を続けた。
「うッ、ロイ――オレ、死にたくない。まだ、赤ちゃん抱いてない――」
エドワードの瞳から大粒の涙が零れた。念願の赤ん坊を抱くことも出来ない我が身に、悔しくて涙が溢れているのだ。
折角、願いが叶えられた。叶わぬと想っていた願いだ。それなのに、叶ってしまったら、今度はもっと欲が出てくるのだ。細やかな願いが一つ、二つ、三つと増えてくる。
お願いです。神様、叶えてください。
そう念じているように、ぽろぽろと彼の瞳から涙が溢れる。
それからエドワードの琥珀色の瞳はゆっくりと閉じられた。彼の意識は闇の世界へと堕ちて行った。その堕ちる狭間に赤ん坊の泣く声が遠くで聴こえていた。
ロイは彼が堕ちて行く様を瞳に、焼き付けたロイは必死に愛する人の名を呼び続けた。その瞳は揺れていて視点が合っていなかった。
「――エド、エド…!? 目を開けてくれ。私を置いて往かないでくれ…」
横たわる身体を必死に揺り動かして、覚醒を試みた。そんなロイの両腕を医師がガシッと掴んだ。阻まれた腕の主を見上げたロイに医師は残酷な言葉を告げる。
「今夜が峠だ。すまん…ッ、後はこの子次第だ――」
ロイの瞳に映った医師も涙を流していた。あれだけ一生懸命に胎児とエドワードの身体を心配していたのだ。ある時は、毎日自宅に往診に来てくれていた。事も有ろうにロイやアルフォンスを気遣ってくれていた。それだけ、大切にエドワードを見守り慈しみ合ってきたのだ。
ロイは涙に暮れながら、エドワードの身体を掻き抱いていた。
* * *
病室のベッドに移されたエドワードの傍にロイはいた。唯、居るのである。心は此処にはなかった。ぽっかりとロイの心には空洞が空いてしまったのだ。それでも、ロイの手はしっかりエドワードの左手を握っていた。この手を放して遠くへ飛び立っていかないように、ロイが繋ぎ止めていた。
依然、虫の息をエドワードは繰り返していた。彼の身体には無数の管や配線に絡められている。その先に伸びた機械がピッピッピッと冷たい音を規則正しく鳴らしていた。そんなエドワードの姿が余りに惨くてロイは正視できずにいた。
この選択は間違っていたのだろうか。叶わない願いを願った所為で愛する人を失うのだろうか。これが等価交換。世界の理。子供を願った為に代価を払う。その代価は愛するエドワード。錬金術の基本だ。それでも、二人は奇跡を願ったのだ。生命は錬金術で創れるモノではない。そう想って、これまで頑張ってきたが…。
ロイは己を責めずにはいられなかった。人殺しには幸せを願ってはいけないのだろう。全ては己の罪。許されていない罪の所為。やはり産ませるべきではなかったのか。ロイは自分を責め続けた。
そして、虚しく空洞に風が吹き荒んでいく。
機械の規則正しい音しか聴こえない室内に別の音が加わった。アルフォンスが静かに扉を開けて入って来たが。
今のロイには何も感じていなかった。何も見えていなかった。彼の瞳にはエドワードしか映っていない。背後に立っているアルフォンスを振り返ることもない。唯、エドワードだけを見つめ続けていた。
「准将……」
返事は返ってこない。それでも彼は何度もロイを呼び続けたが、ピクリとも反応しない。果てには、ロイの胸倉を掴み上げて立ち上がらせた。その腕はガタガタと震え、アルフォンスは辺り構わず大声でロイの意識をこちらの世界に引き戻す為に叫んだ。
「しっかりして下さい!! お願いですから…」
「――君か…」
やっとロイから声が聴こえた。だが、それには力が乏しく悲しみに溢れていた。アルフォンスは彼の瞳を見て、衝撃を受けた。瞳は何も映し出されていなかった。黒い硝子玉のような瞳。こんなに寂然とした彼の姿は始めてだ。
「……僕の方こそさっきはすみませんでした」
「――いいのだよ。全ては私の所為だから…」
憤然とした。彼の口から聞きたくない内容だった。アルフォンスは握り拳に力を込めて、声を張り上げた。
「そんな!! あなたの所為じゃないですよ。さっきは酷いことを言ってしまったけど、わかっています。二人がどんなにこの日を待ち望んでいたか知っています。自分を責めないで下さい」
微かにロイの瞳が輝いたように見えた。
「兄さんの容態はどうなんですか」
ロイは首を左右に振った。いつもしっかりとエドワードを抱きしめていたはずの逞しい背中が小さく見えた。この背中に自分も何度となく助けられていた。そう想うと益々悲しくなってしまう。アルフォンスはいつもの彼に戻って、爽快な笑顔で兄と自分を導いてくれることを祈った。
「赤ちゃん、見てきましたよ。小さいですね。でも、可愛かった…」
「――エドに抱かせてやっていないのだよ」
少し標準より小さかったので、保育器に預けられていた。
その小さな手を思い出した。小さな手がロイの指を一生懸命に握り返して来たのだ。本当に愛らしかった。エドワードに抱かせてやりたかった。彼がこの日の為に胎の中で大切に十月十日育んできたのだ。ロイは彼のへこんだ腹に視線を下して、優しく撫でた。
此処はロイにとって聖域だったのだ。その胎の体温、鼓動で自分を癒してくれていたのだ。勿論、エドワードの微笑みの下で。
だけど、エドワードは昏々と眠り続けている。その瞼を開いて、琥珀色の瞳を見せて欲しかった。そして、いつもみたいに微笑を返して欲しかった。「何やってんだよ。この無能…」とその円らな口唇で悪態を吐いて欲しかった。
「――エド、目を醒ましてくれ!!」
何度も叫び続けて、ロイの胸ははち切れそうだった。無我夢中にその身体を掻き抱く姿はアルフォンスに涙を流させた。我知らず、その広い背中に手を添えて愁傷を分け与えてくれるようにアルフォンスは願った。彼も悲しいのだ。たった一人の大切な兄を失いたくない。二人は悲嘆に暮れていた。
ふと、アルフォンスは思い出したように立ち上がり、エドワードが入院する為に彼自身が用意していたバックの中をゴソゴソと漁り始めた。そこから出て来たのは一冊の日記帳。それをロイに手渡した。
「僕もこの部屋にいる時に見つけたんですよ。読んで見て下さい…」
「これは?」
渡された物をじっと見つめたが、彼はそれに対して何も言わず微苦笑を浮かべた。
「僕は赤ちゃんの世話を手伝ってきます。兄さんが目覚めたときに役に立てるように学んできます。その間、兄さんのことを頼みますね」
アルフォンスの手は昏睡状態の兄の頬に温もりを確かめるように触れた。
「兄さん、早く戻っておいでよ。赤ちゃんも僕も、そして兄さんが一番好きな人も待ってるよ。お願いだからさ…」
アルフォンスの涙声がロイの心に波紋を広げる。悲しんでいるのは自分だけではないのだ。その悲しみの中から這い上がろうとするアルフォンスの背中が頼もしく見える。ロイもこの辛苦から立ち上がるべく渡された日記に視線を下した。それには「みるんじゃねぇ、さわんじゃねぇ!」と表紙にデカデカとエドワードの字で書かれていた。それだけで、つい頬が緩んでしまう。少し躊躇いがちにロイの手がページを紐解いていく。
長い時間を掛けて、ロイは日記を読み終えた。否、まだ日記には終わりはない継続中なのだ。
エドワードの日記。
彼のこれまでの心情が備に書かれていた。ロイ・マスタングへの愛情が詰まっていた。恥かしがり屋な彼は伝えられなかった愛情を日記に綴っていたのだろう。それを笑いと涙を交互に出しながらロイはじっくり読んでいった。
これは日記という名のラブレターだ。
ロイの瞳は真っ赤に充血していたが、穏やかな瞳で昏睡を続けるエドワードに呼び掛けた。
「君は何をコソコソ書き溜めていたのだね。愛情はちゃんと口に出して貰わないと困るよ」
照れたように笑うロイがエドワードの額に優しく口付けた。それは早く目覚めてくれるように願いを込めたものだった。
厚く引かれたカーテン越しに朝靄と一緒に柔らかく煌めく朝陽が満ちようとしていた。
すみません(汗)
お待たせしました。焦らしプレイをやってしまった。
シリアスモード炸裂? です。
でも、ちゃんと「赤ちゃん」は無事に産まれましたよぉ…。男の子です!
宜しくです。あ、エドの日記なるものを途中まで書いていた。さあ、これはどうしようかな。
読みたいですか?
桜 美由紀 2006/7/1
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